イーヴル・アイ
第四章 魔道士・響
「響さん、いる?」
早朝だというのにお構いなしに、七海は南城響宅の玄関のチャイムをひっきりなしに鳴らしながら、大声で響の名を呼んだ。
「……七海君ですか?」
ほどなく、パジャマの上にガウンを引っ掛け、眠そうな響が玄関の扉を開けた。
寝ているところを起こされたらしい。
「ちょっと教えてほしいんだ。どうも、これは響さんの領分らしいから」
大学院での専門は民俗学──と、本人もそう言ってはいるが、本当の専門分野は別にあることを、七海はよく知っていた。
魔道・魔術の類いである。
それも、白・黒の両魔術に、南城響は精通していた。
彼が変わり者扱いされる所以は、実はこんなところにあるのかもしれない。
「どうしたんですか、七海君。……まだ早いですよ。七時前じゃないですか」
「それどころじゃないよ。とにかく家に入れてよ」
勝手知ったる他人の家とばかり、七海は響の返事を待たずに家の中に入っていった。
「大変なんだ。今度は吸血事件だよ。これは、人間の仕業じゃないよ!」
「吸血鬼の仕業だとでもいうんですか」
「そうさ! 超自然現象だよ。だから、響さんの意見が聞きたいんだ」
やや長めの髪をかきあげ、響は困ったように欠伸をした。
「とりあえず朝食にしますか。七海君もまだでしょ?」
響は手際よくパンを焼き、コーヒーを沸かし、サラダを作った。
「目玉焼き、食べますか?」
「食欲なんてないよ」
シナモントーストにブラックコーヒー、それにポテトのサラダを二人分、テーブルに並べ、はじめて、響は真面目な表情で七海を見た。
「で、何があったんです?」
「殺人事件の第一発見者になっちゃった」
「なんでまた」
「昨日、笙子が学校に忘れた楽譜を取りに行きたいって言うんで、一緒に行ってやったんだ。そしたら、人が死んでて──」
「深見中で?」
「うん。今度のは心臓を抉られてなかった。その代わり、首から血を吸われていたんだ」
「それで、吸血事件……」
「被害者の首には牙の痕まであったんだよ」
「……確かにいやな事件ですね」
響はコーヒーカップを持ち上げ、ふと訊いた。
「笙子ちゃんはどうしてます?」
「昨日の夜、警察の取り調べがすんでから、すぐ家に帰した。かなりショックを受けている様子だったから」
響は無言でうなずいた。
「それに、それだけじゃないんだ。被害者の額に、またあの星印がついていた。今度は自分の目で見たよ。同一人物の犯行だよ」
響の眼の表情がわずかに動いた。
「逆さのペンタグラム、ですか。呪術的なものを感じますね」
警察に任せておけばいいという響の意見に、七海はやや不満げであった。
帰り際、玄関まで見送りに出た響に、再び七海は、本物の吸血鬼が犯人なら、どうすればいいのかと問うた。
「そんなに気になるのなら、十字架でも持っていたらどうですか? 聖クリストファーのメダルでもいいし。──なんなら笙子ちゃんも」
「響さんは持ってるの?」
「僕はクリスチャンではないので」
「十字架なら、キリエ先輩んちに行けばいくらでも──」
そこまで言って、ふと、七海は考え込んだ。
「十字架なんて、効くのかな」
「七海君、これをあげましょう」
そう言って響が差し出したのは、革紐の先に青い硝子玉がついたペンダントだった。
平たくまるい硝子玉には、まるい目玉が描かれている。
「何これ?」
「メドゥーサの眼ですよ」
「メドゥーサの眼?」
「悪魔の視線から身を護ってくれるお守りです」
「え……?」
硝子玉をまじまじと見つめる七海を眺め、響はくすりと笑った。
「なんてね。トルコじゃどこでも売ってるありふれた土産物ですけどね」
「何だよ、ひどいな」
「でもメドゥーサの眼というのは本当ですよ。魔除けになります。七海君が持っていてください」
南城響宅をあとにしてすぐ、七海が向かったのは聖ミカエル教会であった。
ここの神父を務める黒川康三や、黒川の娘・キリエとは七海は親しい間柄である。彼はすたすたと教会の建物の中に入っていき、事務室の扉をたたいた。
「どうぞ」
低い、やさしい声は黒川神父のものである。
「おや、七海君。どうしたんだね?」
扉を開けて入ってきた七海のあまりの表情の気難しさに軽く眉をあげながら、黒川神父は慈悲深い笑みを向けた。
何か書き物の途中であったらしく、神父は事務用のデスクの前に座り、ペンを手にしていた。
「神父さん、キリエ先輩は?」
「ここにはいないよ。キリエに用かい?」
七海はちょっと躊躇ったが、
「まあ、いいや。神父さん、おれ、十字架がほしいんだけど」
唐突に用件を切り出した。
「十字架? 入信したいのかね、七海君?」
「え、いや、その……単なる魔除けのおまじない」
黒川神父は苦笑した。
「ニュースを見たよ。教会に来る人々から噂話も聞いた。──吸血鬼事件が起きたんだって?」
「そうなんだ」
七海は意気込んで答えた。
「おれと笙子が第一発見者なんだよ。確かに、首筋に血を吸った牙の痕があった」
「まあ、気休めに十字架を持つのもいいがね」
と、神父は背後の棚に歩みより、十字架を探した。
「吸血鬼なんてこの世に存在せんよ。犯人は現実社会に生きている人間だ。それがどんな狂人であれ、残忍な殺人鬼であってもな」
神父は、棚の中の木の箱から銀の十字架を取り出し、七海に差し出した。
「はい、十字架」
神父から手渡された十字架に、七海は翳りを帯びた視線を落とした。
「不安な思いはみんな一緒なんだよ、神父さん。何か、安心できる拠り所がほしいんだよ。それが十字架であっても、別に悪いことじゃないでしょう?」
「……そうだな。否定はせん」
「神父さん、もうひとつ」
「ああ、笙子ちゃんの分だね?」
黒川神父は十字架をもうひとつ七海の手にのせた。
そして、独り言のようにつぶやいた。
「キリエは……今回の事件をどう感じているのだろう」
南城響宅の玄関のチャイムが鳴った。
篠村七海が帰ってから、まだ三十分も経っていない。
事件に対する響の態度に納得できない七海がまた戻ってきたのだろうと思い、響は困ったような表情で玄関に向かった。
「今度は何ですか、七海く──」
扉を開けると、そこに立っていたのは七海ではなく、黒川キリエだった。
「キリエちゃん……?」
問うような眼差しの響に無表情な瞳を向け、キリエは軽く会釈した。
「ちょっとお邪魔していいですか、響さん」
黒川キリエ。
彼女は黒川神父の実子ではない。
生まれてまだ半年も経っていないと思われる赤ん坊が聖ミカエル教会の扉の前に捨てられていたのは、十六年前のことだった。
黒川神父は独り身であったが、ある事情により、赤ん坊は神父に引き取られた。
神父はその子に“キリエ”──通常文に分類されるミサ曲の名称のひとつである──と名づけ、この十六年間、養女として育ててきたのだ。
現在、市内のミッション系の女子高に通うキリエは高校二年生。
漆黒の瞳、漆黒の髪を持った、意志の強そうな顔立ちが印象的な少女であった。
「どうしたんですか?」
白いティーカップに鮮やかなルビー色のハーブティーを注ぎながら、響が声をかけた。
「珍しいですね。キリエちゃんがここへ来るなんて」
リビングのソファーに座る彼女の前に、カップを差し出す。
「響さんの研究の対象にされるのは真っ平ですから。──紅茶、いただきます」
紅茶をひとくち含んでから、キリエはほうっと息をついた。
「……わたしがハイビスカスを好きなこと、覚えててくれたんですね」
にっこりと応じる響の笑顔に引きずり込まれそうになりながらも、キリエは表情を硬くして構え、一呼吸おいた。そして、尋ねた。
「響さんは、今回の事件、どうお考えですか?」
「どう、とは?」
「魔道士として」
探るようなキリエの視線を軽く受け流し、響はふっと笑顔を見せた。
「キリエちゃんはどうなの?」
キリエはにこりともせずに響の顔をじっと見た。
「魔性のものの存在を感じます」
ふと、響の笑みが消えた。
「響さんが興味を持っているわたしの“力”──その力が確かなものなら。現在、この町を包む空気に違和感を感じます」
「違和感ですか……」
「とぼけないでください。響さんも感じているはずです。あなたは優れた魔道士なのですから」
「魔道士……ね。時代にそぐわない言葉ですね」
「でも、事実でしょう?」
響はそれには答えず、刹那、鋭くキリエを見遣った。そして、手にしたカップに静かに口をつけた。
「あなたが感じている違和感には大いに興味がありますよ。他にはどんなことを感じますか?」
「何か異質なもの──うまく表現できないのですが」
「ええ、それで?」
「異質なものが町に入り込んでいる感覚があります。そう、少し前から」
キリエは責めるような咎めるような眼差しで響を見た。
「響さんはなぜ傍観しているの? 事態を観察しているんでしょう。研究者だから。でもこれ以上は駄目です。持ちこたえられません」
「僕にどうしろと?」
「町が──住人が、どんどん魔性の何かに侵食されていくのを黙って見ているつもりですか。犠牲者はこれからも出るわ」
「僕にはそれを食い止める力はありませんよ」
「本当に?」
困ったように髪をかきあげ、響は首を傾けた。
「あなたはどうするつもりなんです」
「異端者をあぶりだします。響さんが行動を起こさないのなら、わたし一人でも」
保科笙子は自宅にいた。
殺人事件の第一発見者となったショックがまだ尾を引いている彼女は、ぼんやりとクッションを抱きしめ、テレビの画面を眺めていた。
ニュースが流れている。
深見中学で見つかった新たなる不可解な遺体のこと。
その遺体の首筋に何者かに噛まれた痕があったこと。
偶然学校内に入り、遺体を発見した二人の中学生のこと。
──あたしたちのことだ。
笙子はぎゅっとクッションを抱え込んだ。
ニュースはさらに情報を伝えた。
現在、市内で捜索願いが出されている──家出だと思われている──少年少女たち数名の行方と今回の一連の事件との関連性。
(やはり深見中学の生徒なのだろうか)
念のための、深見中学校校内での徹底的な捜索の決定。
「なんで……?」
今にも泣き出しそうに、笙子はかすれた声でつぶやいた。
「なんで、深見中なの……?」
そのとき、玄関のほうで物音がしたような気がして、笙子ははっと身を硬くした。
(嘘……誰かいる……? 玄関の鍵、かけてなかった……?)
笙子は両親と三人暮らし。
母親はパートに出ている時間だし、今、家にいるのは彼女一人である。
(どうしよう……もし、本当に誰かいたら──)
「笙子、いるー?」
突然、部屋のドアが勢いよく開き、笙子は飛び上がらんばかりに仰天した。
「なによ、びっくりするじゃない! 心臓が止まるかと思ったわよ!」
「あ、悪い。それほど驚くとは思わなかった。いつも勝手に入ってるし。それに、鍵、あいてたぜ」
けろっとした顔で悪びれもせずにそこにいる七海に、一気に緊張感がゆるむ。と同時に目頭が熱くなり、笙子は慌てて涙をぬぐった。
「どうしたの? また何か事件……?」
「いや。これ渡しておこうと思って」
七海はポケットから銀の十字架を取り出した。
黒川神父からもらってきた品だ。
「十字架……」
「うん。吸血事件だからさ、一応」
「ありがとう」
自分の狼狽ぶりが急に恥ずかしくなり、笙子は赫くなってうつむいた。
──そうだよね。七海君もいるもん。怖くなんかないわ。
七海は腕時計を見た。
「もう帰るの?」
「うん。おまえは家にいろよ。一人で外ふらふら出歩くんじゃないぞ」
「やだ、子供じゃないんだから、大丈夫よ」
照れたように笙子は笑った。
「七海君こそ、一人で外に出てて大丈夫なの?」
「ばーか。おれはそう簡単に吸血鬼なんかに捕まんねえよ」
「犯人が人間だったら、十字架は効かないよ」
「人間ならなおさらだ」
直情型で、考えるよりまず行動といった七海の性格は時には見てて危なっかしいが、それがあいつらしさなんだなと、笙子は微笑ましく彼を見送った。
そして、十字架を首に掛けた。
「──キリエ先輩を捜さなきゃ」
家にじっとしてなどいられなかった。
南城響が七海の訴える不安をまともに取り上げてくれない以上、相談できるのは黒川キリエただ一人だった。
少なくとも、彼女は超常現象を信じる人間だ。
しかし、大真面目に吸血鬼犯人説を唱えたら、彼女は何と思うだろう?
それはある種の賭けかもしれない、と七海は思った。