追われし人
3.
この時季、日の出は早い。
朝早くから、二人はシュクナ山の麓の町・ヴァントラ王国の都をめざして、下山の道を急いでいた。
ユリウスの存在があるおかげで熟睡することができたウィーリヤは、だいぶんに体力を回復していた。ヴァントラ王国への旅路、ユリウスに出会うまで、彼女はろくに眠っていなかったのだ。
途中、歩いている間、ずっと、ウィーリヤは探るような眼付きで、前を行く黒衣の背を見つめていた。
「何?」
その気配を察したのか、肩越しにウィーリヤを見遣って、ユリウスが訊いた。
「あなた、何も訊かないのね」
「何を訊くの」
「だって──昨日、あんな目に遭ったのに」
ウィーリヤはじれったそうに言った。
「わたしの素性も、なぜ追われているかということも、何も……」
ユリウスは無関心そうに、限りなく碧い瞳を前方へ向けた。
「いずれ訊くかもしれないよ。でも、今は興味がない」
今のウィーリヤには、彼女の事情に干渉しない彼の態度がありがたかった。なのに、次の言葉が思わず口をついて出たのはどうしてだったのか。
「奴らの言い分が正しいとは思わなかったの? そんなに簡単にわたしを信じてしまっていいの?」
ユリウスは、ゆっくり立ち止まり、振り返った。
思わずたじろぐように後退さったウィーリヤを、ユリウスは碧い宝玉のような瞳で見つめた。
左耳の紺瑠璃の耳飾りが重々しく揺れた。
「欺瞞の罪を裁くのは神であって、僕じゃない。たとえ僕を瞞せても、神を欺くことなどできはしないよ。罪は己れに返るものだ。それに、どちらが嘘をついているにせよ、僕には関係ない」
「関係──ない?」
「そう。あなたを助けたのは成り行きだし、奴らの言い分にも興味はない」
なぜか、ウィーリヤは絶望に似た落胆を感じた。
いつの間にか、無意識のうちに、この美しい巡礼の若者は自分の味方についてくれているのだと思い込んでいたのだ。
「あなた……何者?」
「え?」
その言葉の意味が解らなかったように、怪訝な表情でユリウスはウィーリヤに向き直った。
「平凡な巡礼者には見えないわ。──魔道士なの?」
この時代、魔道・魔術を生業とする人間は珍しくない。
その職種も、雨乞い、豊穣祈願から、呪殺、未来予言に至るまで多種多様であり、術者のレベルもさまざまであった。中には全くインチキのものもある。
「いや、違う」
「術を使ってわたしを護ってくれた」
ユリウスはふっと微笑んだ。
「あれは僕じゃない。青珠の力だ」
「青珠?」
「そう、僕の使い魔。青い石の精霊だよ」
ウィーリヤは驚いて大きく眼を見張った。
「使い魔を操れるなんて!──やっぱり、あなたはただ者じゃなかったのね。魔道の師でさえ、めったに使い魔を操れる者はいないと聞くわ。でも、わたしにはそれらしい気配すら判らなかったのに」
「青珠はあまり人間が好きではない。姿を見せないのも、そのためだ」
「近くにいるの?」
「いや。もうすぐ麓だから、例の兵士たちの様子を探りに行かせてある」
ウィーリヤははっと気づいた。
「……そうね。もうすぐヴァントラの都。町の入口に別の兵がいるかもしれない」
彼女の表情に一瞬にして翳がさした。
ユリウスはさりげなくその様子を見遣り、
「昨日の追っ手のほかにもあなたを追う者が?」
何気ない口調で尋ねた。
ウィーリヤは不安げにうつむいたままだ。
「アプア街道を行った別働隊の兵士が先回りして待ち伏せているかもしれないわ」
「あなたを殺すつもりかな」
「……判らない。場合によっては、そうするかもね。賑々しい都だから、町へ入ってしまえば、人込みに紛れて姿をくらますこともできると思うのだけど」
そう言って、ウィーリヤはきゅっと唇を噛んだ。
ヴァントラ王国の首都はラリスといい、大陸を一周するアプア街道上にあった。大きな街ではないが、数ある大陸主要都市のひとつではある。
一人の若い巡礼者が、強固な防壁を巡らせたヴァントラの都の入口に当たる表門へ着いたのは、正午を少し廻った頃だった。
大きく開放された巨大な門の下、そこを行き交う大勢の人々。
ただ、その門の近くでたむろする数人の兵士の姿が、賑やかな往来にやや不穏な空気をかもしだしている。
彼らが都の警備兵でもなく、王宮の兵隊でもないことは、その出立ちからして一目瞭然だった。
兵士たちは、皆、一様にさりげなさを装って、都の門をくぐる人々の様子や姿態を鋭く観察していた。しかし、別にならず者の集団でもないようだ。いずれかの国の兵隊か、もしくは傭兵だろう。
兵士の姿を見て、門をくぐる人々は、みな一様に眉をひそめた。──何かあったのだろうか、と。
その巡礼の若者も、ちらりと兵士の一団に視線を流したが、若者のその表情は頭に巻かれた黒い布に隠れて見えなかった。兵士たちのほうも若者をじろりと一瞥したが、何も言わずに視線をそらした。
一目で巡礼と判る黒衣に身を包んだ若者は、そのまま都の守護神を祭る神殿へと足を運んだ。が、神殿の中へは入らず、参道の一角に腰を下ろした。
待つこと数分、のんびりとやってきたクリーム色の外套をまとった金髪の青年が、巡礼の若者の姿を認めて、微笑んだ。
左耳に紺瑠璃の耳飾りが揺れている。
「うまくいったようだね」
くすりと笑った黒衣の若者が頭に巻いた布を解いた。その下から現れたのは、女の──ウィーリヤの顔だった。
シュクナ山で、互いの衣裳を取り替えようと提案したのはユリウスだ。
「待ち伏せている兵士は、あなたが僕と道連れになっていることは知らないはず。あなたは巡礼の恰好をして、顔を隠すように巡礼の頭布を巻けばいい」
ウィーリヤの顔がぱっと輝いた。
「素敵な考えだわ、ユリウス! 兵士たちも、まさか、巡礼者に乱暴を働くことはないでしょう。でも、あなたは大丈夫かしら」
ユリウスはちょっと微笑んでみせた。
「奴らにとって、僕の存在は何の意味もないよ」
「ありがとう、ユリウス。おかげで助かったわ。もう、大丈夫。あとは人込みに紛れて、姿を消せばいいだけ」
「時間はあまりないよ。もうすぐ追っ手が町へ入る。そうなれば、奴らは血眼になって町中を捜し廻るだろう」
「本当? 大変だわ。急がなくちゃ」
二人はひと気のない神殿の陰で衣裳を交換した。
「本当にありがとう。あなたには何から何まで世話になったわ。わたしの身が保護されたら、お礼をします。明日までこの町にいてくれるかしら?」
ウィーリヤはユリウスの左手を取った。
訴えるような眼差しでその美貌を見つめ、痛いほどにその手を握りしめた。が、ウィーリヤの掌から、ユリウスは素っ気ないほど無情に己れの手を引いた。
「礼が欲しくてしたことじゃない。気をつけて。元気でね」
ウィーリヤが驚くほど、呆気ない別れであった。
呆気ないほど簡単に、ユリウスは彼女に背を向けた。
ウィーリヤは言葉を探した。彼を引き止めるための口実を必死になって探した。
「まだ言ってなかったわ、わたしのこと。ねえ、ユリウス、待って。事情を話します。今こそ。何もかも」
彼女は声をあげて叫んだが、ユリウスは振り向かなかった。
「待って、ユリウス! わたしの話を聞いて」
ユリウスの黒い後ろ姿は町の人込みの中に消えた。
追おうとして、ウィーリヤは躊躇った。
ユリウスを捜して、必要以上に街を彷徨い歩くことは危険すぎる。
自らの生命をも危険にさらし、ようやくこのヴァントラの都へたどり着くことができたのだ。この期に及んで追っ手に捕まるわけにはいかなかった。
今、彼を捜している暇はない。だが、明日には決着がつくだろう。ことが終われば、あの方に頼んでユリウスを捜してもらうこともできる。
そこまで考え、ウィーリヤは顔を隠すようにして最終目的地をめざした。