イーヴル・アイ
第一章 悪魔の瞳を持つ天使
塾からの帰り道だった。
白銀に冴え渡る美しい月が、信じられないほど大きく見える夜、おれは天使が舞い降りてくるのを見た。
夜の町並みが影絵のように遠く見える。
そんな藍色の空から、人の姿をした影がふわりと地に降り立った。
影は、ひとつではない。
──三つ。
月明かりに淡い金髪が仄白く浮かび上がって見える。
同じように闇に浮かぶ白い肌。
音もなく爪先が地面についた瞬間、影は三つともおれのほうを振り返った。
眼が合う。
それは、猫のように光る緑色の眼をした、絵から抜け出たように美しい三人の天使たちだった。
「それで? 天使は空から降りてきたんですか?」
穏やかな声が、七海を現実に引き戻した。
「あ、響さん、信じてないでしょ」
何千冊という本が山積みになっているここは、南城響の自宅の書斎である。
その部屋の大きな格子窓に、篠村七海はもたれて立っていた。
大きな机に大きな本棚。
古ぼけた大きな安楽椅子。
それに、旧式のパソコンがひとつ。
小さな部屋だが居心地がいい。
「舞い降りるといったら、空からに決まってるじゃないですか。地の底から舞い降りるなんて変でしょ?」
「つまり、飛んできたってことですか? 翼を持って」
「え、あ、そういや、翼はなかったな」
「頭上には天使の輪」
「それも……なかった、かも……」
「七海君、勉強のしすぎですね。夢でも見たんですよ」
響はくすくすと笑った。
でも、おれは見たんだ。
猫のように光る緑色の眼をした、絵から抜け出たように美しい三人の天使を。
市立深見中学。
篠村七海は、この中学の三年生である。
三年──つまり、受験生だ。
受験勉強に疲れると──あるいは飽きると──七海は、南城響のところへよく息抜きに行く。
本人曰く、気分転換。
近所では変わり者と評判の響だが、七海は小学生の頃から響のもとによく出入りし、最近は勉強を教えてもらうと称して、彼の家に入り浸っていることも多い。
年齢は一回り以上も離れているが、こだわらない響の性格が七海は好きだったし、いろいろと相談ごとなども持ちかける、二人は気安い間柄であった。
南城響は、町外れの古びた洋館に独りで住んでいた。
家族はない。
いるのかもしれないが、同居はしていない。
七海が響の家に出入りし始めるようになった頃、すでに響はこの洋館で、一人暮らしをしていた。
歳は二十八歳。
現在は、大学院で民俗学を専攻する研究生であった。
南城宅からの帰途、七海は、前夜、天使が舞い降りてきた場所へおもむいた。
それは、塾から自宅までの近道の、滅多に人の通らない裏道だった。
(絶対、夢なんかじゃなかった……)
確信があると思っているが、時間が経つごとに自信がなくなっていく。
夕べの道。
何の変哲もない住宅街の裏通り。
申し訳程度に設置された街灯。
今、傾いた夕陽が照らすその道は、天使が降臨するにはあまりにも味気ない、裏道の十字路である。
「そうだよなあ、人が空から降ってくるなんてなあ……」
改めて考えてみると、何の道具も持たず人が空から降りてこられるはずがない。
天使を見たと、真剣に響に訴えた自分自身が急に滑稽に感じられ、七海は落胆した。でも、あれは本当に夢なんかじゃ……
何となく複雑な思いで、十字路の真ん中に立ち尽くしていた。
「──はあ……」
大仰なため息をついたとき、ふと、道の隅にきらりと光るものを見つけ、七海はそこにかがみ込んだ。
「水晶──?」
拾い上げてみると、それは、小さな水晶のペンダント・トップを通したネックレスだった。
陽にかざしてみる。
透明な金平糖のような形をした水晶がきらりと光を撥ねた。
「ふうん。……きれいだな」
笙子にあげれば喜ぶかなと、七海はちらと幼なじみの顔を思い浮かべた。
プラチナの鎖に通された透き通ったきらめきを、何の気なく、七海はポケットの中にしまいこんだ。
一陣の風が吹く。
──それが始まりだということに気づかないまま。
それからちょうど一週間後。
七海の通う深見中学校に、イギリスからの転入生があった。
五月半ばという中途半端なこの時期、突然のことだった。
転入生は三人。
一組、三組、四組とそれぞれ別のクラスに編入されたが、三人の噂は、即日、学校中に広がった。
姓をフォレストという三人の転入生は三つ子だった。
名を、シヴィル、シリル、セシルという。
セシルのみが女の子であったが、三人はそっくり同じ容姿を持っていた。
淡い金色の細い髪。
エメラルドを思わせる澄んだ緑色の瞳。
陶器のように滑らかな白い肌。
すんなりと長い手足。
天使を思わせるあどけない、繊麗な顔立ち。
全てが瓜二つ──否、三つである。
その美しさと神秘性に、学校中が騒然となった。
天使のような──そんな形容詞がまさにぴたりとくる。
七海は愕然とした。
音もなく地面に降りた瞬間、おれを振り返った三つの人影。
その猫のような緑色の眼。
月光に妖しく光った三対の緑色の眼。
天使のような金髪の転入生。
それは、あの夜、七海が目撃した天使たちではなかったか。
金髪の転入生のうちの一人、シヴィル・ルーサー・フォレストは、三年一組──七海のクラスに編入した。
三つ子の長兄である。
あまりにも美しい異国からやってきた少年に、授業中でもお構いなしに、クラス中の視線が注がれる。
休み時間になると、たちまちのうちに、彼の周りに人垣ができる。
クラスの関心は、根こそぎ、彼・シヴィルに釘付けであった。
「イギリスのどこに住んでたの?」
「君、三つ子なんだって?」
「日本語は大丈夫?」
「馬鹿だな、英語で訊かなきゃ。……ええと、Can you speak Japanese?」
「うわあ、緑の眼。おれ、初めて見たよ」
「髪、さらさら。お人形みたいに綺麗だし」
無意味な質問攻めにも、シヴィルは微かな笑みを浮かべながら、やわらかい物腰で、辛抱強くそのひとつひとつに答えていた。
その容貌を裏切らない、感じのいい声であった。
「つい最近までロンドンに住んでたんだ。日本語でOKだよ。日本に来る前にしっかり勉強してきたからね」
「三つ子っていっても女の子が一人いるんだから、一卵性じゃないよね。でも、三人とも何から何までそっくり……」
「あの……どうやって見分けたら……」
「ああ、簡単だよ」
流暢な日本語が返ってきた。
「ピアスをしているのが僕。していないのがシリル。セシルは判るよね。髪が長いし、スカートだから」
シヴィルが耳にかかる金髪をさらりと手でかきあげると、小さな紅いピアスがちらりと見えた。鮮やかな血の色──ルビーである。
そんな何気ない仕草でさえ、優雅で流れるようであり、それだけで女子生徒たちは黄色い歓声をあげた。
確かに、どこにいても人目を惹くであろう存在だ。
そんなクラスの様子を、篠村七海は遠巻きに眺めていた。
おれは見たんだ。
猫のように光る緑色の眼をした、絵から抜け出たように美しい三人の天使を。
しかし、果たしてそれは現実だったのか。
妙に自信がない。
目の前にいる美少年は、どう見てもただの人間ではないか。
「七海君」
不意に名を呼ばれて、七海はびくっとなった。
「いやねえ、そんなに驚かないでよ」
幼なじみの保科笙子が不思議そうに七海の顔を覗き込んでいた。
「らしくないわね。いつもなら、率先して転入生を構いたおすところじゃない?」
「何だよ、それ」
笙子は、ふふふ、と笑った。
「七海君も少しは落ち着きが出てきたかな。結構結構」
「はあ?」
ふと、七海は、一週間制服のポケットに入れっぱなしになって忘れていた水晶のことを思い出した。
「あのさ、笙子、こんなのほしい?」
ポケットから取り出した繊細なネックレスを、笙子の前に差し出してみる。陽光をふんだんに浴びて、きらりと水晶が光をはねた。
「なあに、どうしたの? あたしにプレゼント?」
「うん、まあ」
笙子は嬉しそうに水晶のネックレスを手に受け取った。
「きれーい! 高かったんじゃない?」
拾ったものだとも言えず、七海は、はは、とお茶を濁した。
「ありがとう! 大切にするね」
素直に喜ぶ笙子と少し照れたような表情の七海。教室の隅でやり取りされていたそんな小さな光景を、妖しく光る緑の眼がさり気なく見つめていた。
その日、七海はシヴィル・フォレストと下校が一緒になった。
「なに、おまえも家、こっちの方向?」
「うん」
気軽に声をかけてきた七海に、シヴィルは人懐っこく答えた。
「君、同じクラスだよね。……えっと」
「篠村七海。七海でいいよ」
「うん。七海。僕はシヴィルね」
金髪の転入生は愛想よくにっこりとした。清楚な花を思わせる。
その笑顔にしばらく見惚れ、はっと我に返った七海は慌てて口を開いた。
「しっかし、ほんと、天使みたいだよなあ」
「天使?」
「おまえのこと。あ、いや、褒め言葉だよ、一応」
「サンクス。七海は小犬みたいだね」
「……何それ」
シヴィルは再びにっこりし、やや頬を赫く染めた七海は、その笑顔からわざとらしく視線をそらした。
「一人? 弟と妹は?」
「まだ学校だよ。何か部活がしてみたいって、いろいろ見学してる」
「受験だってのに、余裕だな」
「?」
「あ、おまえらは受験とか関係ないの? すぐまたイギリスに帰っちまうとか」
「しばらくは日本にいる予定だよ。でも、いつまでいるかは、判らない」
「ふーん。親父さんの仕事の関係とか」
しばらく行くと、教会が見えてきた。
壁に蔦が這う、石造りの古い建物である。
「──教会がある」
シヴィルがつぶやいた。
七海はシヴィルの視線を追った。
「ああ、聖ミカエル教会っていうんだ。おれの先輩のお父さんがここの神父をしてる」
「そう、七海の知り合いの教会──」
それは、懐かしさすら感じる素朴で重厚な建物であった。
「あ、おまえも学区がここなら、この教会に通うの?」
「え? あ、え……っと」
シヴィルは少し戸惑ったように口ごもった。
「ここ、カトリックの教会だろう? 僕はプロテスタント。教派が違うんだ」
「そうなんだ?」
キリスト教の教派のことなど七海に理解できるはずもなく、そのときはそれ以上話題にはならなかった。
その次の分かれ道で、二人は別れた。
街路樹が緑の葉をそよそよと風にそよがせている。
銀杏並木。
高台に続く坂道の真ん中に、少女が一人、ぽつんと立ち尽くしていた。
「あー、見失っちゃった。見通しのいい道なのになあ……あ、でも、もしかしたら篠村君が彼の住所とか、聞いてるかも」
それは、こっそりとシヴィルのあとをつけてきた深見中学の生徒であった。
名を島崎亜美という。
七海のクラスメートである。
なおもきょろきょろと辺りをうかがっていた亜美だが、やがて、あきらめたように回れ右をして坂道を下り始めた。
銀杏の樹の陰で、つややかな毛並みの黒い猫が小さく、にゃあ、と鳴いた。
2003.9.10.