呪詛の応酬
1.
外は激しい雨にぬり込められていた。
もう、三日も、ユリウスはこの町に足止めを食っている。
その日、ユリウスは、つれづれを紛らわせるため、宿の主人から借りた駒と盤で青珠を相手にチェスに興じていた。
「王手よ」
静かに青珠が言った。
大きくため息をついて、ユリウスは寝台に身を投げ出した。
寝台の真ん中に置いていたチェス盤が安定を失い、ばらばらと駒が倒れた。二人は盤をはさんで寝台の上に座り、駒を進めていたのだ。
「今日は調子が悪い。もう、やめよう」
青珠は薄く笑って、
「昨日も連敗を帰したわ」
と言った。
「雨が勘を狂わせているんだ」
「明日は、やむわ。水の精霊たちが、そう言っている」
「そう」
散らばった駒を集める青珠を見遣り、ユリウスは身を起こした。
「雨が上がったら、少し、稼がなきゃね。そろそろ路銀が乏しくなってきた」
翌日、大気はまだ水分を含み、しっとりとしていたが、朝から快晴であった。
湿り気を帯びた初夏の風が心地よい。
宿を出たユリウスは、気の向くまま、町の中心にある広場へと足を向けた。
黒一色の衣裳をまとい、髪にはやはり黒の頭布──いつもの出立ちである。
朝市が出ている。
ぶらぶらと広場を歩いていると、ある立て札が目に留まった。その傍らで無花果を商う四十代半ばに見える女性が、ちらりとユリウスを見て声をかけた。
「見馴れない若者だね。その恰好は巡礼の旅かい?」
「ええ」
「この町にも、シュクナ山へ参る巡礼者がときどき来るけど、でも、あんたみたいに綺麗な巡礼は初めてだよ」
「ところで、これは最近のもの?」
「ああ、その立て札かい? ……そうだねえ、十日ばかし前だったかね」
「もう、治ったのかな」
「いいや、まだだよ。太守様のお嬢様の病は、誰も治すことができないんだよ。お気の毒なことだね、全く」
ユリウスは改めて立て札を読んだ。
“我が娘の病、治せし者に、金二〇〇〇アウレウスの褒美を取らす”
二千アウレウスはかなりの額である。
「病か。──太守の娘は何の病なんだろう」
耳を澄ませたが、精霊のささやきは聞こえなかった。
ユリウスはその足で太守の邸宅へ向かった。まるで、買い忘れたパンを求めに行くような、気安げな様子であった。
太守邸へ着いたユリウスが例の立て札のおふれを見てやってきた旨を伝えると、すぐさま太守のもとに通された。
執務室で仕事の最中だったこの都市の太守は、だが、政務を後回しにして、ユリウスとの対面を優先した。
見るからに厳格そうな、灰色の髪と灰色の口髭を持つ人物である。太守は部屋に入ってきた黒衣の若者をじろりと一瞥した。
「──若いな。そなたは薬師か?」
「いいえ」
「では、魔道士かな?」
「いいえ」
太守は、苛々と執務用の卓子を指先でたたいた。
「では、何だというのだ」
「ただの巡礼者です」
太守は一瞬、困惑の表情を見せ、次いで、不機嫌な顔になった。彼があまりに若いことも、太守には不満だった。
「娘の病には薬も祈祷も効かぬ。この国の名だたる薬師どもが匙を投げ、各地から呼び寄せた幾人もの魔道士たちが己の無力を嘆いてこの邸を去っていった。その、娘の得体の知れぬ病を、そなたごとき一介の巡礼者に何ができる?」
「薬師ではありませんが、少しばかり心霊治療を行います。もちろん、お決めになるのは閣下です。ただ、後々、悔やむことのなきように」
太守は苦々しく若者の顔を見遣った。
これは褒美の金めあての山師ではないのか。
碧玉のごとき瞳が、やや伏し目に、若者の顔に妖しい翳を落としている。その玲瓏たる麗しさが、太守の判断を迷わせた。
「名は何という?」
黒衣の若者の口許が微かにほころんだ。
「ユリウス」
太守は、自らユリウスを一人娘の部屋に案内した。
贅沢な部屋であった。
太守の、娘に対する溺愛ぶりがうかがえる。
豪華な室内の中央に天蓋付きの寝台が置かれ、栗色の髪の娘が横たわっている。その傍らには御殿医らしい老人の姿もあった。
「これが娘のアイザだ」
見ると、娘は熱に浮かされ、真っ赤に紅潮した顔をしている。
呼吸も苦しそうだ。
歳は、ユリウスよりもやや下か。なかなかに美しい娘であった。
「閣下、こちらは?」
ユリウスを見遣り、老人が尋ねた。
「アイザの病を治したいと申しておる。ユリウスと申す巡礼の者だ。そなたから、アイザの様子を説明してやってくれ」
「おお、それはそれは──」
改めてユリウスに視線を移した御殿医の瞳には、新たなる希望への期待と、自分より目下の者への侮蔑の色が見え隠れしていた。
対するユリウスは、無表情に老医師に一礼した。一礼したものの、それは機械的な動作だった。
彼は別のことに気を取られていたのだ。
この部屋へ一歩足を踏み入れたときから、ユリウスは、何か得体の知れない不快感を感じていた。
眼には見えないが、微妙に肌で感じるそれ──しかし、彼以外の人間は何も気づいていないらしい。
「突然、アイザ様がお倒れになったのは、ふた月ほど前ですじゃ。以来、原因不明の高熱が続き、この通り意識も混沌としなさったまま。次々と薬師が呼ばれ、我こそはと名乗り出た魔道士たちも祈祷を行いましたが、全て、無駄骨でしたわい。ユリウス殿とやら、これ以上、そなたに何ができますかな?」
だが、ユリウスは返事をせず、じっと病床のアイザを見つめていた。
「これ、ユリウス殿」
戸惑ったような老医師の呼びかけを無視し、ユリウスはアイザの枕許に近寄った。
汗で額に貼りついた前髪をそっと分けてみる。
「神代文字──誰かが呪詛を行っている」
アイザの額の中央に、余人には見えぬ神代文字が浮かび上がっている様が、ユリウスの目にははっきりと見て取ることができた。
「閣下。お嬢さんが誰かに恨まれているという心当たりは?」
「アイザが恨まれる?」
太守はさも心外そうに眼を見張った。
「そんな心当たりなどはない。アイザは人に恨まれるような娘ではないぞ」
「では、閣下ご自身には?」
「閣下、お答えにならんで結構」
ルクモス老医が話をさえぎって、ユリウスを睨み付けた。
「こやつはいい加減なことを申して、礼金を騙し取る魂胆ですじゃ。直ちに牢へ入れなさるがよかろうて」
「そうなさりたければどうぞ。確かに、僕がここへ来たのは礼金めあてだが、それは正当な報酬としていただくつもりです」
別段、怒った様子も見せず、ユリウスは太守を振り返った。
「どうします、閣下? 僕を追い出しますか?」
太守は苦しそうにユリウスと老医師とを見比べた。
この面妖な若者を疑う気持ちがないわけではなかったが、藁をもつかみたい心境がそれにまさった。
「……ちょうど二ヶ月前のことだ」
と、太守は低い声で話し始めた。
「閣下!」
「よいのだ、ルクモス。──メルクリウス神殿のある神官が、還俗してもいい、アイザを妻に迎えたいと申し出てまいった。年齢は三十ばかり、どこか気味の悪い男だった。私はそれを断ったのだ」
「それで?」
と、ユリウスは促した。
「アイザにはすでに私の秘書官との話がまとまっておった。それを知ってなお、その神官はしつこく娘に執心したのだ。挙句に、アイザを他の男の手に渡らせぬよう、アイザを殺すとまで言い切った」
「呪殺する、と?」
「そこまでは申さぬ。が、アイザが襲われるようなことがあってはならぬので、そやつの上官にことの次第を打ち明け、厳しく注意するよう頼んだのだ」
「そうですか」
「どうだ、ユリウス殿。アイザは治るのか? そなたに治せるか?」
太守のユリウスを見つめる瞳は娘の回復を願う父親のそれであった。
熱っぽく、ひたむきに、太守はユリウスの次の言葉を待った。
一方、未だ不信の念をぬぐいきれぬルクモス老医師は、疑わしげな眼でユリウスを見守っている。
「そうですね……とりあえず、聖水をここへ運んでいただけますか」