イーヴル・アイ

第六章 狩り立てる

「動き始めたようね」
 カーテンの陰からそっと窓の外の様子をうかがっていた、セシルがつぶやいた。
 窓から見える空に、無数の鴉が飛び交っている。
「ふ……彼、か」
「ええ。彼、よ」
 グランドピアノの前に座ったシヴィルが、流れるようにエチュードを弾き始めた。革命──ショパンである。
「シリルはどうした?」
「予定通りよ」
 優雅な手付きで弾き鳴らされるピアノ。
 シヴィルは鍵盤を見下ろしたまま、低い声で妹に問うた。
──あと何人だ?」
「二人、かしら」
 セシルは振り返って兄を見た。
「一人、無駄にしちゃったけど、だからってどうってことないわよね」
「ああ。急ぐ必要はない」
 セシルはくすっと笑った。
「でも、手持ち無沙汰なの。シリルが一人、わたしが一人、でどうかしら? 今度はちゃんと狩ってくるわ」
「好きにしろ」
 繊細な指先から生み出される美しい音色は、完璧な技術で成されていたが、しかし、叙情というものが全くない。感情のないロボットが弾いているような、冷たい精密さであった。
 そんなシヴィルのピアノにしばらく耳を傾けていたセシルだが、
「行ってくるわ」
 と軽く手をあげて、窓のそばから離れた。そしてそのまま、グランドピアノの傍らを素通りし、扉に向かった。
 シヴィルは無言でピアノを弾いている。

 電話を切ってから三十分が経過しても、聖ミカエル教会に保科笙子は現れなかった。
「何やってんだよ、笙子のやつ」
 苛々と何度も腕時計に目を落とす七海の姿を所在なさげに見つめていたキリエが、ぽつりと言った。
「ねえ、七海君。本当は、七海君を巻き込んだことさえ、間違っていたんじゃないかと後悔してるのよ」
「え、なんで?」
──危険、じゃない」
「それを言ったら、キリエ先輩だって危険だよ?」
 きょとんとした表情の七海を見て、キリエは苦笑を洩らした。
「わたしはほら、普通の人間とは少し、違うから」
「でもやっぱり危険じゃないか。そんなことは始めから解ってるよ」
「本当にそう?」
「当たり前じゃないか」
 キリエが何を言いたいのか理解できないまま、七海は椅子から立ち上がった。
「ちょっと見てくる」

 自宅を出た保科笙子は、まっすぐ、聖ミカエル教会に向かっていた。
 事件への警戒から町に人影はほとんどないものの、昼日中の往来である。笙子は一人で外出することに、それほど怖さを感じていなかった。それなのに──
「ちょっ、やだ、何これ……!」
 しばらく歩いてから気がついた。
 空が黒い。
 街路樹、電柱、家々の屋根──
 何という数の鴉だろうか。
 いつの間に、深見中から町中に鴉が増えたのだろう?
「やだな。大きいんだもん、鴉って……」
 こちらから手を出さなければ大丈夫だとセシルは笑った。
 本当だろうか?
──っ!」
 突然、街路樹に止まっていた一羽が大きく羽ばたいたかと思うと、笙子に向かって急降下した。
「きゃあっ!」
 まるでそれが合図だった。
 一羽、また一羽と、鴉たちは空へ舞い上がり、笙子に向かって降下してきた。──悪意を持って笙子をからかうように。
「何よ、何なのよっ……!」
 鴉たちは直接笙子に攻撃を加えることはなく、ただ、からかって、弄んで、残忍な歓びに浸っているようにも見えた。
 それでも、笙子の恐怖は否応なしに増幅されていく。
 襲撃されていることに変わりはない。
 顔を伏せ、無茶苦茶に両手を振って、笙子は自らを何重にも取り囲む黒い鳥の群れから逃れようともがいた。
「何なのよぉ……」
 半ば泣き声になってポケットからスマートフォンを取り出し、七海に連絡しようとしたそのとき、
「きゃっ──!」
 笙子の正面に廻り込んできた一羽が顔の前で大きく羽ばたいたため、笙子の手からスマートフォンが滑り落ちた。
「やっ、スマホが……っ」
 拾おうと手を伸ばした笙子に、追い討ちをかけるように数羽の鴉が彼女の頭部におおいかぶさった。
「やめてよ! やめてってばーっ」
 両手で頭をかばいながら、泣き声で抗議する笙子。
 彼女が首を大きく振ったとき、小さなきらめきが、弧を描いて地面に落ちた。彼女はそれに気づかない。その場から、身を振り切るようにして走り去った。
 そんな彼女の様子を少し離れたところから眺めている、一人の少年がいた。
 エメラルド色の瞳。さらさらと風になびく金髪。
「くくっ。彼女はなかなか楽しませてくれる」
 清純無垢な天使の笑顔で、シリルは踵を返した。と同時に、地上にあった鴉の群れが、一斉に空へと飛び立った。

 笙子は駆けた。
 背後を、頭上を、振り返るゆとりすらなく。
 必死になって公園を抜けようとしたとき、木立の向こうに人影が見えた。見覚えのある後ろ姿が目に留まった。
「セシル?」
 金髪の少女がふらふらと歩いていく。
 この町が、昼間でも決して安全ではないことを、笙子は身をもって痛感したばかりだ。
「独りなんて危ないわ。セシルも襲われたりしたら……」
 意識したわけではなかったが、笙子の足はその金髪の少女のあとを追うように動いていた。

「あれ? これ、笙子にあげたやつじゃないの?」
 七海は手を伸ばして水晶を拾い上げた。
 ネックレスを落としたことに、笙子は気づいていないらしい。
 細いチェーンが切れていた。
「まあ、いいや。あとで渡せば」
 七海の手の中の水晶は、午後の陽光を吸い取るようにその透き通った星形にきらめきを集めている。
 太陽のきらめきを集める妖かしの水晶──
 ふと胸をよぎる不吉な思い。
 不安と呼ぶには強烈すぎる心の動揺。
 何気なく浮かんだ笙子の顔が、七海の脳裏から消えなかった。
「どうしたんだよ、おれ……」
 七海は軽く首を振って、その不吉な思いを振り払おうとしたが、無駄だった。
 どこか遠くで美しい笑い声が聞こえた気がした。

* * *

 銀杏の木立の間を縫うように、笙子はセシルの姿を捜して歩いた。
「見失っちゃった……」
 セシルも、鴉に襲われていなければいいけど。
 ううん、鴉だけならまだいい。
 殺人鬼が横行しているかもしれない町を、たった一人で歩き廻るなんて。
 そして、自分もまた一人であることに今更ながら気づき、笙子は戦慄した。
「早く、七海君たちと合流しなきゃ」
 セシルを捜すことをあきらめ、笙子が踵を返しかけたとき、微かな物音が聞こえた。
 人のいる気配。
「セシル……?」
 だがしかし、もしも、セシルでなかったら……?
 恐怖に駆られ、一瞬すくんだ足に力を込めて、笙子はそろそろと後退さった。
 今は聖ミカエル教会にたどり着くことだけを考えよう。
 と、ふと左に走らせた視線の隅に、淡い金髪の頭が映った。
 今度こそセシルだ。
「セシル──
 笙子は彼女のいる方向へ、一歩、二歩、と歩み寄っていった。
 金髪の少女は向こうを向いていた。一人ではない。いつの間にか、連れがいる。
 少年──らしい。
 その、金髪の少女より頭ひとつ分背の高い少年の首に、セシルの両手がおもむろに巻き付いた。
 え、もしかして、キス……するとこ? あれ、彼氏? セシルに彼がいたなんて、あたしちっとも──
 そこで笙子の思考は停止した。
 何? なに、してるの……?
 少女は、少年の首筋に静かに顔をよせている。
 そのまま動かない。
 なに──してるの──
 少年の表情が、みるみるうちに消えていくのが判る。
 紙のような顔色。
 ──見たことのある顔色。
「……」
 混乱した。
 わけが解らないまま、笙子は、一歩後ろにさがった。
 金髪の少女が振り向く。笙子を見た。
 間違いなくセシルである。
「セシル……!」
 美しい少女の唇が紅い。
 その紅い色がつっと糸を引いて白い顎を伝ったとき、笙子は愕然と事実を知った。
 ──血。
「吸血鬼──なの……?」
 震える声で、笙子はささやいた。
 美しい少女はにっと笑いの形に唇をゆがめた。その唇を血に濡らしてなお、それは天使の微笑みに見えた。
 少女の手が離れると、少年はどっと地面に倒れた。
 首筋には小さな傷が二ヶ所。
 その額にじわじわと浮かび上がってきたものを見て、笙子は叫び出しそうになった。
 逆さのペンタグラム──
 それは血文字ではなく、刻印だった。
 悪魔の手にかかった者の印。
 笙子は両手で口を押さえて、立ちつくした。
 全身が硬直している。
 声も出ない。
 惑乱。
 笙子の首に掛けられた十字架を見て、セシルは嘲笑った。
「十字架ね。残念でした、十字架やニンニクなんて効かないわよ。わたしは吸血鬼じゃないもの」
「でも──でも──
「血を吸っていたのではと言いたいんでしょう? ええ、その通りよ」
「じゃあ……」
「殺し方をまねただけ。すぐ失神するから、楽なの」
 そう言って微笑んだ彼女は、まさに天使のようだった。

「笙子ちゃん、いた?」
「ううん。だけど、これ拾った」
 追ってきたキリエに、七海は掌の水晶のネックレスを見せた。
「なあに、それ?」
「おれが笙子にあげたものなんだ。これが落ちていたということは、少なくとも、笙子はここまでは来たんだ」
「ねえ、ちょっとそれ見せて」
 ネックレスを受け取ったキリエのその黒い瞳に、微かな戦慄が揺蕩っている。
「七海君、この水晶、どこで──?」
「え? あ、えーと、拾ったんだよ」
「拾った?」
 七海はばつが悪そうに頭をかいた。
「笙子には内緒だよ。拾ったもんだなんて知ったら、あいつ、絶対、気を悪くするだろうし……」
「そうじゃなくて」
 キリエは怖いくらい真剣な表情で七海の言葉をさえぎった。
「どこで拾ったの? この水晶に強い魔力の波動を感じるのよ」
「何だって……?」
「ただの水晶じゃない。これは魔に属する代物だわ」

 町全体が眠りについてでもいるようだ。
 人通りの全くない住宅街を、七海は走った。
 近くに笙子の姿はない。
 笙子のスマホに電話は通じない。
 助けを求められる人間は、一人しかいなかった。
 ──南城響。

 篠村七海と別れ、教会に戻ろうと急いでいた黒川キリエの前に、突如、二つの影が立ちふさがった。
 刹那、天使が舞い降りたような錯覚に襲われ、はっとしてキリエは立ち止まった。
「……」
 そっくり同じ顔立ちをした美しい二人の天使は、エメラルドを思わせる鮮やかな緑色の瞳で、キリエを見据えた。
 一人は少年、一人は少女だった。
──誰? 何か用なの?」
 警戒心を露骨に示した低い声で、出し抜けにキリエは誰何した。
 対する二人の天使は、春風のように微笑む。
「はじめまして。わたしはセシル。こっちはシリル。七海の友達よ」
 そして少女は言葉を切ったが、いつまで待ってもキリエが口を開かないので、困ったようにやや首を傾けて尋ねた。
「あなたの名は?」
「キリエ。──黒川キリエ」
「Kyrie? 嫌な響きの名前だな。教会の眷属か?」
「でも、この娘、わたしたちと同じ匂いがするわ」
 キリエの眼が、わずかに細められた。
「……それは、魔性──ってこと?」
 少女が──セシルがキリエを見て、再び微笑んだ。
「遠くからでも感じたわ。同属の波長を。だから、迎えに来たのよ」
「迎え?」
 セシルはシリルと目を合わせてうなずいた。
「キリエ、わたしたちと一緒に来ない?」

 七海は息をつくまもなく走り続けた。
 呼吸が苦しい。が、それ以上に胸が苦しい。
 島崎亜美は、行方不明になって一週間後、遺体で発見された。
 不吉な思いは現実となりつつあった。

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2004.3.28.