追われし人
4.
ウィーリヤが向かった先は、ヴァントラ国王族が住まう王宮であった。
宮門の衛兵に右手の印章付き指環を示し、名を告げる。それだけで、さしたる問題もなく、彼女は王宮内部に入ることを許された。
迎え出た侍従長が、彼女をある広間まで案内した。
公式の謁見の間ではない。
「突然のご来訪、何事ですかな」
「我がドール王国より、国王の親書を持参いたしました。非公式のものです。至急、ラナルズール殿下にお取り次ぎを」
国王ではなく、王子に取り次いでほしいという。
侍従長はやや眉根をよせたが、不審の表情をおもてに表すこともなく、厳めしく、頭を下げた。
「解りました。少々のお待ちを」
一人、広間に残され、ウィーリヤは不安げに周囲を──特に窓の辺りを見廻した。
ここまで来たら、もう安心だろう。だが、なぜか落ち着かない。
不意に開かれた扉の音に、ウィーリヤはびくっとなった。
「ウィーリヤではないか。ドール王国よりの密使というのは、そなたか?」
「王子!」
入室してきたのは若い男だった。精悍な顔立ちだが、その眼はやさしい。
ウィーリヤの表情がぱっと華やいで明るくなった。
「お久しゅうございます、ラナルズール王子」
「うむ、久しいな。私に宛てた親書を持ってまいったとか」
近くに余人がいないことを確認し、ウィーリヤは恭しく頭を下げた。
「しかし、ドールの宰相令嬢であるそなたが、何ゆえ、わざわざ密使に立たされた」
「王子、これを」
ウィーリヤは、衣裳の裾の裏に縫い付けていた紙片を取り出し、差し出した。
「これは?」
「ラナルズール王子、密かに謀叛が企てられているのです。わたくしが持参いたしましたのは王の親書にあらず、これは、ヴァントラ王国国王陛下の──すなわち、王子の父君の暗殺計画書です」
「何だって──?」
「いえ、まことでございます。遺憾ながら、我がドール国王と王子の叔父君・ラシェロ大公が密かに通じているのです」
「まさか」
「それをご覧になれば、全てお解りになれるはず」
とうてい信じられない面持ちで、ラナルズールはウィーリヤの持参した書状に素早く目を通した。
「しかし、大公と父国王は血を分けた実の兄弟。弟が兄を殺すなど──そなたはこれを信じるのか?」
「その書状の筆跡が証明しております。かくなる上は、王子、一刻も早くラシェロ大公を討ち、ドール王国との同盟条約を破棄なさるべきです」
ラナルズールは茶色の瞳でじっとウィーリヤを見つめた。
「そなた──このことを誰かに話したか?」
「父に相談いたしました。ですが、父以下ドール国の者は全て、大公の側につく所存でございます。父は、口外を禁じてわたくしを幽閉しようとさえしました。わたくしは事の次第を王子にお知らせすべく、父の目を盗み、邸を抜け出してまいったのです」
「よくぞ無事にここまで来たものだ。道中、追っ手はなかったのか?」
気遣うような王子の声音に、ウィーリヤは微かに頬を赤らめた。
「幾度か危うい目にも遭いました。ですが、道連れになった旅人がわたくしを助けてくれたのです。わたくしの生命の恩人であり、ヴァントラ王国にとっても恩人ですわ」
ゆっくりと室内を歩き、ラナルズールはウィーリヤに背を向けた。
しばらく無言であった彼の肩が微かに震えを帯びた。──泣いているのか。
「王子……」
ウィーリヤは心配そうに王子の後ろ姿を見つめた。
「くっ……くく……く」
ウィーリヤは己れの耳を疑った。──笑っている。泣いているのではなく、王子は笑っているのだ。
「憐れな娘よ。旅の者などに助けられさえしなければ、何も知らずに死ねたものを」
「……?」
ウィーリヤはあまりの驚愕に言葉も出なかった。
王子は、今、何と?
「お聞きになりましたか」
ラナルズールの口調と彼の問いが向けられた方向に、ウィーリヤははっとなった。
振り向くと、奥の間に通じる扉がいつの間にか開かれており、威風堂々たる風貌の五十代くらいの男性が立っていた。
「──ラシェロ大公……!」
これ以上はないほど大きく眼を開き、ウィーリヤは絶句した。
「なぜ……なぜ……」
ゆったりとした笑みを浮かべる大公と、憐れむように自分を見つめる王子。その二人の貴人の姿を唖然と見比べる顔面蒼白の彼女が、そこにいた。
惑乱したウィーリヤを見るラナルズールの表情は、同情とも憐憫とも、また嘲笑ともつかぬ奇妙なものだった。
ラシェロ大公が、ゆっくりと広間に足を踏み入れた。
「父上の言うことは素直に聞くものだよ、宰相のお娘御」
頬に薄い、不気味な笑みをたたえたまま、大公は鷹揚な調子で言った。
「どういうことです、王子!」
混乱しつつも、ウィーリヤは屹と王子を振り返った。
口許に微笑のような翳りを漂わせ、ラナルズール王子は冷ややかにウィーリヤのほうを見た。
「そなたがつかんだ情報は全て事実だ。ヴァントラ国王を暗殺せんがため、確かに、大公はドール国王と密かに手を結んだ。ただし、そなたの知らぬことが、ひとつある。このラナルズールも、その陰謀の首謀者の一人だという事実だ」
「──!」
衝撃のあまり、ウィーリヤはその場に崩れ落ちた。
一気に全身の力が抜けていくのが感じられた。
「お、王子が……父君を暗殺しようとしている──?」
「義理の父だよ」
吐き捨てるように言うラナルズールの横顔を、ウィーリヤはぼんやりと見上げた。
「王は何年も子に恵まれなかった。それ故、大公の息子──つまり私を、次の国王にすることを条件に養子に迎えたのだ。しかし、王はその約束をあっさりたがえた」
「……息子……? 王子が、大公の息子……?」
「ウィーリヤ殿。最近、王子に弟が誕生したことはご存知かね?」
やさしく微笑みながら、大公が尋ねた。ただし、その眼には微笑どころかやさしさのかけらもない。
「あ……はい、二ヶ月ほど前──」
「ラナルズールよりも年若い愛妾の子だ。兄王はその子を王太子にする腹なのだよ」
「……」
「そなたは知らぬだろうが、現在、王宮内ではこのことを巡って、家臣たちが国王派とラナルズール派に分かれ、激しく対立している。これに決着をつけるため、私はドール国王に協力を要請したのだ」
ウィーリヤは愕然と眼を見張ったまま。
「それじゃあ……国王暗殺はラナルズール王子を救うため……」
大公はうなずき、
「兄王は実の息子かわいさのあまり、その子の母──つまり妾だな。その十六歳の小娘の言いなりになっておる。今や、我が王国の政は美しさしか取り柄のない馬鹿な小娘の思うがままだ。このままでは、王国は遠からず崩壊する」
大理石の床に茫然と座り込むウィーリヤの前に、ラナルズールが片膝を着いた。
「解っただろう、ウィーリヤ。そなたのしたことは全て無駄だったのだ。そなたは故国を裏切り、お父上を裏切った。軽はずみな振る舞いで何もかも失ったのだ」
悲愴な面持ちで、ウィーリヤは、王子の顔を穴のあくほどじっと見つめた。
涙がとめどなくあふれ出た。
「わたしは……わたしは、ただ、王子のお役に立ちたくて……」
「そなたが善良な娘であることは知っている。証拠をつかんでいなければ、まだ何とでもなった。しかし、国王暗殺計画書を見られてしまってはどうにもならぬ。たとえ義理とはいえ、そなたは息子の父殺しを黙認できる人間ではないからな。それに、嘘がつけぬそなたは国王側にとって大切な生き証人だ」
生き証人? わたしが──?
ウィーリヤは愕然となった。
このときになって、ようやく、いま、自分が最大の危機に立たされていることを悟ったのだ。
もはや、王子は彼女の知っているラナルズールではない。
「宰相殿にはご同情申し上げる。ウィーリヤ殿、最愛の娘に裏切られたお父上の心がお解りかね? お父上は早馬を飛ばし、そなたの裏切りを知らせてよこした。場合によりては娘のことはあきらめ申し候──そうしたためてあった」
「お父様……お父様……愚かな娘をお許しください……」
ウィーリヤは床に泣き崩れた。
「お父上のために祈りなさい」
重々しく、大公が手に携えていた長剣の鞘を払った。
恐怖と絶望の中、白鑞のような顔色をしたウィーリヤが、ぎこちなく、硬い動作で後退さった。
「大公、私が」
ラシェロ大公の手から剣を取り、ラナルズールは、恐怖にひきつるウィーリヤを無表情に見下ろした。
そして、心を静めるように眼を閉じた。
「──許せ、ウィーリヤ」
剣が振り下ろされた。
震えるまつ毛の下から、生命の最後の名残りのように、そっと涙が頬を伝う。唇からは紅い花びらのような鮮血が、かすれたつぶやきとともにこぼれ落ちた。
「わたしは……ずっと……王子、あなたを……」
* * *
ヴァントラの都に程近い小高い丘陵に、一人のうら若い娘がたたずみ、彼方をじっと眺めていた。そこからヴァントラの都を望むことができる。
美しい娘であった。
あざやかな青い瞳は青玉のごとく、後頭部に結い上げられたアイス・ブルーの髪は長く背に垂れている。
碧羅の裾を風になびかせ、遠くを見つめる姿は神秘的ですらあった。
「……終わったわ」
娘の背後には、一本のプラタナスの巨木が四方に葉を繁らせていた。その巨木の根元に腰を下ろす黒衣の人物が、無言のまま、閉じていた眼をあけた。
「愚かな、娘ね」
「そうでもないよ。彼女は己の心のままに生きた。自らが持つ宿命に従ったんだ」
彼女──ウィーリヤの身に起こった一部始終を、精霊の持つ遠透視の術をもって見届けた、ユリウスと彼の使い魔・青珠であった。
「助けてあげることもできたわね」
「全ては彼女の宿命だったと言っただろう?」
やや目尻の上がった青い眼で、青珠はユリウスを顧みた。
「行くよ、青珠」
短く告げて、ユリウスは立ち上がった。
青珠の姿がすっと消えた。
丘陵を下り、アプア街道のほうへとユリウスは歩を進めた。
その美貌には、いかなる感情もとどめられてはいない。無表情──というよりは無心の美しさであった。
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