イーヴル・アイ

第二章 ささやく声

 三つ子の次兄シリル・クレメント・フォレストと、末妹セシル・フランシス・フォレストは、無人の音楽室にいた。
 午前八時。
 音楽室を訪れる者はない。
 やがて、微かな気配に二人が振り向いたとき、音楽室の扉が開き、長兄のシヴィルが現れた。
「……どうだ?」
 古英語である。
「合唱部だよ」
 低い声で、短くシリルが答えた。
 小さくシヴィルはうなずき、
「セシル、おまえがいい」
 と妹のほうを見返った。
「あなたかシリルのほうが、効果があると思わない?」
「彼女は“彼”に想いをよせているようだ。同性のほうが警戒されずにすむだろう」
「OK、解ったわ」
 透き通った天使の微笑みで、セシルは首肯した。
「で、あの子は?」
「彼はどのクラブにも属していない」
「じゃあ、同じクラスのシヴィルが担当するのね」
「ふん。言われるまでもないさ」
 シヴィルは不遜な口調で言い放った。
 クラスメートの前で見せる顔とは別人のような、悪魔的な雰囲気を漂わせている。
「ところで、昨日の鼠はどうした?」
「別に。毒にも薬にもならないし、放ってるわ」
「それに、いつでも消せるしね」
 と、シリルが付け加える。
「じゃあ、うるさくなったら始末しろ」
「もちろん」
 にっと笑ったシリルの表情は、天使というよりルシファーという言葉のほうがしっくりくる。
 エメラルドのような緑の眼が、猫のように妖しく光った。

「笙子ちゃん、それきれーい」
 更衣室で体操服に着替えているとき、島崎亜美が保科笙子の首にかけられた水晶のネックレスに目をとめた。
「あ……これ、ね」
 笙子は照れたように笑った。
「彼氏からのプレゼント?」
「そんなんじゃないわよ。七海君にもらったの」
「だから、彼氏でしょ?」
「やだ、違うって。あいつはただの幼なじみよ」
 笙子はわざとらしく手を振って否定した。
 そこで、すかさず亜美が本題に入る。
「ね、篠村君といえばさ」
 亜美は意味ありげな視線で笙子を見た。
「転入生のシヴィル君と仲いいの?」
「転入生?」
 笙子はきょとんとした。
「この間、篠村君とシヴィル君が一緒に帰るとこ、見ちゃった。結構親しげだったよ」
「え? そうなの?」
「でさ、笙子ちゃん、篠村君から彼のこと、聞いてない? どこに住んでるとか、どんな人だとか」
「ううん。全然」
 そこまで聞いて、笙子は思わせぶりに、にやっと笑った。
「亜美ちゃん、もしかして、転入生のこと狙ってる?」
「はは……やっぱ、判っちゃう?」
「そりゃ判るわよ」
 と笙子は鷹揚にうなずき、
「だけど、競争率が高そうよ」
 もっともらしく言った。
 体操服に着替え終わった二人は、他のクラスメートに紛れて更衣室を出て、体育館に向かう。
「だよねー。実は、何度かシヴィル君のあとをつけたりしたんだけど、いつもまかれちゃうの」
「なに、尾行とかしてるの……?」
 呆れ顔の笙子に、亜美は悪びれず、
「みんなやってることよ」
 とすまして答えた。
 一歩間違えばストーカーなんじゃ──と笙子は小さく苦笑した。
「……あの、もっと正攻法で攻めたほうがいいんじゃないの?」
「そうかもしれないけど……面と向かったら、何も言えなくなるんだもん。しょうがないでしょっ」
「亜美ちゃん、意外と純情……」
 しばらく亜美の顔を見つめていた笙子だが、
「そうだ。一昨日、シヴィル君の妹が合唱部に入部してきたよ。えっと、セシル──さんだっけ?」
「へえ、そうなんだ」
「彼女に訊いてみようか。シヴィル君のこと、いろいろ」
「笙子ちゃーん!」
 亜美は歓声をあげて笙子に抱きついた。
「持つべきものは気が利く親友! お願いします」
 亜美のはずんだ声に、始業のチャイムが重なった。

 保科笙子は合唱部に所属している。
 放課後、さっそく笙子は音楽室でセシルの姿を捜した。
 ──いた。
 グランド・ピアノの前に座り、男子生徒数人に取り囲まれている。
 小さく談笑しながら、鍵盤に指を走らせる姿は一枚の絵のようだった。
 綺麗だな、と、笙子は思った。
 掛け値なしの美少女である。
 兄たちと見分けがつかないほどよく似ているが、二人の兄とは違い、くせのない髪が肩までたれていた。
 どうやって話しかけようか。
 彼女を取り巻く人垣をかき分けてまで、そこに割り込む勇気はない。
 と、ふと顔をあげた彼女の眼が笙子の視線を捉え、にっこりと微笑んだ。
「ピアノ、上手ね」
 セシルの笑顔につられ、笙子は自然に声をかけていた。
「ありがとう。小さい頃から習っていたの」
「声もきれい」
「ふふ、褒めてもなんにもでないわよ」
 セシルは悪戯っぽく肩をすくめた。
 その仕草が愛らしい。
 天使を、笙子は連想した。

 昇降口。
 自分の部活を終え、笙子が出てくるのを待つ島崎亜美の姿があった。
 ──うるさい鼠。
 彼女をわたしに近づけてくれたことで、あなたの役目はもう充分。
 近くの樹の細い枝の上にうずくまっていたしなやかな黒猫が、音もなく、植え込みの中に降り立った。
 金色に光る眼。
 その頭上で、微かに羽ばたきの音がした。

「……あれ?」
 合唱部の練習が終わり、昇降口に出てきた保科笙子は、そこで待っていると約束したはずの島崎亜美の姿が見当たらないことに、やや首をかしげた。
「待ってるって言ったのに……」
 念のため、携帯に電話してみるが、応答なし。
 先に帰ってしまったのだろうか。
「もう、気まぐれなんだから」
 大して気にすることもなく、笙子は一人で帰途についた。

* * *

 腕時計を見ると、まだ午後九時になっていなかった。
「今日は終わるの早かったよな」
 三階建ての建物のわきにある駐輪場にとめていた自転車を引っ張り出しながら、吉村隆志は篠村七海を顧みた。
 塾が終わって、帰宅するところである。
 この建物の二階にある同じ塾に、二人は通っている。クラスは違うが、同じ深見中学の生徒であった。
「気をつけろよ、篠村。最近、出るっていうぞ」
「出る?」
「ゆーれい」
 隆志は自転車にまたがり、声をひそめた。
「マジで?」
 苦笑する七海に、隆志は真顔で二度うなずいてみせた。
 塾の帰り道。
 隆志は自転車で、七海は徒歩である。
 帰る方向は逆であった。
「平気だよ。おれ、霊感ないもん」
「なくても見た奴、いるぜ。強い霊は霊感なんかなくても見えるんだってよ。行方不明の島崎も、幽霊を見て、それで……」
「おどかすなって」
 島崎亜美は、五日前から行方が知れない。
 笙子を待たずに帰宅したあの日から、ぷっつりと消息が途絶えてしまっている。
 しかし、周囲は──警察は、単なる家出だろうと判断し、それほど大ごとにはなっていなかった。
 ふと、七海はいつかの天使のことを思った。
 あれも幽霊だったりして──
 はは、まさかね。
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
「ああ、またな」
 二人は塾の前で左右に分かれて帰途についた。
 幽霊?
 馬鹿馬鹿しい。
 七海はいつもと同じ道を、いつもと同じ時間に、たどるだけだ。
 なにごとも起こりはしない。
 そうして、平穏無事な日々が過ぎていくのだ。
 今日も。
 たぶん、明日も。
 そして、明後日も。

 吉村隆志は、ふと、誰かに見られているような気がして、振り向いた。振り向きざま、自転車ごと倒れそうになって、慌てて体勢を立て直す。
 夜の九時は、まだ街は明るい。
 幽霊なんか出るわけがない。
 だが、もうすぐ商店街を抜ける。
 そしたら、ひと気のない住宅街だ。
 そこを右へ曲がれば、深見中学校の前に出る。
 うちへ帰るには真っ直ぐだ。
 出し抜けに、鳥の羽ばたく音が大きく耳に飛び込んできた。
 どきりとして空を仰ぐと、黒い鳥が何羽も頭上を飛び交っている。
 大きな黒い鳥──鴉だ。
 そのまるい眼が、自分を見つめている。
 隆志は無意識に自転車をとめた。
 ペダルに掛けていた足を下ろし、自転車を降りた。
 自転車を押して歩く隆志の足は、なぜか、曲がり角を右へ曲がった。
 夢遊病者のような、眼と表情。
 学校の門は、隆志を誘うように開いていた。
 暗闇の中、眼を凝らす。
 人の気配がした。
 前方に、門の中に、黒い人影が隠世の者のように立っている。──ひっそりと。
 突如、我に返った隆志は、激しい恐怖に支配された。が、恐怖や意思とは裏腹に、足は動いた。
(立ち止まれ)
 なぜ自分は進んでいるのだろう?
(引き返せ)
 危険信号が点滅している。
「夜の学校は我らの世界」
 と、その人影は言った。
「我らのため、贄となれ」
(引き返せ。今ならまだ間に合う)
 そのとき、隆志は妖しく光る緑の眼を見た。
「う……」
 じっとりとあぶら汗が浮かんできた。
 まばたきもせずじっと視線をはずさない鮮やかな緑の眼から、どうしても眼をそらすことができない。
 金縛りとも違う。
 動こうとする意思が働かないのだ。
 緑の眼が彼を魅了した。
 あの眼に見つめられると、動けなかった。

 ──邪眼イーヴル・アイ

 悪魔の瞳で、天使が微笑んだ。
 恐怖はもう消えていた。
 今はその瞳に見つめられることが甘美ですらある。
 隆志の意識が少しずつ遠のき──やがて、それは闇と無の中へ埋没していった。

「行方不明?」
 漠然とした不安に駆られ、七海は眉をひそめた。
「今度は誰だって?」
「三組の吉村。昨夜、家に帰ってないんだってよ」
「嘘。二年生の女子も、二日ほど前から居所が判らないって話よ」
「誘拐か?」
「家出じゃない?」
「吉村なら、夕べ、塾で一緒だったけど──
 言いかけて、七海は口をつぐんだ。
 あのあと行方が判らなくなった──
「ねえ、亜美ちゃんだって、家出って言われてるけど、もう一週間近くも連絡が取れないんだよ」
「ほんとに家出だと思う? だって、亜美ちゃんて家出するようなタイプじゃ……」
「やっぱり、誘拐だよ」
 教室内でのひそひそ話は学校中の噂となり、不安と疑惑はいやが上にも大きくなるばかりだった。

 胸騒ぎ。
 いやな胸騒ぎ。
 誰もが否定しながら想像している結末。
 それは誰も口には出さない。

 こうなると、思春期の気まぐれからの家出だと思われていた島崎亜美の失踪も、ことは深刻になってきた。
 家族は手掛かりを求めて繁華街を彷徨い、警察はようやく本腰を入れて捜索を始め、友人たちは不安な想いに表情を硬くした。

 予感。
 ──生きてるの?

 深見中学の体育館の裏の茂みの中から、女子中学生の無惨な屍体が見つかったのは、そうしたある日の──木曜日の午後のことだった。

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