イーヴル・アイ

第十章 異端なる天使

「そろそろ時間だな」
 シヴィルがシリルとセシルに声をかけた。
「魔法陣の中に時空のゆがみが生じたら、出発だ」
「ああ」
「いいわよ」
 立ちすくむ七海は体育館の床の中央に描かれた大きな血のペンタグラムを見た。
 何が起きているのか理解できない。
 理解したくない。
 赤いペンタグラムの内側の闇が、徐々に色を濃くしている。
 そして、バスケットゴールに逆さに吊るされた笙子の遺体。
 自分は何と非力なのだろう──
 行き場のない感情に苛まれ、肩にかけたショルダーバッグのストラップを握りしめていた七海は、発作的にバッグの中のマグボトルを取り出すと、その中身を一番近くにいたシヴィル目掛けてぶちまけた。
「っ!」
 じゅううっ!
 身軽に跳躍して、シヴィルはよけたが、その水の一部が魔法陣にかかり、黒い煙を上げた。
「聖水……!」
 シヴィルの眼が驚きに見開かれる。
「なんでそんなものを持ってるんだ、七海」
「まだあるぜ。聖水をかけられると、セシルの指みたいになるんだろ?」
 セシルが繊細な美貌に似合わぬ憎悪の瞳で七海を睨んだ。
 七海は二つ目のマグボトルを取り出し、金髪の三つ子を牽制する。
 だが、聖水は使ったらなくなってしまう。
 それで終わりだ。
「七海君、自棄にならないで!」
 キリエは魔法陣の内側の闇が揺らめき始めていることに気づいた。
 そこは異空間へ移動するための入り口。
 すでに空間がゆがみ始めているのだ。
 じりじりと、シヴィルとシリルが、七海を取り押さえようと迫ってくる。
 シヴィルか、シリルか。
 二人同時に聖水をかけることはできない。
 七海は全神経を集中させていた。
「七海君、聖水で床に円を描いて、その中に入って! 結界になるわ!」
 皆がはっとする。
 七海はキリエに言われた通り、足許に聖水を、自らを取り囲む円を描くようにまいた。
 聖水がまかれた部分が、白く光り出す。
「なぜ、邪魔をするんだ!」
 シヴィルがキリエを凝視し、何かが空間で弾けるような衝撃が走った。
 空中で、シヴィルの念とキリエの念がぶつかったのだ。
「君は僕たちと同属なんだろう?」
「違うって何度も言ってるじゃない!」
 激しく首を横に振って、キリエが叫ぶ。
「わたしは人間。この世界に属する者よ!」

 バターンッ!

 出し抜けに大きな音が体育館内に響き渡り、皆、一様に音のしたほうへと顔を向けた。
「響さん!」
 体育館の扉が大きく破壊され、聖水を入れていたマグボトルを片手に持った南城響がそこに立っていた。
「遅くなってすみません。手間取りました」
 そして響は、ひと目で現在の状況を理解した。
 血文字で描かれた魔法陣。
 ゆがみ始めた空間。
 聖水の結界で身を護る七海。
 バスケットゴールに吊るされた、保科笙子の遺体──
 響の眼がわずかに険しさを帯びる。
 シヴィル、シリル、セシルの美しい三兄妹が、緑色の冷たい瞳で南城響を見た。
「なぜだ? 七海とキリエ以外の人間は、結界に阻まれて、学校には入れなかったはずだ」
「結界を崩す方法がいくつかありましてね」
──魔道士か」
 忌々しげにシヴィルはつぶやいた。
「キリエちゃんが用意してくれた聖水のおかげで、何とかここまで来られました」
「響さん……!」
「二人とも、よく耐えましたね」
 微かに安堵の表情を浮かべる七海とキリエに近寄ろうとする響の前に、シリルが立ちふさがった。
「僕たちはすぐに旅立つ。関係のない者は手を出すな」
「関係はあります。君たちはこの町で何人もの生命を奪った。それに、ここにいる七海君とキリエちゃんの、僕は保護者のようなものですからね。二人は返してもらいます」
「嫌だと言ったら?」
 今度はシヴィルが口をはさむ。
「僕がもう決めた。七海は僕たちと行くんだ」
 優雅な仕草でさらりと髪をかきあげるシヴィルの姿は、仄白い靄の中で白く発光し、まさに天使のように見えた。
 その天使と同じ姿で立ちふさがるシリルをよけて、響はゆっくりと体育館の内部へ足を進め、七海とキリエの中間の地点で足を止めた。
「なぜ、七海君に固執するんです」
「彼は僕の目に適った人間だ」
 シヴィルは口許に薄笑いを浮かべて言った。
「僕がずっと探していた人間。一目惚れといってもいい。一緒に連れていく。僕のペットにしたい」
「ちょっと待て!」
 それまで、息をつめて響とシヴィルのやり取りを見守っていた七海が、いきなり頓狂な声で叫んだ。
「何だよ、ペットって! おれはおまえのおもちゃになる気なんてないぞ!」
 シヴィルが妖しい笑みを閃かせて七海を斜交いに見た。
「ふ……七海、君のそのストレートな性格が好きだ。一緒に旅をしよう。きっと、素晴らしい経験になる」
「冗談じゃない!」
 七海は激しい勢いで、吐き捨てた。
「そんなおまえの気まぐれに巻き込まれて、笙子は死んだのか? おれは絶対、おまえを許さない!」
 哀しげな瞳で、ちらと響が七海を見遣った。
 七海の足許から風が湧き上がる。
 風は、渦を巻いている。
「颯水晶も、七海だからこそ、持つことを許しているんだ。でなければ殺していた。あの夜、すぐに」
 響がはっと七海のほうを向いた。
「七海君、水晶って何です? それはどこに──
「は? 水晶……? あの夜、拾ったやつ? いま持ってるけど」
 七海は首にかけた金平糖のような形の水晶のネックレスを取り出した。
 襟元からプラチナのチェーンを引っ張り出すと、水晶は、内側に小さな、しかし鋭い輝きを帯びていた。
「それです! その水晶が、魔法陣を完成させる最後の要素だ」
「それが彼らの落とし物だったのね」
 キリエがつぶやく。
 彼らがこの地にとどまる原因を作った魔の水晶。
 刹那、七海を中心に渦巻く風の一部が、何かに裂かれるように唸りを上げた。
「返しなさい!」
 セシルであった。
「わたしはあなたが嫌いになったの。一緒に来てほしくないわ。颯水晶を返しなさい」
「セシル」
 シヴィルがたしなめるように吐息をつく。
 美しい少女は、黒いハンカチに包んだ右手を突き出した。
「だって、わたしの手をこんなにしたのよ。これが癒えるまで、どのくらいの時間がかかると思って?」
「しょうがないな」
 シヴィルが七海に言う。
「どちらにしても、僕はその光の結界の中には入れない。君を連れては行けないな。七海、水晶を投げて。それがないと帰れないんだ」
「え?」
「帰ってほしいんだろう? 僕たちに」
「つまり、七海、君の持つ水晶の風が僕たちを運ぶんだよ。太陽の光を吸い取って、それをエネルギーにして、時空を移動する風を起こすんだ」
 言いながら、シリルがすっと七海のそばまでやってきた。
「君が持っていても何の価値もない品だ。さ、こっちへ投げて」
 七海は躊躇い、目の前のシリルと首にかけた水晶の光を見比べた。
 これさえ渡せば、彼らはこの町からいなくなる。
 町は平和になる。
 けれど、事件は?
 迷宮入りのまま──
 それより何より、笙子の仇を取らなければ、七海の気のすむはずがなかった。
「七海君、渡しては駄目です!」
 響の声にはっと我に返った七海は、水晶を首にかけたまま、素早く三本目のマグボトルを取り出し、聖水をシリルに浴びせようとした。
「っ! まだ持っていたのか」
 かろうじてシリルは聖水をよけたものの、その雫が頬にかかり、陶器のような肌が火傷のように爛れた。
 間髪をいれず、七海は光の結界の中から飛び出して、銀のペーパーナイフでシリルの肩を思いきり突き刺した。
「あ゛、あ゛ーっ!」
 油断していたのだろう。
 白い靄が風に漂う中、シヴィルもセシルも愕然と眼を見開いた。
 肩を切り裂かれたシリルは、魔法陣の中へと倒れ込み、まだ不安定な魔法陣の中の闇が、傷口からシリルの身体を侵食していく。
 そこから、まるで腐敗した肉片が平面な紙片と化してこぼれていくように、ぱらぱらと、シリルの肉体は魔法陣の闇の中に霧散していった。
──
 セシルが屹と七海を睨む。
「よくもシリルを……!」
 天使のような美しい顔を憎しみにゆがませ、セシルが七海に念を浴びせようと身構えた。
 響が七海の前に立ちふさがり、すかさずキリエが叫ぶ。
「七海君、風を! 風をセシルの額に向けて!」
「えっ……」
「念じればいいの。セシルの額を頭の中にイメージして!」
 キリエはバッグに入れていた黒い布に包んだものを掴み出した。
「つっ!」
 布を通して、掌に痛みが広がる。
 彼女はそれをセシルに投げた。
 青い硝子の、メドゥーサの眼を──
 風を操る颯水晶を首にかけた七海の思念で、風の流れが動いた。
 風は疾風となり、メドゥーサの眼をセシルの額へ導いた。
「あっ……!」
 もう遅い。
 疾風はセシルの動きより速く、セシルはメドゥーサの眼の力で額を焼かれ、ゆっくり、ゆっくり、魔法陣の中へと倒れ込む。
 焼け爛れた額から魔法陣の闇に侵食されていき、肉体がぱらぱらと崩壊していく。
 彼女もまた、シリルと同じ最期をたどった。
 体育館一面に揺らめく白い靄。
 血文字の魔法陣の中から、黒い煙が立ち上った。
「く……」
 仄白い空間。
 静まり返った空気。
「くく、く……」
 自らを嘲るように、シヴィルは片手で額を押さえて嗤った。
「まさか、シリルとセシルが、こうも簡単に消滅させられるとは」
 響が七海を背後にかばう。
 キリエも、三本目のマグボトルをいつでも取り出せるよう、神経を尖らせていた。
「それに、この町に本物のメドゥーサの眼を持つ人間がいたとはな」
 どんなときも清らかな美しさを失わなかったシヴィルが、悪鬼の形相で響を見据えた。
 対する響は、沈着だ。
「この魔法陣は、聖ミカエル教会を指針にしているのでしょう?」
 静かに問うた。
「それがどうかしたか?」
「今、聖ミカエルの黒川神父に、君たちのための特別なミサを執り行ってもらっています。この魔法陣は聖の力を指針にはできない。不安定なまま、消滅する運命だ」
「何だって……?」
 シヴィルは驚愕の表情を浮かべた。
「だから、シリルもセシルも、あんなに簡単に塵となったのか」
 Damn it! とつぶやいたシヴィルは、激しい怒りをそのエメラルドのような瞳に湛え、響をじっと凝視する。
「魔道士よ、名は?」
「南城響」
 激昂するシヴィルとは対照的に、あくまでも静かに、響は答えた。

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2018.3.22.