イーヴル・アイ

第八章 日蝕・闇に沈む街

 公園を突っ切ろうか。
 少なくとも、それが近道だ。
「よし」
 さっきまで薄暗かったのに、辺りはもう闇に近い。
 太陽は、日蝕の速度を急激に加速させたようだ。
 公園の中は真っ暗だった。
 もう少し──街灯があったような気がするが、電球が切れているのか、灯りは点っていなかった。
 篠村七海は、つい四、五十分ほど前、この場所でシヴィルに出会ったことを漠然と思い返していた。
 ──まさか、もういないだろうな、あいつ。
 闇の中、一人で走る公園の木立は不気味だ。
 ふと、七海は、前方に無数の小さな動物の気配を感じて立ち止まった。
 猫だ。
 その数、十匹や二十匹ではない。
 何十匹もの猫が、七海の行く手を阻むように、公園の繁みの陰から次から次へと姿を現したのだ。
「何だ──? こんなにたくさん──
 猫が増えている、とキリエが言っていた。
 でも、これほどとは聞いていない。
 あたかも波のように、不気味な猫の群れがこちらへ押し寄せてくる。
 その波の中に浮かぶように、見たことのある人影が歩いてくるのが見えた。
 深見中学の制服姿だ。
「シヴィル?」
 いや、シヴィルではない。
 肩まで垂れた髪が、彼女が少女であることを示していた。
「セシル──
 暗闇の中、こちらへ向けられたセシルの緑の瞳が光ったような気がして、ぞっとした。
「何してるんだよ、セシル。こんなところで」
 一応、訊いてみる。
「笙子、見なかった?」
「ええ、会ったわ」
 こともなげに答えるセシルに、七海は唖然となった。
「どこで?」
「この公園よ。でも、もういないわ」
「どこへ行ったんだ?」
「さあ?」
 ぽつりとひとつ、点った街灯が、ちらちらとその光を思い出したように点滅させる。
 仄白く照らされ、すぐ影になるセシルの美しい顔は、じっと七海を見つめていた。
 得体の知れない恐怖が背筋を走る。

 ──邪眼イーヴル・アイ

 射すくめるように自分を見つめるエメラルド色の瞳から、七海は眼をそらすことができなかった。
 まるで魔法にかかったように手足は動かず、動かそうとする意思すら働かない。
 酔ったような気分。
 恐怖が甘美に変わる瞬間だった。
 セシルがにっと笑った。
 七海の足許を取り囲む猫たちの無数の眼が妖しく光る。
「笙子は颯水晶そうすいしょうを持っていなかった。じゃあ、あなたが持っているのね?」
「笙子をどこへやったんだよ!」
 激しく叫ぶ七海に対し、セシルはただ可憐に首を傾げた。
「シリルと一緒じゃないかしら」
「どういうことだ?」
 こちらへと歩を進めるセシルから離れようと、七海はゆっくり後退さろうとしたが、足許にいる鋭い猫の威嚇がそれを阻止した。
 セシルはくすりと笑い、しなやかに伸ばした両手を七海の両の肩の上に置いた。
 視線を捉えて放さない。
 二人の身長はほぼ同じだった。
「キスしていい?」
「……」
「やっぱり、ほら、シヴィルやシリルの手にかかるより、女の子の牙にかかるほうが素敵でしょ?」
 そう言って、妖しく七海の首筋に白い指を伸ばしたセシルは、だが、次の瞬間、目に見えない何かに弾き返されたように、七海のそばから飛び退いた。
「なに──? 何を持っているの……!?」
 驚愕の表情で七海を見たセシルの視線が自らの指に落ちる。
 七海の首に触れた華奢な指先は、酸を浴びたように焼け爛れていた。
 七海自身も驚いた。
 はっとして、首にかけていた青い硝子玉のペンダントを思い出した。
「メドゥーサの眼──本物の護符だったんだ……」
 悪魔の視線から身を護るお守り──
 ありふれた土産物だと響は言った。
 だが、真に護符として使えるよう、響はこれに力を与えていたのだ。
「響さん……」
 突然、頼りなく点滅していた街灯の光が、破裂したように消えた。
 と同時に、影のように、セシルはすっとその場から後方の暗闇へ跳躍した。
「待てよ、セシル! おまえは一体……!」
「七海君!」
 背後から呼びかけられて、驚いて振り返った七海の目に、駆けてくるキリエの姿が映った。
 夜のような闇の中、彼女はスマートフォンを懐中電灯代わりにしている。
「キリエ先輩、どうしてここが……」
「気配を感じたから」
 手にしたスマホのライト機能で辺りを照らしながら、キリエが言った。
 キリエの訪れとともに、あれほどいた猫たちは、潮が引くようにいなくなっていた。
 彼女は注意深く周囲を見廻し、魔性の者の気配を探した。
 が、その気配はすでに消え去っている。
「七海君、誰かと一緒だったんでしょう?」
「あ、ああ。同じ中学の子。セシルっていうイギリス人の女の子」
「たぶん、その子にわたしも会ってるわ。七海君の友達だって言ってた。シリルって男の子も一緒だったわ」
「そうだ、シリル!」
 はっとなって、七海はキリエの顔を見つめた。
「笙子がシリルと一緒にいるってセシルが言ったんだ。先輩、どこでシリルに会った?」
「七海君に水晶を見せてもらったあと、教会に戻る途中の道で。でも、セシルが一人でここにいたんなら、シリルだって、たぶん、どこか別の場所に移動しているわ」
 キリエは二つ持っていたショルダーバッグのひとつを、七海に渡した。
 南城宅に持ってきたのとは別の、それより小ぶりな物である。
「とにかく、これ持ってて」
「何?」
 キリエの持つスマホのライトの灯りで、七海はバッグの中を確かめる。
「……飲み物?」
 ショルダーバッグの中には、マグボトルが三本と、銀色に光る細いペーパーナイフが入っていた。
「違うわ。聖水よ」
 キリエは自分の分のバッグの中身も見せた。
 七海のと同じように三本のマグボトルと、あとはペーパーナイフではなく、小さな救急キット、手帳や黒い布に包まれた品などが収められていた。
「マグボトルには聖水が入ってるわ。これで身を護って。ペーパーナイフは武器」
「武器がペーパーナイフって……」
 呆れたような顔を見せる七海に、キリエは真面目な表情でたしなめるように説明した。
「純銀製であることが重要なの。そのナイフで、わたしの指を切ってくれる?」
「えっ?」
「いいから」
 ショルダーバッグを斜め掛けにして、七海は取り出した銀のペーパーナイフを、躊躇いがちに、差し出されたキリエの左手の薬指に当てた。
「っ!」
 当てただけで、微かに切れた彼女の薬指の指先から血がにじみ出る。
「おれ、何もしてないよ! なんで? 勝手に切れた」
「いいの。わたしはそういう体質だから」

 にゃあ……

 その不穏な鳴き声に七海はびくりとする。
 滴る血のにおいに引き寄せられたのか、十数匹の猫が、二人の周りを取り囲んだ。
「な、なんだ? また、セシル?」
 キリエは血のにじむ指を猫たちに差し出し、その血を舐めさせた。
「あなたたちはわたしの使い魔になって。シリルという異端者の居場所へ導いてちょうだい」

 にゃあぉ……

 驚く七海を尻目に、キリエは彼を振り向いた。
「行くわよ」

* * *

 異様な静けさだ。
 まだ夕刻だというのに、街はすっかり闇に沈んでいる。
 猫たちが二人を導いたのは深見中学校であった。
 正門は開いている。
 闇に口を開けているそれは、何か不気味な洞穴のように見えた。
 七海とキリエは、それぞれ手に持ったスマホのライトで、注意深く辺りの様子を窺った。
 キリエは南城響のスマホへ深見中学に来たとメールで知らせ、バッグの中から手帳を取り出した。
「メドゥーサの眼、首にかけてるわね」
「う、うん。キリエ先輩も?」
「わたしはバッグに入れてるわ。身に付けると、わたしの“力”が使えなくなるから。でも、七海君は絶対に外さないでね」
「うん。解ってる」
 実際、今、自分が無事でいられるのも、メドゥーサの眼のおかげだった。
 キリエのスマホに響からの返信が届いた。
「響さんもすぐここへ来るって」
「解った」
「七海君は自分の身を守ることだけを考えて。聖水や純銀のナイフも、メドゥーサの眼と同じ効果があるはずよ」
「響さんやキリエ先輩の足手まといにはならないよ。シリルはここにいるの?」
「……たぶん」
(笙子も?)
 そう訊きたいが、訊けなかった。
 不意に鳥の羽ばたく音が大きく聞こえ、空へライトを向けた七海の目に、校舎の屋根や校庭の木々に止まった無数の鴉の姿が映った。
 笙子は鴉を気味悪がっていた。
「ここは彼らのテリトリーよ」
「彼ら?」
「シリルやセシル。属性の似ている鴉や猫を、彼らは自分たちの使い魔として使ってる」
 校門から深見中学の校内へ足を踏み入れ、キリエはどこか険しい様子で、注意深く手帳のページをめくった。
「今のところ、犠牲者は四人。そのうち、心臓を抉り取られているのは三人ね」
「犯人はやっぱり……」
 自然と声が低くなる。
 キリエは小さくうなずいた。
「三人の異端者たち。シリルとセシル、それからもう一人いるのよね?」
「シヴィルだ」
 そして七海は、さっきシヴィルに会った。
「あいつら、何者?」
「異端者と、わたしは呼んでいるけど。この世界とは別の時空に属する存在だと思うわ。何らかの切っ掛けがあって、この世界に落ちてきたのよ」
 落ちてきた──

 ──あの夜、猫のように光る緑色の眼をした、絵から抜け出たように美しい三人の天使を見た。

 やはり、あれは現実なのだ。
 ふと我に返ると、すでにキリエは歩き出そうとしていた。
「こっちよ、七海君。一人にならないほうがいいわ」
「あ、ああ。いま行く」
 公園でキリエの血を舐めた十数匹の猫が二人を先導した。
「何かあるわ」
 猫たちが取り囲む、中庭の大きな桜の樹の下に、二人は立った。
 キリエはそこに膝をつき、樹の根元の地面に掌を当てた。
「たぶん、まだ発見されてない遺体、もしくは心臓がここに埋められていると思うわ」
「桜の樹の下には屍体が埋まっている──ってか?」
 ふざけているような科白だが、地面をライトで照らす七海の顔は蒼白だった。
 嫌な汗が滲み出てくる。
 なぁぁお、と猫たちが鳴く。
「そして、もうひとつ」
 キリエが立ち上がる。
 猫たちは群れになって、校舎を迂回して、二人を校庭の花のない花壇までいざなった。
「ここにもあるわ」
「心臓?」
「ええ、そう。さっきの桜の樹の下とここのは新しい」
 胸が苦しい。
 七海の心臓が早鐘を打つ。
 新しい心臓? 新しい犠牲者?
 笙子は今、どこに?
 赤いペンを取り出したキリエは手帳に印を入れた。
 そのページには、この深見中学を上から見た簡単な見取り図が描かれている。
「七海君たちが音楽室で見つけた遺体は、心臓を残したまま、警察が運んだ。心臓が抜かれた遺体は、体育館の裏、男子トイレの中、階段の踊り場……そして、さっきの場所とここ」
 手帳に目を落としながらキリエは言った。
「ほら、見て、七海君。全部の場所を繋げると五角形になる。ペンタグラムが形作れるわ」
 キリエが五つの点を星形に繋げると、深見中学校の上に、確かにペンタグラムの形が出来上がった。

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2018.3.21.