感染者
とにかく早く、知らせなければ。
康太は息を切らせ、風邪をひいて大学を休んでいる真由のアパートへと急いだ。
康太の恋人・真由は大学の近くに部屋を借りて一人暮らしをしている。
ここ二、三日、彼女が風邪で寝込んでいるのは、不幸中の幸いといえた。
(早く──!)
アパートの階段を駆け上がり、真由の部屋の玄関ドアを激しく叩く。
「真由、おれだ! 開けてくれ!」
チャイムを鳴らし、続けさまにドアを叩く。
やがて、内側から鍵を開ける音が聞こえ、おもむろにドアが開いた。
「なに、突然。明日は大学に行くって、メールしたでしょ?」
「そんなことより!」
素早く玄関の中に入った康太は、ドアを閉め、鍵をかけた。
「どうしたの、康太? 顔が真っ蒼よ」
パジャマの上にカーディガンを羽織った真由が怪訝そうに首を傾げる。
「“伝染病”のこと、誰かから聞いてるか?」
「伝染病? って、インフルエンザとか? わたしのはただの風邪よ。もう治ったけど」
「そんなんじゃなくて、もっと深刻な……」
説明しようとしたが、適切な言葉が見つからなかった。
「とにかく危険なんだ。“伝染病”のせいで大学は閉鎖になったし、街も──」
康太はどさっと真由の部屋のソファーに腰を下ろした。
「……昨日から、誰もここへは来てないか?」
「うん。それがどうかした?」
康太はほっと息をついた。
「なんか飲む?」
「水でいい」
「うん」
真由が冷蔵庫から出してきたペットボトルの水を康太は受け取り、キャップをひねって、飲み口にそのまま口をつけた。
ごくごくと水を飲む康太の喉を、真由はぼんやり眺めていた。
「疲れてるみたいね」
「走りづめだったからな。真由は思ったより元気だな」
「熱、下がったから。でも、お腹すいた」
「なんか作ろうか?」
「いい。康太はろくなものが作れないから」
「ひでえな」
抗議しようとした康太の手からペットボトルを取り上げ、真由はソファーに座る彼の隣に座った。
「それより、こっち」
そっと顔を寄せてキスをねだると、康太も逆らわずに唇を寄せてくる。
触れた真由の唇はひんやりと冷たかった。
真由の身体を腕に抱いた康太は、ようやく安堵したように息を洩らした。
「今日はここに泊まってもいいか?」
「いいわよ」
答えた真由はソファーに康太を押し倒す。
そのまま彼の首筋に口づけて、そこを、そっと舌先で舐めた。
康太がくすぐったそうに苦笑する。
「なんだよ。おまえ、珍しく積極的だな」
ふふ、と真由は笑った。
「ねえ、康太。康太の言ってた“伝染病”って、もしかして、これ?」
首筋で吐息のように真由がささやく。
「え?」
視線を上げた康太の眼に映ったのは、妖しく嗤う見たことのない真由の顔。
瞳の色が赤い。
弧を描く唇が紅い。
牙が光る。
「……っ!──」
眼が覚めた。
真夜中だ。──夢だったのか。
肩で大きく息をして、額の冷たい汗をぬぐい、康太は自室のベッドの上でのろのろと重い上体を起こした。
枕元の時計は午前一時過ぎを指している。
「……嫌な夢だな」
くしゃりと髪をかきあげ、もう一度横たわろうとしたとき、微かな音が響き渡った。
せわしなく窓を叩く音。
外から真由の声がする。
「康太……康太」
「真由?」
ベッドから立ち上がった康太はベランダに面した窓のカーテンを開けた。
仄暗い外には真由がいる。
「ここを開けて。わたしを中へ入れて。追われて──逃げて──ここまで来て……」
恋人の切羽詰った声を聞いて、康太は慌てて窓を開けた。
「真由! どうしたんだよ。ここ、二階だぞ? どうやって登った」
深夜、街は森閑としている。
冷たい夜の大気が、肌の奥をぞくりとさせた。
「“伝染病”のことは聞いてるでしょう? 逃げてきたの。お願い、助けて」
「“伝染病”? 何のことだよ。それは夢だ」
「夢じゃないわ。現にわたし──」
夜風からかばうようにして、康太はうつむく真由を部屋の中へ招き入れ、一緒にベッドの上に腰を下ろした。
空気が静かだ。
「こんな時間に出歩いていたのか?」
「そう、襲われて──喉が渇いたわ」
うつむいていた真由が顔を上げた。
陰になっていたその顔を朧な月明かりが照らし出す。
真由の唇は鮮血に濡れて紅く、愛らしい口許には牙が光っていた。
「……!」
そして康太は伝染病の正体を知った。
──“伝染病”は、確かに街に蔓延しているのだ。
〔了〕
2018.2.8.