イーヴル・アイ
第三章 不安と不穏
深見中学の校内において、女子生徒の遺体が見つかったらしいというニュースは、瞬く間に全校生徒の間を駆け巡った。
「屍体? この学校の生徒か?」
「どうも……三年一組の島崎亜美らしいってよ」
学校側は情報を抑えていたが、それでもそういった類いの噂が広まるのは早い。
しかも、どこまでが尾ひれなのか、判断がつきかねた。
遺体には、心臓がなかったというのである。
無論、始めからなかったわけではない。
殺害後、剔出されたというのだ。
誰に──?
決まっている。
この残虐な殺人を行った犯人──
「七海君」
おびえたような表情をした笙子が、七海のそばにやってきた。
「聞いた? 屍体が……出たって」
「──うん」
「本当に……亜美ちゃん、なのかな」
「そういう噂だな」
「信じられない」
今にも泣き出しそうに笙子は眼を伏せた。
「だって……だって、ついこの間まで、あんな──」
七海は両手をポケットの中で握りしめていた。
こんな身近で、こんな事件が起こるなんて。
しかも、被害者は同じクラスの女の子だ。
なぜ、彼女がこんな目に遭わねばならないのか。
「笙子」
憮然たるその声音に、ふと、感じるものがあって笙子は顔をあげた。
「これからしばらくは絶対に一人で帰るなよ。おれ、おまえの部活が終わるまで待っててやるから」
「七海君──」
「心配するな」
「うん──」
不安げに、それでも微かに嬉しそうに微笑み、笙子は七海の腕に手をかけた。
事件現場を取り囲むように群がる野次馬たちからかなり離れた木立ちの陰に、美しい金髪の三つ子の姿があった。
三人は、その位置から事件現場の様子を遠目に眺めていた。
「鼠を始末したことで、却って、彼女に近づきにくくなったな」
シヴィルが低くつぶやく。
「彼は騎士道精神を持っているのね」
「意外に、ね」
おどけた表情でくすりと笑うシリルにやや非難めいた一瞥を投げ、シヴィルは視線を事件現場付近へと戻した。
「彼はやさしい」
シヴィルは静かな声で言った。
「しかし、そのやさしさが命取りになることもある」
午後の授業は急遽中止、部活ももちろん取りやめだった。
生徒は強制的に帰宅させられた。
不安な面持ちで学校をあとにする生徒たちの群れ──
その中に、七海と笙子の姿もあった。
「待って、セシルも一緒に帰ることになってるから」
昇降口で靴を履き替えながら、笙子が言った。
「セシル? おまえ、彼女と仲いいの?」
「うん。話してみると、わりと気さくで可愛い人よ。七海君もきっと気に入ると思う」
あまり気に入りすぎても困るけど……と、笙子は心の中で付け加えた。
「校門の前で待ってるはず──あら?」
笙子の視線をたどると、そこにセシルがいた。
セシルと、もう一人、男子生徒がいる。
「だから、遠慮しなくていいって。送ってあげるよ」
「いえ、大丈夫ですから……」
困ったような素振りのセシルは、こちらへ近づいてくる笙子の姿を見て、ほっとしたような表情を見せた。
「どうしたの、セシル?」
「この人が家まで送ってくれるって言うの。でも、もうすぐ兄たちも来ると思うし……」
笙子はじろりとセシルにからむ男子生徒を睨んだ。
「この通り、セシルはあたしたちもいるから大丈夫です」
「……あ、そ、そう? じゃ、安心だな」
ちらりと七海を一瞥すると、口の中でぶつぶつ言いながら、男子生徒は三人から逃げるようにして校門を出ていった。
「やだな。要するにナンパじゃない。こんなときに不謹慎だわ」
「ありがとう」
セシルが困ったように笑う。
その花のような笑顔に我知らずドギマギしてしまう自分自身に戸惑い、七海は憮然とした表情を作った。
「あなたは、確か、シヴィルのクラスメートだったわね」
「うん。篠村七海。笙子の幼なじみだよ」
三人の頭上で何かが羽ばたく音が聞こえた。
笙子が空を見上げ、顔をしかめる。
「やあね、鴉。最近、多くない?」
「そういや、そうかな」
「そうよ。学校の屋根に何羽もとまっているのよ。怖いわ」
「大丈夫よ、笙子。こちらから手を出さなければ、何もしないわ」
「でも、気味が悪いじゃない」
刹那、セシルの口許に浮かんだ笑みを見て、七海はぎくりとした。
嘲笑──? さげすむような、嘲りをこめた尊大な笑い。
まさか。
見間違いだろう。
「セシル、待ったかい?」
我に返った七海がどきっとして振り向くと、シヴィルとシリルがこちらへ向かって来るところだった。
「あ、七海、一緒だったんだ」
「シヴィル、シリル、こちらは保科笙子さん。クラブが一緒なの。七海の幼なじみなんですって」
「へえ、可愛い幼なじみだね」
笙子の頬がぱっと朱に染まった。
意識していないつもりでも、これだけの美少年にまともに見つめられれば、胸がざわつくのも仕方がない。
「あ、あの、保科笙子です。よろしく……」
そんな笙子の反応を愉しむように薄く笑ったシリルの眼に、鼠をもてあそぶ猫のような惨忍さを見た気がして、七海ははっとなった。
これも見間違いなのだろうか。
だが、次の瞬間、シリルはやわらかな瞳で、何事もなかったように笙子に微笑みかけていた。
得体の知れない戦慄が全身を駆け抜ける。
そのときの言い知れぬ恐怖感を、七海はしばらく忘れることができなかった。
しかし──それは何に対する恐怖なのか。
音もなく地面に降りた瞬間、おれを振り返った三つの人影。
その猫のような緑色の眼。
月光に妖しく光った三対の緑色の眼。
あれが──あの美しい眼が、邪眼というものなのかもしれない。
漠然と、そう思った。
そして、惨劇はくり返された。
月曜日の朝、登校してきた二人の生徒が男子トイレの中で発見した。
新たな屍体を。
現場は血の海だったという。
無惨に心臓を抉られた、第二の殺人事件の被害者は、吉村隆志だった。
事件はそれだけでは終わらなかった。
さらにもう一人の行方不明者が遺体で発見されたとき、学校側はしばらくの間、学校を閉鎖することを決定した。
二週間に三件の殺人事件。
しかも猟奇殺人だ。
狂人の仕業かもしれない。
町は騒然となった。
被害者はいずれも深見中学の生徒で、発見場所は全て深見中学の校内である。だが、不審者などの目撃証言はない。
被害者は、殺害後、皆一様に心臓を剔出されていた。それなのに、その剔出された心臓が未だひとつも見つかっていないのも不気味だ。
そして、もうひとつの不可解な噂──
──何かがおかしい。
だが、その“何か”が七海には判らなかった。
今、学校をおおっている、悪魔的としかいいようのない、一種異様な空気。
それは何なのか。
悪魔など信じているわけではない。
しかし、あの噂はあまりにも悪魔的だ。
犯人は変質者か、カルトな宗教にのめり込んでいる狂信者なのかもしれない。
その日、いつものように用事もなく南城響の家で時間をつぶしていた七海は、浮かない表情で、棚の上に置かれたタロットカードを何気なくもてあそんでいた。
「七海君、元気がありませんね。──例の連続殺人のせいですか」
コーヒーの香りを漂わせて銀のトレイを運んできた響が、フランス窓に面したリビングのテーブルにコーヒーカップを置いた。
フランス窓の外は小さな芝生の庭になっている。
その庭を、薔薇を這わせたパーゴラとラティスが取り巻いていた。
「うん──」
ふと、めくったカードを見て、七海の手が止まった。
「ねえ、響さん」
「何ですか?」
「これは何? この逆さになった星印」
七海は一枚のタロットカードを持ってテーブルのところまで移動した。響がその手許を覗き込む。
七海が示したのは、十五番目のカードだった。
ウェイト版のそれには、山羊の角と蝙蝠の翼を持つ半人半獣のバフォメット像が描かれていた。その額にあるペンタグラムは逆さである。
「“悪魔”のカードですね。この逆になったペンタグラムは、正しい教えに逆らう闇の教えを象徴したものですよ」
「闇の教え?」
「つまり、悪魔崇拝ということでしょうね」
響はちょっと言葉を切り、七海を見た。
「でも、それがどうしたんです?」
「……あったんだ」
「え?」
「殺された三人にも、額に同じ印が描かれていたんだ。──血で」
「見たんですか? 七海君」
「まさか。噂だよ。そういう噂。響さん、聞いてない?」
何もというように響は首を横に振った。
「しかし、悪趣味ですね。屍体にそんな血文字をつけるとは」
「殺して心臓を取り出すような奴だよ。趣味がいいはずないじゃないか」
そう言って、七海は手に持ったタロットカードに視線を落とした。
「悪魔か……悪魔って、こんな姿してるんだ」
今回の連続殺人の犯人こそ、悪魔ではないのか。
そのままソファーに腰を下ろす七海を横目に、響はすっと眼鏡をはずした。
全体から受ける印象は物静かで目立たない学者タイプの響だが、その顔立ちは、整いすぎるほど整っていた。
コーヒーカップに掛ける指も、長くて繊細だ。
「悪魔は──ユダヤ教やキリスト教ではサタンと呼ばれますが──もともとは美しい天使だったんですよ」
「え、そうなんだ?」
「そう、例えば、いつだったか七海君が塾の帰りに見かけたような、ね」
あの夜の天使にそっくりな三つ子が転入してきたことは、響には言っていない。
ぎくりとして、七海は響を盗み見したが、別に他意はないらしかった。
「サタン──ルシファーともいいますが──彼はミカエルにも勝る実力を持った最高位に位置する熾天使だった。しかし、己の力に自惚れ、神に背いたんです」
「ふうん。でも、それ、聖書の世界の話でしょ」
「まあ、そうですね」
「もし、悪魔が現実に現れたら、響さん、対抗できる?」
「さあ、判りませんね。本物の悪魔を相手にしたことはありませんし、僕は悪魔祓い師ではありませんから」
髪をかきあげ、悪戯っぽく響は笑った。
事件の解明に何の進展もないまま、日にちだけが過ぎていった。
保科笙子から電話がかかってきたのは、そんなある日のことだった。
学校の音楽室に忘れた楽譜を取りに行きたいのだという。
「こんなときにそんなもん、どうでもいいじゃないか」
「うん……そうなんだけど、そういうわけにもいかないわ。来月、合唱祭があるのは七海君も知ってるでしょ。いつ学校が再開されて、部活が始まるか判んないもん」
「しょうがないなあ……」
気が進まないながらも、同行することを承知した七海だが、自らの心の奥底に恐怖が揺蕩っているのを自覚しないわけにはいかなかった。
深見中学の門は堅く閉ざされていた。そして、森閑としていた。
警察関係や報道関係の人間、近所の野次馬でさえ、周囲に人影はない。
「静かだな」
「やだ、鴉……」
「うん?」
「鴉の数よ。なんか、増えてない?」
確かに、そう言われてみれば、そうだった。
無人の校舎の屋根。校庭の木々。そのあちこちに黒い大きな鳥が羽を休める姿が目に付く。
「は、早く行きましょう」
笙子に促され、二人は足早に音楽室へ向かった。
「無人の学校って、気味悪いわね」
不安げにつぶやく笙子の言葉に七海は返事をしなかった。
不安を肯定してしまうと、今度は恐怖心に押しつぶされそうな気がした。
ようやく三階の音楽室の扉の前にたどり着くと、ほっと安堵の表情で二人は顔を見合わせた。まるで肝試しだ。
「早く取ってこいよ」
「うん」
いくらか元気を取り戻した笙子が音楽室の扉を開けた瞬間、予想だにしないものが二人の目に飛び込んできた。
──人。
人が倒れている。
「きゃ……」
──死んでいる。
音楽室の床に仰向けに倒れているその屍体は、二人と同年代の少年であった。
私服であるが、おそらくは深見中学の生徒であろう。
「笙子、誰か先生を呼んでこい」
「誰もいないわよ!」
「じゃ、警察だ。早く電話を」
「う、うん……!」
小刻みに震える手でスマートフォンを取り出す笙子。
七海はじっと少年の屍体を凝視したまま動かなかった。
屍体の胸を見る。
どうやら、心臓は取り出されていないようだ。
辺りも別に血の海ではない。
ただ、倒れているその少年は顔面蒼白というより、紙のように真っ白であった。
そして。
「──これは」
少年の首筋に、わずかに血の滲む小さな傷が二ヶ所あった。
そして、額にはあの血文字──逆さになったペンタグラム。
2003.10.15.