イーヴル・アイ
第十一章 ペンタグラム
緊迫した空気が場を支配している。
シリルとセシルを消滅させられたシヴィルは、異空間への道も断たれ、彼の中には、ただ、南城響への憎悪だけが取り残され、増幅されていた。
ピリピリと火花を散らすようなシヴィルの“気”を感じ、響は彼から目を離さずに、キリエに言った。
「キリエちゃんは下がっててください。巻き込まれないように」
「はい」
響の言葉を受けて、キリエは破壊された体育館の入り口まで後退する。
体育館内に充満していた仄白い靄は、破壊された入り口から外へと洩れ出し、血のペンタグラムの内側の闇も、その色を徐々に薄く変化させていた。
響は背後にいる七海へ、前を向いたまま片手を伸ばした。
「七海君。その水晶とペーパーナイフを貸してください」
「どうするの?」
「水晶に吸収された太陽の光を解放します。そうすれば、魔法陣は破壊され、その少年も塵と化すでしょう」
「解った」
手渡された銀のペーパーナイフに、太陽の輝きを収めた水晶のチェーンを巻き付け、響はそれを右手に構える。
それを見据えるシヴィルの眼が、火を噴くような激情を湛えている。
それでも、その緑の瞳は、燃え盛る炎のように、エメラルドの輝きのように美しい。
「こうなれば、おまえたちも道連れだ。南城響、おまえも魔法陣へ落とし、塵芥にしてやる」
響は七海をかばいながら、小声で言った。
「七海君、聖水は?」
「もうない」
「解りました。新たな結界を作ります」
そして、さり気なくシヴィルの動きを牽制しながら、正面が東になるように位置を取った。
「我、四大天使の力を借りん──!」
凛然とした声が響く。
はっとなったシヴィルが、突然、我に返ったように方角を確認して、舌打ちをした。
「我が前にラファエル。我が後ろにガブリエル。我が右手にミカエル。我が左手にアウリエル──」
いつもは穏やかな響の声が、低いながらも凛と張りつめている。
シヴィルが素早く身構えたとき、彼の放った念は、響が作った結界によって跳ね返されていた。
結界に弾き返された自らの念を軽やかな身のこなしでよけながら、シヴィルは憎々しげにつぶやいた。
「南城響。おまえの存在は我々の大きな誤算だ!」
響は静かに前方のシヴィルを見た。
「僕の目の前で、七海君やキリエちゃんには指一本ふれさせません」
「ふん。どうかな」
シヴィルはにやりと邪悪な笑みをその繊細な美貌に閃かせ、嘲笑した。
刹那、キリエの近くで、空気が裂けた。
「キリエちゃん!」
響が叫ぶ。
「平気です。防ぎました」
「キリエは僕たちと同属だが、その力は、この世界で育ってきた分、弱められているね」
シヴィルは第一の標的をキリエに決めたようだ。
響はともかく、七海はキリエの危機にじっとしていられず、飛び出してくるだろう。
「響さん……!」
切羽詰まった七海の声。
響は片手を振って七海を制す。
七海を後ろにかばいながら、響は右手に持った水晶を取り付けた銀のペーパーナイフで、軽く自らの額に触れた。そして、つぶやく。
「アトー」
その手をおろして胸に触れ、
「マルクト」
そのナイフの刃先で右肩に触れ、
「ヴェ=ゲドゥラー」
そのナイフの刃先で左肩に触れ、
「ヴェ=ゲブラー」
そして、最後に、ナイフを持ったまま両手を胸の前で合わせて指を組み、
「ル=オラーム、アーメン」
と唱えた。
響の手の動きの軌跡が白く発光し、光の十字架の形をとった。
「光の……十字架……?」
彼の背後にいる七海が息を呑む。
と同時に、激しい風が巻き起こった。
颯水晶の持つ風の力が解放され、水晶の内部に収められていた太陽の光が風に導かれ、解き放たれたのだ。
陽光が戻る。
日蝕が終わる。
シヴィルが床を蹴り、響のすぐそばまで跳躍した。
結界に守られた場所にいる響に触れるのは、シヴィルにとって、これ以上ない激痛を味わうはずだ。
それでも意に介することはなく、シヴィルは背の高い響の身体をふわりと抱きしめた。
白い翼を持つ天使のように。
もうこれまでと悟ったのか、彼は響を道連れにして、消えゆく魔法陣の中に身を投げようとしているのだ。
「響さん!」
叫んだキリエが響に駆け寄り、響に抱きついたシヴィルの身体に、最後のマグボトルの聖水をかけた。
じゅううっ!
「くっ!」
白煙を上げ、焼け爛れる背中の痛みに耐え、シヴィルは至近距離で響の眼を見つめる。
響の胸を凍るような戦慄が駆け抜けた。
そのエメラルド・グリーンの瞳。
──邪眼──
そして美しい少年は、響の首筋に口づけを落とした。
「……我が蝿の王に──おまえの心を贄となす」
「響さん!」
動けない響の代わりに、七海が焼け爛れたシヴィルの身体を響から引き離し、今にも消えそうな魔法陣の内側へ、空間のゆがみの中へと突き飛ばした。
血文字のペンタグラムに縁取られた揺らめく闇は、シヴィルの肉体を呑み込んで、たちまち黒煙を上げ、すうっと体育館の床に吸い込まれるように消滅していった。
残されたのは、森閑たる惨劇の跡。
体育館の窓の外には夕焼けの空が見える。
「……」
時間が凝結していたかのようだ。
体育館の内部に満ちていた仄白い靄も跡形もなく消え、そこには、大きな血のペンタグラムと、バスケットゴールに吊るされた笙子の遺体だけがあった。
誰も口を開かない。
シヴィルは落ちていった。
──邪悪な、それでいてこの上なく清らかな顔で。
* * *
一連の事件は、悪魔崇拝に傾倒した変質者の犯行とされた。
まだ見つかっていなかった桜の樹の下に埋められた遺体と、花壇に埋められた笙子の心臓は、鴉が土を掘り返したために発見されたと発表された。
真相を知るのは、篠村七海、南城響、黒川キリエ、そして、黒川神父の四人のみ。
七海の受けたショックは計り知れなかった。
深見中学校はしばらく閉鎖され、生徒たちは学年ごとに別の場所で授業を受けることになったが、七海は、なかなか学校へ行くことができなかった。
毎日、南城響の家にやってきて、ぼんやりとしている。
そんな七海を見守る響は、彼の勉強を見てやりながら、彼の心の傷が少しずつ癒えていくのを待つことにした。
キリエもまた、受けたショックは大きかったが、進んで七海の相談相手となり、時々、響の家を訪れた。
「響さん、メドゥーサの眼、お返ししますね」
黒い布に包まれた青い硝子玉を、キリエはテーブルの上に置いた。
「キリエちゃん、手、大丈夫ですか? メドゥーサの眼を掴んだ手」
セシルに向かってメドゥーサの眼を投げたとき、まともに掴んでしまったのだ。
キリエは右の掌に視線を落とした。
「大丈夫です。痛みはありましたが、響さんが術をかけてくれてた布越しだったので、火傷はしていません」
今回のことで、七海にも、キリエがどういう素性の存在なのかが知れてしまった。
だが七海は、そして、もちろん響も、当然のように彼女をこの世界の人間として扱ってくれた。
それがキリエには嬉しかった。
「響さん、わたし……またこの家に出入りしても、いいですか?」
「もちろん。歓迎しますよ」
「今度は──研究の対象ではなくて……」
「ええ」
微かに頬を染め、キリエは微笑んだ。
南城宅のリビングのソファーに座り、ぼんやりフランス窓から庭を眺めていた七海が自宅に帰ってから、響は、七海とキリエに出した紅茶のカップを片付けた。
これで、町は元の生活に戻っていくのだろうか。
キリエは自らの属性を肯定して人間として生き、七海は笙子の無惨な死を乗り越えて、生きていけるだろうか。
不意に眩暈とともに、言い知れない激しい不安を覚えた。
この感覚は何だろう。
気を落ち着けるため、響はグラスにワインを注ぎ、テーブルの前まで戻ってきた。
赤い液体を一口飲み、テーブルの上に置き去りにされたままのメドゥーサの眼に視線を移す。
何気なくそれを棚にしまおうと指を伸ばしたとき、青い硝子玉に触れた指先に焼けるような痛みが走った。
「……っ!」
指先を見ると、火傷をしたように赤く爛れている。
(何が起こったんだ──?)
メドゥーサの眼に触れて火傷をした。
信じられないといった表情で、響は一歩後退さった。
壁際の大きなキャビネットの扉のガラスに彼の顔が映っていた。
「──!」
それを見た響は、光の角度によって、自分の瞳がエメラルド・グリーンに見えることに気がついた。
魅入られたようにガラスを見つめる。
毎日鏡で見ている自分の顔が、自分のものでないように思えた。
ふと襟元をくつろげ、響は、ガラスに映る、向かって左側の己の首筋を凝視した。
そこは、シヴィルが最期の口づけを残した場所。
細く紅く、小さなペンタグラムが浮き上がっていた。
逆さのペンタグラム。
それは、悪魔に対する忠誠の証し──
(……これが答えなのか……)
ペンタグラムに触れようと、持ち上げた手が宙を彷徨った。
よろめいた響の手がキャビネットに当たった。
片手に持っていたワイングラスが、指の間をすり抜け、落下していくのがスローモーションに見えた。
──やがて、グラスは床に落ちて、音を立てて粉々に割れた。
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2018.3.24.