呪詛の応酬

2.

 最寄りの神殿よりアイザの部屋に、かなりの量の聖水が運び込まれた。
「聖水など、どうするつもりなのだ」
「無論、お嬢さんを護る結界を作るのです」
 ユリウスの指示で、聖水を満たした四つの壺が四方の部屋の隅に設置された。
 ユリウスは、それぞれの聖水の水面に人差し指の先をわずかに浸し、短い呪文を唱えて廻った。
「閣下、お嬢様が……!」
 アイザに付き添っている御殿医・ルクモスが驚きの声を上げた。
 目に見えて、アイザの呼吸が落ち着いてきた。
 奇跡のように熱が下がっていく。
 この劇的な変化を目の当たりにして、太守も眼を見張らずにはいられなかった。今まで何十人もの人間が治そうと試み、失敗を重ねてきた彼女の病なのだ。
「ユリウス殿、そなた、やはり魔道を極めているのではないのか……?」
「いいえ。書物から得た中途半端な知識にすぎませぬ」
 言いながら、ユリウスは聖水の小瓶と筆を手に、アイザの枕許に近づいた。
 まだ一度も使っていない筆を聖水に浸し、口の中で呪文を唱えながら、彼の眼だけが捉えることのできる彼女の額に浮かぶ神代文字をなぞった。
「おお──これは──
 二ヶ月間、意識のなかったアイザの瞳がそろそろと開かれたのだ。
「おとう……さま……」
「アイザ! アイザ、気がついたか」
 太守は気も狂わんばかりの喜びようであった。
「あたし……どうしたのかしら……」
 ぼんやりと父の顔を眺める娘の髪を、そっと太守の手が撫でた。
「おまえは病気だったのだ。そこにいる若者がおまえを救ってくれたのだよ」
「病気……あたしが?」
 つぶやきながら、傍らに立つ黒衣の若者に視線を移したアイザの頬が、彼の姿を認めた途端、みるみる朱に染まった。
 なんて──なんて、綺麗な人なんだろう。
「ユリウス殿、私がどれだけそなたに感謝の念を抱いているか、お解りだろうか」
 だが、ユリウスは静かに首を横に振った。
「水をさすようで恐縮ですが、まだ終わっていません」
「それはどういうことだ?」
「アイザさんは結界の張ってあるこの部屋でのみ安全だということです。呪詛を行っている人物を早急に突き止め、それをやめさせることをしなくては、お嬢さんの生命は保証できません」
「そなたがやってはくれまいか」
「巡礼の身が、むやみに殺生をすることは……」
「いや、殺さずともよい。厳罰に処し、牢に放り込めば──
「お言葉ですが、閣下。閣下は呪詛、呪殺に対する認識が甘い。その者が閣下を逆恨みしないとも限りません。すぐれた呪殺者ならば、どこにいようと閣下のお生命を奪うことができます。二度と呪詛を行えぬよう、そのような者は処刑すべきです」
 言っていることの内容が先ほどと矛盾しているようではあるが、太守はそれに気づかなかった。
 気がついたのは、別の人間である。
「うぅむ……」
「閣下。しばし、こちらへ」
 ルクモスが太守を部屋の外へ連れ出した。
「あのユリウスと申す者、やはり何か、胡散臭うございます。お信じになられますのはどうかと……」
 扉一枚を隔てた廊下で、老医師は小声で太守に訴えた。
「そなたはアイザが意識を取り戻した様子を見なかったのか。ユリウスはアイザの生命の恩人だ。なす術もなくアイザを見守ることしかできなかったそなたとは違う。あの者を悪し様に言うと私が許さぬぞ。そなた、ユリウスに嫉妬しておるのだろう」
 ルクモスは憤怒に顔を赭く染めた。
「何ということを仰せであります! お解りでないのは閣下のほう。あの者は山師でございます。今に、きっと化けの皮を現すことでしょうぞ」
「もうよい。そなたは下がれ。私はユリウスに話がある」
 太守は憮然とルクモスを無視し、アイザの部屋へ引き返した。
 窓辺に立っていたユリウスが振り向いた。美神のごとき、その眼差し。
──ところで、ユリウス殿。その、呪詛を行っていた人物というのは、やはり例の神官だと思われるか」
「呪詛ですって──?」
 アイザが驚いて声を上げた。
「断言はできません。しかし、可能性はありますね」
「では、早速その神官を尋問いたそう。ユリウス殿、すまぬがアイザのそばについていてくれぬか。ルクモス医師は老齢ゆえ、このところの看病疲れで、自邸に戻られた」
 ユリウスはうなずいた。
「では、失礼する。何かあったら、すぐに召使いを呼びなさい。アイザ、夕食までには戻ると約束しよう」
 アイザの額に軽く唇をつけて、太守は部屋をあとにした。
 立て札通りの礼金は、すぐさま、アイザの部屋に届けられた。
 少しもありがたそうな顔をせず、淡々と、当たり前のような表情と仕草でそれを受け取るユリウスを、アイザは面白そうに見守っていた。
「ね、事情をお話しくださらない?」
 礼金を届けてきた小姓が退出してから、媚びるようにアイザは言った。
「あたしは何の病でしたの? 例の神官って、マリウスのこと? それに、あなたはいったい誰なのです」
 ユリウスはちらと寝台の中のアイザを見遣った。
「あなたは熱に浮かされ、二ヶ月も意識がなかったとうかがった。僕は、病を治せる者に褒美を与えるというおふれを見て、ここへ来た者です」
「では、あなたは生命の恩人ですわね」
 アイザはうっとりと黒衣の若者を見つめている。対し、ユリウスはやや皮肉な笑みを口許に浮かべた。
「僕にとってはただの取り引きですけど」
「どちらにしても、あたしを救ってくださったことには変わりないわ」
 アイザは寝台からおりようとして、よろめいた。
「あっ……」
 衰弱しきっている足が身体を支えることができず、バランスを失い、危うく床に倒れるところを彼女はユリウスに抱きとめられた。
「……ありがとう」
 吐息のように甘くつぶやき、アイザはそのままユリウスの首に両手をからめた。
「お礼よ、受け取って」
 彼女はユリウスの頭を強く抱き、その唇に自らの唇を合わせようとした。その寸前、ユリウスはすっと身を引いた。
「なぜ? あたしが欲しくないの?」
「お礼はすでに父上からいただいた。それで充分だよ」
「あたしからもお礼がしたいのよ」
 そう言ってなおも身を寄せてくる娘を、黒衣の若者は鬱陶しそうによけた。
「巡礼の身を、それも会ったばかりの人間を誘惑する気かい?」
「巡礼だからって、気取ることないわよ」
 と、アイザは傲慢な笑いに唇をゆがめた。
「神官のマリウスだって、最初は同じことを言っていたけれど、結局は、あたしに抗いきれなかった。……いいのよ、しばらくは誰も来ない。さあ、遠慮はいらないわ。キスして」
 アイザは強引に美青年を寝台へいざなおうとした。
 淡い桃色の寛衣の胸元を思わせぶりに開き、白い肌を露に見せた。
「……浮気な女は好きじゃないな」
 気だるげにつぶやいたユリウスはアイザを押しのけ、黒衣の裾を翻して、さっさと部屋を出た。
「ま──待って。もうすぐ昼食が出るわ。せめて、食事を一緒に……」
「遠慮するよ。あなたと食べたのでは、美味しくなさそうだからね」
「お父様の命令だったでしょ。ここにいなさい!」
 だが、扉はむなしく閉じられた。

「神官が彼女に横恋慕していたのではなく、彼女が神官を誘惑していたのか。これは厄介なことになりそうだな」
 太守邸を出たユリウスは、眉をひそめてつぶやいた。
<どうするつもり?>
 透き通った小さな声が、鈴を振るように耳元でささやいた。もとより、眼に見える姿はユリウスのみ。
「太守の娘の病の原因は判った。礼金もいただいた。もう、用はないよ」
<呪詛を行った人物が彼らに特定できるとは思えないわ>
「そうだね。でも、あとは彼らの好きにすればいい。この町はもう飽きた。青珠、次はどこへ行きたい?」

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