ラッキーアイテム

 一月にしては暖かな一日だった。
 午後の一番陽の射す時間帯、街を歩いていた咲は不意に湧き起こった歓声に、ふと足を止めて振り向いた。
 教会の鐘が鳴っている。

 ──ああ、結婚式なのね。

 カジュアルな装いにベージュのクローシュをかぶった咲は、この格好で教会から出てくる新郎新婦を待つ人々の中に入るのはどうかと思ったが、その幸せに満ちた雰囲気に惹きよせられるように、ドレスアップした参列者の後ろに歩み寄った。

 インテリア雑貨店に勤める咲は、この日、オフだったが、資料を取りに店のオフィスへと顔を出した。
 オフィスにいた同僚が読んでいた雑誌を横から覗き、何気なく目にした星占いのページ。
 占いなど信じているわけではないが、山羊座の今週のラッキーアイテムが帽子、という言葉がなんとなく頭に残った。
 そして、先ほど通った大通りの帽子屋のショーウインドウに飾ってあったクローシュをたまたま気に入った彼女は、それを衝動買いしたのだ。
 すとんとしたシルエットのそれを、今、かぶっている。
(たまにはいいわよね。衝動買いも)
 だって、今週の私のラッキーアイテムだもの。
 きっと何かいいことが起こるわ。

 教会の扉から新郎新婦が出てくるところだった。
 ライスシャワーを浴び、幸せそうに歩いてきた花嫁が、微笑みながらくるりと後ろを向き、手にしたブーケを参列者に投げた。
 ひときわ高まる歓声と、宙を舞うブーケに手を伸ばす若い女性たち。
 そのとき、強い気まぐれな一陣の風が吹いて、少し離れたところにいた咲のほうへとブーケが吹き飛ばされた。

 これは幸せのおすそわけ?

 無意識に咲はそれに手を伸ばしていた。
──っ!」
 上にばかり気を取られ、石畳の道に高いヒールを履いた足を取られてしまった。
「あ……」
 倒れる──
 そう思ったとき、すぐ後ろから伸びてきた大きな手が咲の両肩を支えた。
 よく知った気配。
 がっしりとした腕に受け止められ、咲はほうっと息をつく。
「ったく、危ねえな。何やってんだよ、おまえは」
「あら」
 自分を転倒から救ってくれた人物をちらりと見遣り、咲はブーケの行方を目で追った。
 一人の娘がブーケを手に満面の笑みを湛えているのが見えた。
 その娘を友人らしい何人かが取り囲み、彼女を中心に笑いあっている。
「あらじゃねえ。何ぼけっと空なんか見てんだ。おれがいなけりゃ派手にすっ転んで頭打ってたぞ?」
「ブーケを投げた花嫁も、やっぱり他人が受け取るより、親しい人に受け取ってほしいわよね」
「おい。おれが目に入ってるか?」
 体勢を整えた咲の肩から手を離し、呆れたように大地が言う。
 大学生の大地は半年ほど前からつき合っている咲の恋人だ。
 咲のほうがひとつ年上だったが、大地に言わせると「おまえは天然」だからちょうど釣り合いが取れているらしい。とはいえ、彼は自分が学生で彼女が社会人であることを地味に気にしている。
 咲は改めて年下の恋人に向き合うと、感謝の印に微笑んでみせた。
「ありがとう。助かったわ」
「全く。たまたまおれが通り掛かったからよかったものの、危なっかしくて目が放せねえな」
「ごめんなさい。あれに気を取られていたの」
 大地は憮然と咲の示す方向に目をやる。
「ブーケ? あんなもんが欲しいのか?」
 大地とて、花嫁のブーケをキャッチすることの意味を知らないわけではない。
「で、おれの声も耳に入らなかったってわけか」
「呼んだの?」
 むすっとなった大地は不機嫌そうに両腕を組んで咲を軽く睨んだ。
「ああ、何度もな。おまえは振り向きもしなかったが」
「大地、後ろ姿で私だと判ったの?」
 買ったばかりのクローシュを目深にかぶっている。
 彼はこれをかぶった彼女を見るのは初めてのはずなのに。
「バーカ。後ろ姿だろうが何だろうが、おれが咲を見間違えるかよ」
 当然だと言わんばかりに言い捨てて、歩き出す。
 そんな彼のあとに、ふわりと笑んだ咲も続いた。

 しばらく無言で歩いていたが、前を向いたままの大地が不意に言葉を放った。
「ああいうの、憧れてんのか?」
「え?」
「結婚。……したいのか?」
 真剣に考え込むような大地の口調に咲はくすりと笑みをこぼす。
「嫌だ。そんな意味でブーケを受け取ろうとしたんじゃないわ。新郎新婦があまりにも幸せそうだったから、自然と手が出てしまっただけ。まあ、ウエディングドレスには憧れるけど」
「そっか」
「なに? 大地が着せてくれるの?」
「そっ、それは……!」
 そんな軽く言う話じゃねえだろうが──
 口の中で悪態をついた大地は、突然はっとした。
「ちょっと待て。おまえ、確か一月生まれじゃなかったか?」
「そうよ」
「何日だ?」
「二十日」
「今日じゃねえかっ!」
「そうよ」
 あっさりうなずく咲の様子に、大地はわしわしと短い髪をかきむしった。
「なんでもっと早く言わねえんだ!」
「だって」
 と、珍しく咲は拗ねたように口を尖らせる。
「十月に大地の誕生日がきて、せっかく同い年になったのに、また私がひとつ上になってしまうもの。勿体ないじゃない?」
「おれの立場がねえだろ! ああくそっ! 何にも用意してねえぞ?」
「いいわよ、気持ちだけで」
「よかねえだろ。よし、今から買いに行くぞ」
 ぐいと咲の手首を掴んだ大地は、方向転換をして大股に進み始めた。
「ちょ、ちょっと、大地。どこへ行く気なの?」
「大通りの宝石店だ。指輪、買ってやる」
 投げやりな大地の言葉に咲は大きく眼を見開いた。
「指輪?」
「言っとくが、高いもんは買えねえぞ? 金ねえからな」
 驚いた咲は自分を引っ張る大地の腕を掴んでぐいと引き寄せ、彼の歩みを止めさせた。
 そして、まともに彼女のほうを見ない彼の顔を覗き込もうとする。
「悪いかよ」
 ちらと見えた大地の顔は耳まで真っ赤だった。
「おまえは気にしてないかもしれねえが、おれはおまえとの結婚も視野に入れている。まあ、ただの学生のおれが今すぐ婚約指輪を買ってやる余裕はねえけど、冗談みたいに流されるのは面白くない」
 遠回しなプロポーズとも取れなくはない内容だが、咲を見据えた大地の視線は、まるで何かに挑戦するような光を帯びていた。
「だから、少しは咲も真面目に考えてほしい。とりあえず今日買うのは誕生日プレゼントだ。ちゃんとした婚約指輪を買ってやるまで、男よけに左手の薬指にそれ嵌めとけ」
 口調は威圧的だが、いつになく多弁にこんなことを言う彼の恥ずかしさは如何ばかりかと思うと、咲は弾むような気持ちとともに、こみ上げる可笑しさを噛み殺すのに苦労した。
 ただ、嬉しい。
 ただ、幸福だった。
 彼と出逢えた奇跡に、彼が自分を愛してくれた奇跡に、ただ、感謝したい。
「うん。ありがとう。大地とのこと、私もちゃんと考えるわ」
 それを承諾の言葉と受け取った大地は、小さく笑みを返すと、咲の手を取った。
「行くぞ」
 歩き出そうとしたが、それでも立ち止まったまま動かない咲を大地は苛立たしげに振り返る。照れ隠しのように、不満そうに彼女を睨む。
「なんだよ、不服か?」
「ううん、そうじゃなくて」

 教会の鐘がまだ鳴っているのが聴こえる。
 大気に融けていくその余韻を惜しむかのように、咲は少しだけ振り向いて、青空を仰いだ。

 あれは私たちへの祝福の鐘?
 あなたの気持ちがまぶしいと言ったら、あなたは笑うかしら。
 なんのてらいも屈託もない、そのまっすぐな想いが私の心を響かせる。

「ふふっ」
「なに笑ってんだよ」
「占いなんてものも、まんざら捨てたものではないと思って」
 眉をひそめ、大地が怪訝な表情を作る。
「どういう意味だ?」
「いいの、行きましょう?」
 つながれた手を今度は咲が引っ張った。
 大地が向かおうとしたほうとは逆の方向へ。
「おい、どこ行くんだ?」
「大通りはこっちよ」
 一瞬、ばつの悪そうな顔をした大地だったが、幸せそうに微笑む咲に引き込まれるように、すぐに表情を和らげた。
「ねえ」
 並んで歩を進めながら、思い出したように咲が言う。
「ん?」
「星占いでね、今週の私のラッキーアイテムは帽子だったの」
「で?」
「このクローシュを買ったら、いいことが起こったわ」
 話しながら、ちらと咲が隣を歩く大地の様子を窺うと、案の定、彼は鼻で笑い飛ばした。
「占いなんか信じてんのか? そんなの偶然に決まってるだろ」
「大地ならそう言うと思った」
 咲はくすくすと笑う。
 そして、悪戯っぽい視線を再び恋人に向け、空に向けた。
「何だよ、その思い出し笑いは」
「内緒よ」
 幸福をいっぱいにつめ込んだような青い空。
 何気なく目にした星占いのページ、その天秤座の項目に書いてあったことを思い出す。

 ── 今週のあなたのラッキーアイテムが指輪だったなんて、教えてあげないわ ──

Fin.

2008.1.29.
加筆修正 2022.1.9.

過去に書いたものをリメイク。