イーヴル・アイ
第九章 最後の贄
街角には街灯が灯っているが、すでに月のない深夜の暗さだった。
人々は息をひそめているのだろうか。
南城響は、深見中学の正門の前で、険しい眼差しで空を覆う鴉の群れを見つめている。
七海たちと同じように聖水の入ったショルダーバッグを肩にかけ、ショルダーストラップには懐中電灯を取り付けていた。
「結界か」
校門へ視線を投げた響は、おもむろにバッグからマグボトルを取り出すと、口の中で小さく呪文を唱え、開かれた門の地面に、縦に二本、線を引くように聖水をまいた。
じゅっ!
熱した鉄の上に水をまいたような音がして、白い煙が立ち上る。
響は煙が消えるのを待ち、縦二列に聖水をまいたその間を通って、深見中学の校内に足を踏み入れた。
「魔法陣が完成しつつあるな」
物思わしげな低いつぶやきが、よどんだ大気を震わせた。
七海とともに手帳の見取り図を見つめるキリエは、眉間にしわを寄せた。
「被害者の額には、確か、逆さになったペンタグラムの血文字があったのよね」
「う、うん。それが?」
「ということは、深見中の校内に描かれたペンタグラムも、逆さである可能性が高いわ。そうすると、この花壇が、逆向きの星形の一番下の頂点」
「でも、ペンタグラムなら、向きは五通り考えられるよ」
「ここを頂点にすると、この真っ直ぐ先に聖ミカエル教会があるから。教会を指針にしているのよ」
「なんで判るの?」
「それは──」
キリエが言いよどむと、鴉たちが一斉に羽ばたく音が聞こえ、二人の背後にふわりと何者かが舞い降りる気配がした。
「それはキリエが僕らと同属だから、だよね」
「シリル──!」
闇の中に現れた、深見中学の制服姿の、美しい金髪の少年。
「待っていたよ、七海」
険しい表情で振り向いた二人に、シリルは無邪気としか形容しようのない笑顔を向けた。
「やあ、キリエ。また会えたね」
「……会いに来たのよ」
「じゃあ、僕たちと行くって決心したんだ。仲間だものね」
「違うわ。仲間じゃない」
キリエは頑なにシリルを睨む。
シリルは軽く眉を上げて微笑んで、七海を見た。
「シヴィルは七海も連れて行きたがっているよ」
「行くってどこへ?」
「僕たちやキリエの世界」
「キリエ先輩をおまえたちの仲間みたいに言うな!」
かっとなって七海は叫んだが、シリルはたいして気にも留めず、
「七海は何も知らないんだね」
と、言った。
「何もって何だよ」
今にもシリルに飛び掛かっていきそうな七海の肩をキリエが掴み、制した。
「わたしの持つ“力”は、確かに彼らと同質のものなの。でも、仲間じゃないわ」
「同属だってことは認めるよね。行こうよ。キリエも七海も」
「同じ力を持っていても、わたしはこの世界の人間よ。あなたたちの世界なんて知らないし、行きたくもないわ」
やれやれといったように、シリルが肩をすくめてみせる。
「頑固だね、キリエは。ね」
シリルが闇に向かって呼びかけたので、七海とキリエは、はっとそちらへ目をやり、ライトを向けた。
「セシル」
そこには能面のようなセシルがいた。
メドゥーサの眼をつけた革紐に触れ、焼け爛れた右手は回復していないようで、黒いハンカチをまいている。
「さっきはどうも、七海」
彼女は不機嫌に言葉を投げた。
「キリエがわたしたちの同胞なのは事実だわ。この世界で育ったかもしれないけど、彼女は何かの間違いで赤ん坊の頃にこの世界に落ちてきただけ。帰る方法を知らなかっただけでしょう」
「……」
「そうなの? 先輩」
セシルの言葉を否定しないキリエに困惑して、七海が小声で尋ねる。
固い表情でセシルを睨むキリエを見ると、なぜか、七海の心が痛んだ。
「それが本当でも、何も変わらないよ。キリエ先輩は、今もおれが知っているキリエ先輩のままだ」
七海のささやきに、キリエははっと眼を見張って、七海を見遣った。
そして、ありがとうと言うようにうなずいた。
「でも、そんなのは些細なことだよ」
シリルは不遜に話を続けた。
「僕たちは今から旅に出る。もともとこの世界には、旅の途中、落とし物をして立ち寄っただけだからね」
「旅?」
「そう。時空を旅してた。今、改めてその旅に出る準備をしている」
「準備? って、どうやって……」
「魔法陣をね、作るんだ。この世界の教会の持つ聖の力を指針として、僕らは贄を集め、それに相反する力を生み出す。そして、聖のエネルギーに邪のエネルギーをぶつけて、その衝撃波で空間をゆがめるんだ」
「贄は人間の心臓。地層に心臓を埋めるのよ。術を施して、地層深くに心臓だけが届くように沈めるの。今日の贄の心臓も、もうすぐ地下深くに沈むわ」
セシルの表情は鼠をいたぶる猫のようだ。
「空間をゆがめて、異空間への道を作るのね」
「そういうこと」
にっこり微笑むシリルを七海は屹と睨めつけた。
「おまえら兄妹の旅に興味はない! おれたちは笙子を捜しに来たんだ! 笙子は今どこにいる!」
「笙子、ね」
シリルは制服のポケットから取り出したスマートフォンにちゅっとキスをして、七海の足許に投げた。
「!」
はっとした七海がそれを拾い上げ、愕然と眼を見張る。
画面にひびが入っているそれは、笙子のスマートフォンだった。
「ごめんね。鴉たちがおもちゃにして、壊してしまったんだ」
「何だと……?」
不吉な予感はいやが上にも大きくなる。
心臓を鷲掴みにされるような胸騒ぎに耐え続けるのは、もう限界だった。
シリルが傍らのセシルと視線を交わす。セシルは小さくうなずいた。
シリルはくいと親指で方角を指し示した。
「体育館へ行けば、もっといいものが見られるよ」
「体育館……?」
じっとしている理由などなかった。
七海は体育館へ走り出した。
ぴたりと閉じられている体育館の扉を、七海は必死に開けようとした。
「待って、七海君」
追いかけてきたキリエの声に、振り向いた彼の顔は焦燥にゆがんでいた。
「鍵がかかっているのかな。開かないよ」
キリエ自身の声も強張って掠れた。
「この体育館の中に、空間をゆがめる魔法陣を作っているんだわ。ちょっと待って」
ショルダーバッグの中から取り出した聖水を、キリエは正確なペンタグラムを描くように体育館の入り口の床にまいた。
そうして、二本目のマグボトルを取り出して、体育館の扉の取っ手に聖水をかける。
刹那、じゅっと、焼けた鉄に水をかけるような音がした。
「開けて、七海君。わたしじゃ、聖水に触れられないから」
「うん」
闇の中、キリエの持つスマホのライトに照らされ、七海は再び体育館の扉に手を掛けた。
力を入れて、扉を引く。
すると今度は、重いながらも、扉はゆっくりと開いていった。
「──!」
現れた光景に二人は息を呑んだ。
仄白い。
闇に慣れた眼に、突然、仄白さが飛び込んできた。
まるで、ドライアイスを水に入れたときのように、白い靄のようなものが、淡い光を帯びながら体育館の床全体から立ち上っている。
その体育館の床の中央には、大きなペンタグラムが入り口から見て逆向きに、ペンキで描いたように血文字で描かれていた。
それがペンキではなく血だと、においで判る。
気持ちが悪くなるほどだった。
その紅く縁取られたペンタグラムの中だけが、闇の暗さだ。
「もう、お馴染みの印だろう?」
不意に体育館に響いた声に、七海とキリエは、中に人がいたことに初めて気づいた。
左側の靄の奥から、美しい少年がゆっくりと歩いてくる。
「逆さのペンタグラム。人間にとっては、悪魔に対する忠誠の証し、というところかな」
全身がわずかに発光しているように見える。
その美しい少年は、三つ子の長兄・シヴィルだった。
シヴィルは口許に清廉な微笑を浮かべた。
「歓迎するよ、二人とも」
別世界へ足を踏み入れたような錯覚に呆然としていた七海は、激しくシヴィルを睨みつけた。
「笙子は……笙子はどこだ。ここにいるのか? 傷つけてはいないだろうな!」
「何を今さら」
シヴィルは華麗に嘲笑った。
「笙子なら、ほら、そこに」
仄白い靄とペンタグラムの内の闇のせいで、体育館の内部全体を見通すことができない。
七海は用心深く足を進め、シヴィルが顔を向けたほうへと向かった。
そこにはバスケットゴールがあった。
「──っ!」
反射的に口を押さえ、叫び声をこらえた。
「七海君!」
彼のもとへやってきたキリエも同じものを見て愕然とした。
血の気が引いていくのが自分でも解る。
「しょう……こ、ちゃん……」
バスケットゴールに、少女の屍体が、バレーボールのネットで縛られ、逆さまに吊るされていた。
心臓の部分は紅く抉り取られている。
血のにおいに吐きそうだ。
「……シヴィル、貴様──!」
怒りと悲しみがないまぜになった涙をこらえ、激しい瞳で七海がシヴィルを顧みる。
あまりの惨状に、言葉も声も出ない七海をシヴィルは嫣然と見返した。
「これ、何色に見える?」
そう言って、シヴィルは耳元の髪を軽くかきあげた。
「ピジョン・ブラッド? ノー。これは人間の血で染めた色だ」
ルビーのピアス。
「公園で会ったとき、七海、悪魔をタロットカードのバフォメットに見立てていただろう? 僕は笙子をね、同じタロットカードの吊し人に見立ててみたんだ」
「……」
「吊し人のカードには、視点が変わる、価値観が変わるといった意味もある。七海へのプレゼントに相応しいと思わないか?」
ふざけるなと、怒鳴りたいが声が出ない。
涙で視界がぼやけてくる。
なぜ?
これは現実なのか──
なぜ?
何が起こっている。
「そう邪悪なものを見る目付きをしなくてもいいだろう? 七海、僕らは友達だ」
「おまえは──おまえはいったい何者なんだ」
七海とキリエのあとから体育館へ入ってきたシリルとセシルが、体育館の扉を閉めた。
出口を塞がれ、緊張が走る。
外にいたときとは異なり、シリルとセシルの身体も、体育館内ではシヴィル同様に微かに発光しているように見えた。
迂闊に動くことはできない。
「何者? それは僕が決めることではない。君たち人間は、なぜ全てのものを何らかのカテゴリーに分類したがるのだろう。それは形式的なものに過ぎないのに」
「それでもいい! おまえたちは何者だ?」
シヴィルはふっと笑った。
「あの夜、君が目撃した通り。空から降ってきた天使──堕天使だよ」
「堕天使?──って、ルシファー……? 本物の?」
「そう呼びたければ呼ぶがいい。君たち人間にとって、僕らは天使でも悪魔でもある。いずれにせよ、人間とは異なる存在だ」
怒りと悲しみ、そして恐怖と絶望。
七海は唇を噛み、ぎゅっとショルダーバッグのストラップを握りしめた。
クスクスと、シヴィルの可憐な笑い声が体育館の中にこだまする。
血文字の魔法陣。
吊るされた笙子の遺体。
全てが常軌を逸していた。
2018.3.22.