追われし人
1.
険しい道が続いている。
初夏という季節もあって、周囲の木々のむせ返るような緑は、豊かに、色鮮やかに生い茂っているが、景色に気を取られていると道に迷いかねない。
霊峰・シュクナ山である。
その八合目あたりの道なき道を下っていく、黒い人影があった。
うつむき加減で歩いていたその人物が不意に立ち止まり、顔をあげた。その場に人がいれば、気まぐれな美神が地上に降り立った姿だと思ったかもしれない。
玲瓏たる美貌。
物憂げな瞳は宝玉のごとき濃い碧、少しふせたまつ毛が象牙色の肌に影を落とし、やや長めの淡い金髪は風に流れるようである。
燻し銀に鮮やかな深い瑠璃色の石を嵌め込んだ耳飾りが、左の耳にだけ、重たげに揺れていた。
黒い衣に黒い外套、そして黒い布を頭に巻いた黒ずくめの出立ちは、巡礼の旅をする者特有の恰好である。地味な装束ゆえに、却ってその美しさが神々しいとさえいえるほどに高められていた。
年齢は二十歳前後だろうか。
しばらく立ち止まったままでいた黒衣の麗人が、わずかに眼を細めた。そして、左下の方向へ視線を放った。
<どうしたの……?>
微風にも似た声が、黒衣の人の耳にだけ、銀鈴のように快く、淡く響いた。声の主の姿はない。
「人だ。人が倒れている……」
美神のごとき麗容の持ち主は、意外にも男性であった。
まとっている衣裳は男のものだが、一見、男装の麗人にも見えなくはない。彼の美しさは性別を超越していた。かろうじて声から性別を判断することができる。
口の中でつぶやくと同時に、美貌の若者は左側のゆるやかな斜面を下り始めた。
本来の下山の道ではなく、そこは鬱蒼とした林である。樹木の間をぬって、三十パッススほど下りたとき、予想していたものが視界に映った。
人間である。
まだ若い──どうやら十代の少年のようだ。
この斜面を転がり落ちたらしく、衣服のみならず手足や頬にまで無数のすり傷や切り傷があった。
まとっている衣裳から推察するに、裕福な名家の子息らしい。
「君──、君、しっかり」
黒衣の彼は倒れている少年を抱き起こした。細くてあどけない──まるで女のような顔立ちであった。
軽く揺さぶり、頬をたたいてみたが、意識が戻る気配はない。
<どうするの、ユーリィ?>
すぐそばで透けるような声がした。
「仕方がないよ。連れていく」
若者は、気を失ったままの少年を背負い、ゆっくりと、いま下ってきたばかりの道を登り始めた。
──ふと、眼が覚めた。
ずいぶん長い間眠っていたような気がした。
辺りを見廻すと、そこは、洞窟のような場所だった。
何気なく傍らを顧みると、薄暗いそこに、自分以外の人間が横になって眠っていた。そろそろと身をよせ、その黒衣の人物の顔を覗き込み、息を呑んだ。
刹那、女神かもしれないと思った。
美神ウェヌスか、もしくは月神ディアナが地上の者に身をやつし、男の衣裳を身にまとえば、さもあろうか。それほどに美しい。
気配を察したらしい白皙の顔がそろそろと眼を開き、やがて少年と視線が合うと、少し照れたような様子で身を起こして言った。
「やあ、気分はどう? 覚えているかな。あなたは山道からはずれた林の中で倒れていたんだよ」
「倒れて、いた……?」
「怪我は大したことないが、丸一日眠っていた。どこか痛む?」
少年は、あちこち破れ、土や埃に汚れている自分の衣裳に目を落とし、傷だらけの腕や足にも触ってみた。
「そうだ──林の中で休もうとしたあのとき、急に眩暈に襲われて、足を滑らせて──そうか、一昼夜も眠っていたのか」
少年は若者を顧みて、丁寧に頭をさげた。
「全身がずきずきするけど、でも、大丈夫。おかげで助かりました。あの……あなたは山越えの旅の方ですか?」
黒衣の若者は小さくうなずいて、
「僕はユリウス。見ての通り巡礼の者だ。各地の神殿を巡り始めてから三年になる。あなたは巡礼者ではないね。──名は?」
吸い込まれそうな深い色の瞳で見つめられ、少年の頬に微かな朱みがさした。
「わ──僕の名はウィール。この山の頂上にある神殿に参った帰りで……」
少年の言葉を、ユリウスは静かに首を振ってさえぎった。
「本当の名を。あなたは女性でしょう」
「え……どうして」
少年の顔がわずかに蒼みを帯び、強張った。
「左肩の手当てをする際、衣をはだけさせてもらったので」
思わず視線が肩にいった。白い布が幾重にも巻かれている。その頬がみるみるうちに朱に染まった。──少年はうら若い男装の娘であった。
「そこは傷がひどかったので、痛み止めの薬草をあてがっておいた」
なおも幻のような瞳で自分を見つめる美しい顔に、肩を押さえた娘は苦笑とも自嘲ともつかぬ表情を浮かべた。
思わずため息が洩れた。
なぜか、一人で恥ずかしがっているのが馬鹿馬鹿しく思えてきた。
「……ありがとう、助けてくれて、傷の手当てまでしてくれたのね。生命の恩人には嘘は言えないわ。──わたしはウィーリヤというの。わけがあって……この山を越えて、ヴァントラ王国へ行くところだったのよ」
ユリウスの眉があがった。
「ヴァントラ王国? だったら、こんな険しい山を越えなくとも、もっと整備された正規の街道を──アプア街道を通ればいいじゃないか。山頂の神殿へ参る以外、このような山道を通る者はいないよ」
「だから──わけがあったのよ」
ウィーリヤはじれったそうに言って、眼をそらした。
これ以上のことは言いたくない。──彼女の瞳がそう告げていた。
「でも、どちらにしろ、シュクナを下りるのだから、行き先は同じだね。明日の下山にそなえて、今夜はゆっくり休んだほうがいい」
「……ええ」
ウィーリヤは素直に横になり、眼を閉じた。──全身が鉛のように重い。彼女は疲労しきっていた。
あくる朝は快晴だった。
女連れなのでユリウスの歩調は心持ち遅れぎみだったが、それでもウィーリヤは音をあげずに頑張っていた。彼女の様子から、ユリウスは、彼女が日ごろ歩き慣れない生活をしていたことが簡単に看破できた。
「疲れた?」
ユリウスの気遣いに感謝しつつ、ウィーリヤはきっぱりと首を横に振った。
「休んでいる暇ないわ。わたしなら平気。急ぎましょう」
二人が進む山道は、めったに人の通らない巡礼用のものなので、下山とはいえ、かなり険しい。山を歩き慣れた者でさえ骨が折れる。ユリウスはともかく、ウィーリヤは目に見えて疲労度が増していった。
だが、彼女は頑固に歩き続けた。彼女には急がなければならないわけがあった。
ユリウスの足が止まった。
「少し、休んでおいたほうがいい。これ以上は無理だ。あとがもたなくなる」
「でも」
「本当に歩けなくなったら、置いていく」
「……解ったわ」
ウィーリヤは力なくうなずくと、その場に崩れるように座り込んだ。やはり、彼女の体力はもう限界だった。
「何か、飲む?」
「ありがとう。でも、今は何も欲しくないわ」
次の刹那、出し抜けに──ほんのわずかだが、ユリウスは顔を上げた。
探るように素早く辺りの様子をうかがった。
「あなたは樹にのぼれる?」
「いきなり何なの。いいえ、のぼれないわ」
「では隠れろと言っても無理だな。ここには他に隠れる場所などないから」
「だから何なのよ」
「大勢の人が来る。だが、足音からすると巡礼の者じゃない。──兵士のようだ」
ウィーリヤの顔がさっと蒼ざめた。
「兵……それで数は?」
「正しくは判らない。十四、五人ばかり──かな」
ウィーリヤはうなずいた。
「でも、なぜ判るの? わたしには何も聞こえないわ。空耳じゃ……」
ユリウスは、ちらりとウィーリヤを見て、薄く微笑んだ。
「僕の耳が特別なわけではない。風が運ぶ精霊の声が教えてくれた」
「……?」
「だが、なぜ兵士が正規の道を通らず、こんな山の中を進むのかが解らない。この辺りの国々は戦争をしているわけでもないのに──納得いかないな」
「それは──」
ウィーリヤは言いかけて躊躇った。
「それは、何?」
「……」
もう、その頃になると、ウィーリヤの耳にも兵士たちの足音が、微かながら──はっきりと聞こえてきた。手足が──全身が強張るのが判る。彼女は恐怖すらとどめた表情でユリウスを見た。
「ユリウス……!」
「来た。──気をつけて、ウィーリヤ」