イーヴル・アイ
第七章 予兆
南城響は書斎の窓から空を見た。
妙な色だ。
古い柱時計に目をやり、再び空へ視線を向ける。
──おかしい。
太陽が──
「……響さん!」
名を呼ばれ、はっとした響が書斎の扉のほうを振り返ると、そこには息を切らせた篠村七海が扉に寄りかかるようにして立っていた。
「七海君?」
そのただならぬ様子に驚いた響は慌てて七海を安楽椅子に座らせた。
「どうしたんですか? それに、どこから入ったんです?」
「……に、庭──から。リビングの……窓、が──開いてた……」
ぜいぜいと肩で息をする七海の呼吸が少し落ち着くのを待って、響はコップに水を汲んで持ってきた。七海に渡す。
七海は渡された水を一気に飲み干した。
「響さん、今度こそ、力を貸してよ。笙子──笙子が、いなくなったんだ」
「え──?」
響はいきなり後頭部を殴られたような激しいショックを覚えた。
保科笙子は七海にとって最も親しい、大切な幼なじみだ。
自分の怠慢が、こともあろうに七海に最も大切な存在を失わせてしまう結果を招いたのか──?
「七海君、ゆっくりでいいですから、落ち着いて説明してください。笙子ちゃんはいつ、いなくなったんですか?」
「たった今。いや、さっき。聖ミカエル教会で落ち合う約束をしてたんだ」
七海は大きく肩を上下させながら、呼吸を整えようと焦っていた。
「なのに、いつまで待っても──来ない」
「携帯は?」
「何度もかけた。でも、通じない」
「キリエちゃんは?」
なぜ、ここにキリエの名が出てくるのか。
響は七海がキリエと行動をともにしていたことは知らないはずだ。聖ミカエル教会で落ち合うと言ったからか?
しかし、七海にはそんなことに気づく余裕はなかった。
「さっきまで一緒だったんだけど……おれが響さんとこに行くって言ったら、必要なものを取りに行くと言って、一旦、教会へ戻った」
「そうですか──」
響は、少し考えるような眼差しをした。
「事態は僕が考えていた以上に早く進行しているようですね。七海君、キリエちゃんに電話して、ここへ来るように言ってください」
美しい金髪の少年と少女を、キリエは険しい目付きで睨んだ。
「わたしはあなた方と同属じゃない。勘違いしないでもらいたいわ」
シリルが怪訝そうな表情をした。
「何を言ってるんだ? 君は理解している。おれたちは仲間なんだ」
「わたしはこの町の人間。あなた方はこの町にとっての異端者。あなた方が何を考えているのか知らないけど、わたしたちは正反対の立場にいるのよ」
「だから、迎えに来たんじゃない」
と、今度はセシルのほうが言った。
「それに、人間ですって? 本気でそう思っているの?」
「あなた方が何と言おうが、わたしは人間である立場を変えないわ」
そのとき、キリエのジャケットのポケットの中から、スマートフォンの着信音が鳴り響いた。
「さよなら。でも、また会うでしょうね。今度は敵として」
金髪の二人に口をはさませる隙を与えず、キリエは彼らの傍らを素早くすり抜けると、教会に向かって走り出した。
そして角を曲がって立ち止まり、スマートフォンを耳にあてた。
「七海君?」
『キリエ先輩。おれ、今、響さんとこ。キリエ先輩も、用事が済んだら、すぐこっちへ来て』
「解った」
キリエは通話を切って、教会への道を急いだ。
南城響は窓辺に立ち、太陽を見つめていた。
そんな響の様子が、七海には歯がゆい。
「響さん、何ぼんやり立ってるんだよ。今、何かおれたちにできることってない?」
だが、響はそんな七海の苛立ちを無視し、静かに言葉を紡いだ。
「日蝕です」
「え?」
「日蝕が始まろうとしています」
「え、日蝕? 今日? そんなニュース聞いてないけど」
「物理的に日蝕が起こる予定はありません。けれど、日が欠け始めている」
「……」
得体の知れない不吉な思いに囚われ、七海は身震いをした。
「なんで?」
「異端者たちが何か始めたのでしょう。ゆっくりだが、確実に太陽は欠けている。一、二時間後には闇に包まれるでしょう」
七海は響と並んで太陽を見上げたが、まだ太陽の中に蝕らしいものを見て取ることはできなかった。
「それは確かなの」
「残念ながら」
七海はポケットからスマホを取り出し、再び保科笙子の名前をタップした。
「笙子ちゃん、ですか?」
「駄目だ、やっぱりつながらない」
スマホをしまうと、七海は無言で踵を返しかけた。
「七海君、どこへ行くんです!」
扉のところで、七海はちょっと振り向いた。
「もう一度、笙子を捜してくる。大丈夫、無茶はしないから」
「……止めても聞かないんでしょうね」
と、響は小さくため息をついた。
「ごめん。でも、おれが笙子を巻き込んだんだし……」
「七海君、メドゥーサの眼は持っていますか?」
「ああ、あの青い硝子玉。首にかけてるよ」
響はうなずいた。
「それが君を護ってくれます。何かあったら、すぐに僕のスマホに電話して」
「うん」
険しい表情で、七海は南城響の家を飛び出した。
閉鎖されているはずの深見中学の校門から、金髪の少年が一人、出てきた。
三つ子の長兄・シヴィルである。
ひと気のない町をゆっくりと歩き、彼は、聖ミカエル教会近くの銀杏の木立のある公園までやってきた。
「聖ミカエル教会はこの方角か──」
「あれ、シヴィル?」
はっとして振り向くと、向こうから篠村七海が駆けてくるところであった。
「どうしたんだよ、こんなところで」
「七海こそ」
「おれは笙子を捜してるんだ。おまえ、笙子、見かけなかったか?」
「いや」
「そうか。……どこ行っちまったんだろうな」
「七海」
「ん? 何?」
「僕たちが初めて会ったとき──」
「え? 初めて何?」
シヴィルはふっと微笑んだ。
「何でもない。もうすぐ判る。じゃあね」
七海に向かって軽く手を上げ、その場を離れようとしたシヴィルを、反射的に七海は呼び止めた。
「シヴィル」
「何?」
「悪魔って信じる?」
「悪魔?」
シヴィルはくすりと笑った。
「七海は信じているの?」
「タロットカードにもあるじゃないか。山羊の角を持って恐ろしい姿をした──」
「ああ、バフォメットね」
シヴィルはふと屈託のない笑顔を見せた。
「七海はあれが悪魔の姿だと思っているの?」
「でも、タロットには……」
「あれは人間の空想の産物だよ」
南城家の玄関のチャイムが鳴った。
玄関扉を響が開けると、そこには大きなショルダーバッグを抱えた黒川キリエが立っていた。
「響さん──」
「よく無事で来られましたね、キリエちゃん。その荷物は?」
「聖水です。教会までこれを取りに行っていたんです。七海君は?」
「それが……」
そう言って、響はちょっと肩をすくめてみせた。
「あの性格でしょう? キリエちゃんを待ちきれなかったみたいです」
「……笙子ちゃんを捜しに飛び出していったんですね」
響はキリエからバッグを受け取り、
「重いですね、これ」
「水ですから」
響とキリエは場をリビングに移した。
「携帯に電話してみましょうか」
「ええ」
キリエはスマートフォンを取り出し、七海にかけた。
『もしもし』
「七海君? 今どこ?」
『キリエ先輩こそ。もう、響さんちに着いたの?』
「そうよ。とりあえず、あなたも戻ってきて」
『うん──笙子の姿も全く見当たらない。その辺を捜しながら、おれも戻るよ』
「ちょっと待って、七海君、今すぐ、戻ってらっしゃ──」
そこまで言って、あきれたようにキリエはスマホを眺めた。
「どうでしたか、七海君の様子は」
「切れてしまいました。あの様子では、すぐには戻ってこないと思います」
「鉄砲玉ですからね、彼は」
キリエは眉をひそめて唇を噛んだ。
「響さん、太陽……」
「ええ。やはり、キリエちゃんも気づいていましたね」
「さっき、この家に入るときに気づいたんです。七海君、早く戻ってこないと、外は暗闇になってしまうわ──」
キリエにソファーを勧め、響は沸かしたお湯をポットに注いだ。
「お茶を飲んでる場合でもないんですけどね。七海君が戻るまで、とにかく待ちましょう」
紅茶を二人分、テーブルに並べてから、タロットカードを手に、響もキリエの向かい側のソファーに腰を下ろした。
そんな響を眺めていたキリエが、決心したように、ぽつりと告げた。
「さっき、無事でって響さん、おっしゃいましたが、そうじゃないんです。……わたし、会いました。異端者たちと」
響の眼がわずかに細められた。
「天使のような金髪の双子でした。エメラルドのような眼が印象的で……」
「天使──」
ふと、響には思い当たることがあった。
でも、おれは見たんだ。
猫のように光る緑色の眼をした、絵から抜け出たように美しい三人の天使を。
「その天使は、三人じゃなかったんですね?」
「わたしが会ったのは二人でした。男の子と女の子で、でも、そっくりだったから、てっきり双子かと」
「異端者は三人です。キリエちゃんに接触してきたのは、そのうちの二人でしょう」
「三人──そうですか。少年はシリル、少女はセシルと名乗りました。二人は七海君をよく知っているようです」
「──」
「七海君の友達だと言ったんですよ」
「……危険ですね。彼、自分でも気づかないうちに巻き込まれてしまっている」
「どうしましょうか」
響は立ち上がった。
「お茶なんか飲んで七海君を待っている場合ではありませんね。事態が刻一刻と進んでいる以上、こちらも迅速に動かないと」
立ち上がった響は、壁際のアンティークの棚の引き出しを開けて何かを取り出し、再びソファーまで戻ってきた。
「キリエちゃん、これ──」
そう言って響が差し出したのは、硝子であろうか、青い石のようなものだった。
腕を伸ばしてそれに触れようとしたキリエの手が、ふと、止まった。
“ナザール・ボンジュウ”──ガラスの目。
「これ──」
「判りますか」
キリエは無言で目玉が描かれた青い硝子玉を見つめた。
「つらいなら……無理に持つ必要はありません」
突然、はっとして、困惑したような響の顔を見た。
「響さん、まさか──!」
キリエは愕然となった。
響は知っていたのか。──彼女が魔性の存在であることを。
彼女と同属と知っていたからこそ、響は異端者を追及することをしなかったのか。
激しく動揺する自分自身にキリエは狼狽した。
「このメドゥーサの眼にはかなり強い呪いがかけてあります。教会や十字架をものともしない族のための、ね」
「……」
新たに浮かんだ疑惑に心を捕らえられ、キリエはまともに返事ができなかった。
「そんな族でも、聖水には反応を示すでしょう。これは聖水とほぼ同様の力を持つ護符なんです」
そこで、響は一旦言葉を切った。
「キリエちゃん、あなたを魔性だと言っているのではないんです」
キリエの肩がびくっと震えた。──やはり、響さんは。
ことり、と響がメドゥーサの眼をテーブルの上に置いた。
「あなたが何者なのか、実際のところ僕にはよく解らない。でも、あなたは教会で育てられてきた。十六年間も。もし、あなたが魔性なら、教会の中で無事に生きてこれるはずがないでしょう?」
「響さんは、父がわたしをあなたに引き合わせた切っ掛けを、覚えているはずだわ」
響は穏やかな眼をしてキリエを見た。
「聖水で火傷をしたのよ?」
「──もちろん、覚えています」
「だったら……!」
「黒川神父はそれを承知の上で、あなたを育ててきたんですよ」
「……父はクリスチャンだもの」
「キリエちゃん」
響の声は穏やかだったが、巌のように揺らぎがなかった。
「魔性、って何ですか? それはただのレッテルでしょう?」
「……」
「そんなものに捕らわれる必要はありません。今は異端者をあぶりだし、笙子ちゃんを見つけることだけを考えましょう」
張りつめた緊張が、少し、ゆるんだような気がした。
キリエの頬を、一粒の涙がこぼれ落ちた。
町内を何周しただろう。
これほど走り廻っても笙子の姿を見つけられないことに、七海は、絶望にも似た焦りを感じ始めていた。
笙子の自宅にも足を運んだ。
聖ミカエル教会にも、入れ違いになっていないかどうか、確かめに行った。
通じない彼女のスマートフォンに、何度メールや電話をしただろう。
ふと、七海は空を見上げた。
「……ん?」
空が、薄暗い。
まだ陽が落ちるには早い。
──日蝕──
南城響の言った言葉を思い出し、七海ははっとなった。
「本当だったんだ、日蝕……」
確かに太陽が欠けている。
今度は七海の目にも、蝕を捉えることができた。
町は、辺りは、見る見るうちに闇に支配されていく。
──響さんの家に戻らなくては──!
そのとき、七海は初めて闇に一人になる恐怖を実感した。
2006.4.4.