ツェザーレの泡沫
碧い海は凪いでいた。
長期休暇を取り、ロビン・ナリスは職場の仲間たちとクルーズ旅行を楽しんでいる。
季節は早春──
穏やかな風にも花の香りが漂っていると感じるのは気のせいだろうか。
静かな、明るい夜だった。
恋人のデニスの部屋に行くと、彼はいなかった。
今宵、逢いに行くと告げたわけではないが、何となく顔を見たくなったのだ。
船室から外に出たロビンは、影のように密やかに階段を降り、恋人の姿を探した。
船上はひっそりとしている。
(どこにいるのかしら)
しかし、広い甲板を見廻すと、すぐに彼の姿は見つかった。
たくさん並ぶデッキチェアのひとつに仰向けに寝て、片腕を枕にし、そのままの姿勢で眠り込んでいる。
くすりとロビンは笑みを洩らした。
すぐに起こすのも可哀想な気がして、彼女はしばらく眠るデニスの顔を見つめていた。
眠り男
ふと、そんな言葉が脳裏に浮かんだ。
しんとしたクルーズ船の中。
満天の星の下で眠る彼は、今、どのような世界にいるのだろう。
夜空を仰ぎ、星を見て、少し歩いて甲板の手すりに近づき、海を見た。
上も下も深い藍色のこの世界で。
眼を閉じて、ロビンはデニスと二人きりの空気を吸い込む。
そして、ゆっくりとデニスに近寄ると、彼と同じデッキチェアに腰を下ろした。
とん、と彼の肩に頭をもたせかけ、ライト・ブルーの眼を閉じる。
深海にいるような心地がした──
ゆらゆらと海底を漂うオウムガイはこんな気分なのだろうか。
恋に破れた人魚の姫は、海に還りたかっただろうか。
「海……」
ぽつりとロビンはつぶやく。
オウムガイのように、果てしなく漂っていたい場所。
そこは人は住めない場所だけれど、死したのちなら、海は己を受け入れてくれるだろうか。
ロビンは瞳を上げた。
彼女の瞳に眠るデニスが映る。
ツェザーレの裏側には何がある?
うたかたの楼閣。
夢の世界。
無数のプランクトンが漂う深い海。
いま、この船の下の海の底で、何かが人知れず永い眠りについているのかもしれない。
化石か。
魂か。
私の心か──
ひんやりとした夜風が頬をなぶるのと同時に、触れているデニスの体温が心地好かった。
人間の身体の中にも海がある。
現実の海の中で息ができなくても、彼の海が私を眠らせてくれる。
「好きよ、デニス」
足を組んで眠るデニスのダーク・ブラウンの髪を撫で、ロビンはそっと、寝息を立てる彼の唇に自らの唇を重ねた。
「……」
唇を離し、デニスの様子を窺うも、返ってくるのはただ静かな寝息ばかり。
「こんなことしても起きないのね……」
ややつまらなそうにつぶやいたロビンだったが、ふっと頬を緩ませると、再び彼の肩に頭を置いた。
──あなたはそこにいるだけでいい。
「好き、じゃ足りない。愛しているわ」
ねえ、眠り男さん。
夢を見せて。
なんでもいい。
あなたの夢を見たい。
あなたが見る夢を共有して、心ゆくまで眠りたいの──
デニスの寝息に呼吸を合わせ、ロビンは深い海の中に潜る。
穏やかで、静かな、深い藍色に包まれて。
「ん? ……ロビン? いるなら起こしてくれれば……」
「何も言わないで。少しの間、このままでいさせて」
目覚めたデニスの言葉を封じ、彼に寄り添うロビンの肩を、ごく自然にデニスの腕が抱いた。
「あなたの海に同化したいの」
ロビンが何を言わんとしているのか、微睡みから醒めたばかりのデニスには解らなかったが、無言のまま、吐息を洩らし、彼女の肢体をさらに強く抱き寄せた。
デニスは眠りに落ちようとしているロビンから天上へと視線を移す。
深い藍色の空にきらめく星々。
夢の中で微かな花の香りを嗅いだ気がしたが、
(そうか。彼女の匂いだったのかもな)
夜風に揺れる彼女の短い金髪に目を落として、デニスは薄く微笑した。
「デニス」
「なに?」
「好きよ」
「知ってる」
微睡みの中で、ロビンは満足げに微笑んだ。
夢を見せて。
あなたと同じ夢。
波に揺られて、私はうたかたの夢を見る。
Fin.
2009.5.10.
加筆修正 2023.2.25.