つくもがみ

 わたしの家は、何百年も続く旧家です。
 今の世では時代錯誤に見えるほどの大きな古い屋敷は、広い座敷が幾部屋も連なっています。
 父様と母様とおばあ様、そして、姉様とわたし。
 それがわたしの家族です。

 わたしは歩くことができません。
 そんなわたしを憐れに思ったのか、おばあ様は物心ついた頃からわたしを非常に可愛がってくださり、得意な和裁で、着物や小物をたくさん作ってくださいました。
 可愛らしいお手玉などは、眺めるのも楽しく、特にわたしのお気に入りです。

 ある日、アンティークというのでしょうか、古いけれど豪華な振袖が手に入り、おばあ様がわたしのサイズに縫い直してくださることになりました。
 それは、深い藍色の地に、菊をはじめとした四季の花々が百花繚乱と咲き乱れている、たいそう美しい着物です。
 中学生の姉様は毎日学校。
 姉様の学校の話をしてもらうのが好きですが、塾やお稽古事にも忙しい姉様に甘えてばかりはいられません。
 そんなわたしには、おばあ様の手で少しずつ縫い上げられていく着物の様子を見ることが、日々の楽しみになりました。

 部屋には姉様の十三参りの写真が飾られています。
 美しく着飾った姉様が、桜を背景に笑っている──その写真にわたしは憧れます。
 あんなふうに、わたしも晴れ着を着て、自分の足で立ってみたい。おばあ様が縫ってくださる、百花に彩られた藍色の振袖をまとって。
 それがわたしのささやかな願いなのです。

* * *

 深夜、ふと眼が覚めました。
 微かな音──声?──が聞こえます。
(帰りたい……帰りたい……)
 屋敷は深閑としています。
 そこにわだかまる、か細い声。
(……帰りたい……)
 わたしはぞっと身の毛がよだつ思いでした。
 姉様──
 いえ、姉様の声ではありません。姉様の部屋はここから遠い。
(……)
 心臓がどきどきと音を立てます。
 暗くて何も見えません。
 聞きたくないのに、聞き逃すまいと耳をそばだてます。
(……)
 そうして、どれだけ時間が経ったでしょうか。
 ──大丈夫、聞こえない。きっと空耳。これは空耳。
 ぎゅっと眼を閉じ、必死に眠ろうとします。
 聞こえた声は、夢か、きっと気のせいなのでしょう。

 けれど、次の夜も、聞こえました。
(帰りたい……帰りたい……)
 家の中が暗く静かになったあと、確かに聞こえたその声に、心臓が壊れそうなほどどきどきして、背筋に戦慄が走ります。
 どんなに眼を見張っても見えるのは闇。
 聞こえるのは静寂。
(帰りたい……)
 全身に鳥肌が立ちました。
 暗闇を分けるような声は、耳から聞こえるのか、直接脳に響いているのか、それすらも判りません。
 ──だれ……?
 わたしは反射的に問いかけていました。
 勇気があったわけではありません。恐怖に混乱して、声を出さずにはいられなかったのです。
 ──誰? どこに帰りたいの……?
 闇の中。
 しんと張りつめた空気。
 しばらくして、闇は答えを返しました。
(どこって、うちよ。ここはどこ? ここは知らない場所だもの)
 細い泣き声まで聞こえてきます。
 女の子の泣き声のようです。
 ……怖い。
 ……怖くて、怖くて……
(わたしは嬢ちゃんの物。お嫁に行くときだって、嬢ちゃんはわたしを大切に連れていってくれた。なのに、ここはどこ? 嬢ちゃんはどこ──?)
 嬢ちゃんって誰。
 堰を切ったように話し出す何者かのすすり泣きが聞こえます。
(ずっとずっと一緒だった。なのに、どうして知らない家にいるの……?)
 なぜ、そんな声が聞こえるのでしょう。
 本当にここに誰かがいるのでしょうか。
 わたしは恐怖で震えが止まりません。
(どうしてこんなに小さく裁断されているの。これでは嬢ちゃんに着てもらえないわ。まるで、これではわたしはあんたの物みたい)
 わたしの、物──
(わたしが見えないの? そんなに大きな眼を開いているのに)
 ──え、……え?
(馬鹿ね。そんなに震えて。わたしのことが理解できないの?)
 ──
 わたしは直感で悟りました。
 ──着物……?
 声の主は、百花繚乱を描いたあの、もしかして、あの古い藍色の、着物……?

 わたしは夜中の声のことを誰にも言いませんでした。
 言ったところで、誰が信じてくれるでしょう。
 自分でもよく解りません。信じられません。
 朝になると眼が覚めて、現実の世界が戻ります。ではやっぱり、あれは夢。
 夢? うつつ? 夜中にだけ聞こえる声。
 着物が喋った? それではまるで──

 付喪神つくもがみ──

 そんな言葉が脳裏をよぎりました。

 朝になると、全て夢だったような気がします。
 美しい藍色の着物は静かに在ります。
 着物が喋るはずもありません。
 父様も母様も姉様も、そして、おばあ様も、穏やかに平和な毎日を送っています。
 わたしが不穏な出来事を口にして、日々の生活をかき乱すわけにはいきません。

(帰りたい……)
 持ち主に大切にされた古い器物には魂が宿ることがあるそうです。それを付喪神というのです。
 本当に、あの着物に魂が宿っているのでしょうか。
 夜ごと、女の子の声はわたしに帰りたいと訴えます。
(帰りたい……)
 夜の闇に細い声。
 ぞっとします。
 もう頭が麻痺してしまって、何が何だか解りません。
 そもそも、わたしに何ができるでしょう。
(嬢ちゃんはどこ? 嬢ちゃんに会いたい……)
 この前、おばあ様と姉様が話していました。
 この着物は百年も前のものだと。
 わたしはそれを声の主に伝えます。
 百年も昔に作られた着物なら、もとの持ち主──嬢ちゃんはもう亡くなっている……のでは……、と。
(嘘よ、嘘よ)
 声はまた泣き出しました。
(帰りたい……嬢ちゃんのところに帰りたい……)
 わたしは頭がおかしくなりそうです。
 夜は眠れず、疲れ果て、昼間はうつらうつらと夢を見ています。
(嬢ちゃんが逝ってしまったのなら、どうしてわたしも連れていってくれなかったの……?)
(わたしのご主人様は嬢ちゃん一人なのに……どうして、わたしはあんたの着物になってしまったの……?)
(嫌よ、そんなの嫌よ……)
 泣き続けて、掠れた声が、わたしの頭の中に幾重にもわだかまります。
(そうだ。あんたの着物になったのなら、あんたが埋葬されればいい)
(わたしをまとったあんたが埋葬されれば、きっとわたしは嬢ちゃんのところに逝ける)
(お棺に入ればいい。埋葬されればいい)
(死んで……死んで……)
(……死んで……わたしのために)──

 恐怖でいっぱいになって、頭がぐるぐるして、はっとわたしは眼を開きました。
 闇ではありません。
 陽の光が射しています。今は昼間です。
 心臓が大きく音を立てて、眩暈がしました。

(死んで……死んで……)

 頭に残るその“声”に、慄き、冷たくなった全身が震えます。
 ──怖い。
 怖い、怖い。もう限界。誰か……

 わたしは歩けない足に必死に力を込めました。
 何としても、誰かに気づいてもらわねばなりません。
 誰も信じてくれなくても、この恐怖を誰かに伝えなければ──

 おばあ様──おばあ様──

 時間をかけて、そろそろと畳の上に這い出ると、何とか足の裏を床につけました。
 ふらふらします。
 この屋敷は広いのです。
 人のいるところまで移動しなければなりません。
 ゆっくりと、二本の足に体重を乗せて、立ち上がります。
 ふらふらします。
 でも、歩かなければ──

 一歩、一歩、しっかりと足を踏みしめて、何とか歩く動作をします。
 なかなか足に力が入りませんが、倒れないよう、注意深く。

 誰かが廊下を歩いてくる足音がします。
 わたしははっとして顔を上げました。
 この足音は……

 ──おばあ様……

 わたしのいる部屋の襖がすっと開けられました。
 入ってきたのは、思った通り、おばあ様でした。
 けれど──
「きゃあああっ!」
 おばあ様は、突然、絹を裂くような悲鳴を上げました。
 ──
 わたしは驚きに大きく眼を見開きました。
「あ……あ……」
 上品に老いた和服姿のおばあ様は、わたしを凝視して、がたがたと震えています。
 まるで言葉を失ったように、口をぽっかりと開けています。
「お祖母様ー、どうかしたのー?」
 遠くから、姉様──笑子えみこ様が心配そうな声を張り上げています。
「……っ……!」
 胸を押さえて、驚愕の表情でじっとわたしを凝視していたおばあ様は、出し抜けにふっと意識を失うと、その場に崩れるように倒れました。
 ──おばあ様……!
 わたしは慌てておばあ様に近寄ろうと、苦労してそちらへ向かいかけ、すると、部屋の中に置かれた姿見に映る自分の姿が目に入りました。
 肩までのおかっぱの黒髪。
 ぱっちりと開いた眼。
 小さな唇。
 身長はたったの四十センチほど。
 おばあ様に縫ってもらった豪華な百花繚乱の、藍色の振袖をまとった市松人形──
 その市松人形が、呆然と突っ立ったまま、鏡の中から、鏡を見つめるわたしを凝視しています。
 ……!
 あまりのことに愕然となり、全身の力が抜け落ちて、わたしはそのまま気を失いました。

 ──

 おばあ様が亡くなりました。
 心筋梗塞だそうです。
 “声”はあれ以来聞こえません。
 こうなることは、“声”の主が望んだ結果だったのでしょうか。
 わたしはこの着物をまとったまま、おばあ様のお棺に入れられることが決まりました。
 でも、わたしはおばあ様──詩子うたこ様が物心ついた頃から可愛がってもらっていたのです。だから、詩子様と一緒に荼毘に付されるのは、きっと、幸せなことなのでしょう。

〔了〕

2023.10.30.