イーヴル・アイ

第五章 Kyrie

 黒川キリエの姿は意外に早く見つけることができた。
 彼女は聖ミカエル教会に程近い公園のベンチに座り、集まってきた野良猫にクッキーを与えていた。
 銀杏の木がここかしこに木立を作るこのゆったりと広い公園は、キリエがよく好んで訪れる場所であった。
「キリエ先輩」
 キリエは顔をあげ、七海の姿を認めると、ちょっと微笑んだ。
「今頃お昼? もう二時だぜ」
「これ猫用クッキーよ。さっき猫たちのために買ってきたのよ」
「猫、好きだねー」
 黒川キリエは七海と同じ深見中学の出身であったが、二人に中学での接点はない。クラブの先輩後輩というわけでもない。
 二人が親しくなった背景には、南城響の存在があった。
 キリエが響の家を訪れるようになったのは、三年ほど前だっただろうか。
 しょっちゅう南城宅に入り浸っていた七海が、頻繁にやってくる少女の存在に気づかないはずがない。
 少女は人見知りするタイプであったが、天衣無縫な少年の無邪気な好奇心に押されるように次第に会話を交わすようになり、徐々に、この人懐っこい少年に親しみを覚えるようになっていった。
 誰とでもすぐ仲良くなるのは七海の特技だ。
 キリエの父親が聖ミカエル教会の神父をしていることを知った七海は、教会にもよく顔を出すようになった。
 そのうち、いつしかキリエが響の家に出入りすることはなくなったが、キリエと七海の親交は続いた。
 そして、今に至る。
 性格はまるで違うが、なんとなく気が合う。性別も年齢も違うが、親友のような気安さがあった。
 だから、七海は響に対するのと同じように、キリエにも何でも話す。
 キリエの隣に腰を下ろし、七海はクッキーを食べる三匹の猫を見つめた。
「ねえ、キリエ先輩。先輩は、超常現象とか、信じるよね?」
「なに、急に」
「いいから。……信じるよね?」
「信じるも何も──わたし自身がいい例だもの」
 いわゆる──そう、彼女は超常能力の持ち主であった。
 その特異性を心配して、キリエの父親の黒川康三が南城響を訪ねたのが、そもそもの始まりだ。
 幼い頃からの、彼女の持つその“力”の脅威──
「じゃあさ、吸血鬼とかも、信じる?」
 キリエは胡散臭そうな表情で七海を見た。
「どうしたの、七海君? 何か変だわ」
「変にもなるよ。屍体、見つけちゃったんだもん、おれ」
「……え?」
 大きく眉を上げて、キリエは七海の顔をまじまじと見つめた。
「それがさ、変な殺され方だったんだ。屍体の首に血を吸った痕があって……」
「吸血鬼の仕業だと?」
「っていうか、人間がやることとは思えない」
「……」
 キリエは手の中のクッキーの袋をくしゃっと握りつぶした。
「『そして、暗黒と荒廃と“赤死病”とが、あらゆるもののうえにそのほしいままなる勢威をふるうばかりであった』──
「え、何?」
「でも、この町とこの町の住人は──そんなことにはならないわ」
「何言ってんの、キリエ先輩?」
「ううん。何でもない」
 訝しげな七海に、キリエは軽く首を振って微笑んでみせた。そして、視線を遠くへ飛ばした。
 クッキーを食べ終わった猫たちの姿はもうない。
「声が聞こえるの」
 と、キリエは言った。
「いろんな声。悲鳴よ」
「悲鳴?」
 キリエはうなずいた。
「あなたと笙子ちゃんの声も聞こえたわ。やっぱり、悲鳴。たぶん、屍体を見つけたときの叫びね」
「笙子はともかく、おれは悲鳴なんかあげなかったぜ」
 七海はややむっとして、キリエの言葉をさえぎった。
「馬鹿ね、心の叫びよ。耳から入ってくる声じゃないわ」
 キリエはつぶやくように言った。
「一種のテレパシーかしら。わたしにはそういうものが聞こえるの」
──うん。それは知ってる」
 キリエの特殊能力については、七海も、響や彼女自身から話を聞いているし、実際、その“力”を目の当たりにしたこともある。
「この町で何かが起こってるのは疑いようがないわ。七海君もそんな不自然さを感じてるのね」
「うん。不自然というか、何か引っかかるというか……」
「響さんのところへも相談しに行ったんだけど、相手にもされなかったわ」
 七海は不思議そうにキリエの顔を見た。
「先輩は響さんが嫌いじゃなかったの?」
「ええ、嫌いよ」
 にべもなく、キリエは即答した。
「わたしを単なる研究対象としてしか見ない。一人の人間として見てくれないあの人が、大嫌いよ」
「……」
 七海は無表情なキリエの横顔を見て、心に動くものがあった。
「それって、もしかして……」
「でもそんなこと、今はどうでもいいわ」
 キリエは不意にベンチから立ち上がり、七海を顧みた。
「吸血鬼かどうかなんて判らないけど、わたしもこの町に魔性の者の気配を感じるわ」
「魔性の者?」
「そうよ。あなたも、その素性が知りたいんでしょう?」
 わずかに、七海の表情が緊張で引き締まった。──キリエは解っているのだ。七海が何を言いたいのか。
 七海は慌ててベンチから立ち上がった。
「で、どうするの?」
「手掛かりを見つけなきゃ。事件の第一発見者たちに会ってみるわ」

 事件の第一発見者──それは、全て深見中学の生徒たちであった。事件の犠牲者が、全て、深見中学の生徒であるように──
「なんか、深見中だけが呪われてるみたいだ」
「そうね」
「って、先輩、冗談だよ」
 市の図書館に立ち寄った七海とキリエは、図書館のパソコンを使って、ここ数週間の新聞記事で事実を確認し、知りうる限りの事柄をメモした。
「だって、場所も、全て深見中の中じゃない。悪魔に魅入られてでもいるように」
「悪魔かあ……」
 確かにそうだ。
 深見中学に漂う悪魔的な異様な空気。
 七海自身、それを気味が悪いほど肌で感じている。
「誰かが学校で、悪魔召喚の黒魔術でもやったか?」
 彼は、絶望的なため息を吐いた。

 二人が図書館を出たとき、すでに陽は西へ傾いていた。
 長時間パソコンの画面を凝視していた反動から、思わず七海は大きく伸びをした。その隣で、キリエは手帳に写し取った情報に目を通していた。
 手に持った手帳の文字を無表情に見つめながら、キリエは状況を整理した。
「最初に見つかった被害者が笙子ちゃんの友達。次が七海君の友達。二人は三年生ね。それから、二年生の女の子。ここまでは心臓を抉り取られていて、その心臓はまだ見つかっていない」
「うん」
「四人目の被害者を七海君たちが発見したのが昨日。心臓は取られていなかったけど、血を吸われていた。──そうね?」
「うん」
「場所は、それぞれ、体育館の裏、男子トイレの中、階段の踊り場、音楽室……もう少し詳しい場所は判らないかしら?」
「それで充分だと思うけど?」
「正確な場所が知りたいわ。体育館の裏手のどの位置か、とか、どの校舎の何階のトイレか、とか」
「噂でいいなら、みんな、いろいろ言ってるよ」
「そうね。その噂を、できうる限り拾い集めてみましょうか」
 二人は、まず、七海のクラスメートの家を廻ってみることにした。
 七海の記憶を頼りに歩を進める。
「ねえ、七海君。あなたが毎日学校に通っていて、何か気づいたことはない?」
「え? 特にないけど……」
 意外そうな七海。
「何でもいいんだけど」
「って言われてもさ──特に変なことなんて何も……」
 言いながら、ふと、七海の頭の中を何かがかすめた。
「でも、そういえば」
「何?」
「鴉が……」
「鴉?」
「鴉が増えた。やけに学校に鴉が目に付くようになった」
──
「って、笙子が気にしてたんだ。ははっ、どうでもいいよね、そんなこと」
 照れ隠しに七海は笑ったが、キリエは笑わなかった。
「猫も──増えた……」
「は? 猫?」
 キリエは七海の眼をまっすぐ見てうなずいた。
「いつもあの公園で餌をやってるの、知ってるでしょ? 気にも留めてなかったけど、集まってくる猫の数が、ここ数日、目に見えて増えていたわ」
「でもそんなこと……」
「猫や鴉はもともと魔性──迂闊だったわ。気づかなかった」
 悔しげにつぶやくキリエの横顔を、七海はただ呆然と眺めた。

 時計に目をやる。
 時刻は午後一時を少し過ぎたところだった。
 昨日、七海はどうしたろう?
 その日のうちにまた舞い戻ってくるかと思ったけど、十字架を手渡し、飛び出していってそのままだ。
 保科笙子は、自宅でピアノに向かいながら発声の練習をしていたが、このところの連続殺人のことが頭から離れず、なかなか集中できないでいた。
(あいつ、あんなに気軽に出歩いて、殺人鬼に捕まったりしてなければいいけど)
 不安がふくらむ。
 笙子は傍らに置いていたスマートフォンを手に取った。
 七海の名前をタップする。
 呼び出し音を聞きながら、胸の鼓動が速くなっていった。
(早く出てよ、七海君──
 コールが五回を数えた。
『もしもし、笙子? どした?』
「七海君……!」
 電話越しに聞く七海の声は、いつもの元気な彼の声であると同時に、妙な響きをも含んでいるようだ。──疲労? 焦燥?
「七海君、今何してる? 昨日、あれからどうしたの?」
『あ、うん。事件のこと、調べてんだ。キリエ先輩と』
「キリエ先輩と?」
『うん。昨日、キリエ先輩と図書館のパソコンでいろいろ調べて、それから、実際に事件について詳しい話を知ってるやつとかに状況を聞いて廻ってる』
「昨日からずっと? 今も?」
『そうだよ。キリエ先輩が言うには、事件の輪郭を少しでも正確に知ることが重要なんだとかで……』
 笙子はぐっと唾を呑み込んだ。
「あたしも行く。一緒にやらせて?」
 その声は、いつもの笙子のどこか甘えるような口調とは異なる、決然とした響きがあった。
「駄目? 足手まといにはならないから」
 しばしの沈黙が、七海の躊躇を語っていた。
「キリエ先輩も一緒なら、心配ないじゃない。あたしも七海君たちに協力したいのよ」
『気持ちは嬉しいけどさ、でも、笙子は──
「亜美ちゃんの──亜美ちゃんのこと考えたら、じっとなんてしてられないよ」
 電話の向こうの七海がはっと息をつめる様子が笙子にも伝わってきた。
 親友を惨殺された笙子の気持ち。
『笙子……』
「お願い。絶対邪魔にはならないようにする。キリエ先輩にも、迷惑かけない」
 微かなため息が受話器から洩れ聞こえた。
『……しょうがないな。十字架は持ってろよ?』
「うん。今どこ?」
『聖ミカエル教会。今、ここで昼飯ご馳走になってたとこ』
「じゃ、今から行くわ。十五分ほどで着くと思う」
『気をつけて来いよ』
「解ってる」
 ありがとう──とつぶやきながら、笙子は電話を切った。
 すぐにピアノのふたを閉め、立ち上がる。
 スマートフォンはポケットに入れた。
 胸元には首からかけた銀の十字架が揺れている。
 笙子は小さなアクセサリー・ケースからもうひとつ、ネックレスを取り出し、それも首にかけた。
 七海がくれた金平糖のような水晶のトップが付いたネックレス。
 その小さなきらめきに、彼女はやさしい表情で微笑みかけた。
 七海はいつでも自分の気持ちを理解してくれる。
 笙子は温かい気持ちで胸が満たされるのを感じた。

「笙子ちゃん、何て?」
 教会の中の小さなキッチンで、昼食に使った食器を洗い終わった黒川キリエが、まだ椅子に座ったままの七海のそばへゆっくりと歩み寄った。
「ここに来るってよ。あいつもあいつなりに、事件の犯人を捕まえたいらしいんだ。島崎亜美は──あいつの親友だったから」
 キリエは不服そうだった。
「笙子ちゃんの気持ちは解るわ。でもね、七海君。彼女は女の子だし、やっぱり、こんな事件に首を突っ込むのは危険極まりないと思うの」
「おれもそう思う」
「だったら……」
 七海はキリエの瞳をまっすぐに見て、きっぱりと言い放った。
「おれが笙子を護る。キリエ先輩だっている。絶対に笙子一人では行動させないと約束するよ」
 キリエは哀しそうに視線を七海からそらし、眼を伏せた。
「ねえ、七海君。世の中にはね、意志の力だけじゃどうにもならないことがあるの。わたしの“力”は全能じゃない」

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2004.3.22.