呪詛の応酬
3.
商業や旅人の守護神・メルクリウス。
そのメルクリウス神殿の下級神官であるマリウスは、どちらかといえばおとなしい、真面目すぎるほど真面目な青年であった。
一見、三十前後だが、実は二十五歳である。
上官に当たるメルクリウス神の祭司に呼ばれ、マリウスは神殿の中にある祭司の執務室へ向かった。
気味の悪い男だと太守は言った。
確かに彼は顔色が蒼白く、表情にも乏しかったが、その顔立ちは決して醜くはない。むしろ、彫刻のようだとさえいえる。
しかし、彼のかもしだす、どうにも陰気な雰囲気が、彼という人間の全体像に、かなりのマイナスのイメージを与えていた。
「祭司様、お呼びでしょうか」
部屋に一歩足を踏み入れて、マリウスはぎくりとした。
祭司の向こうに、太守の姿を認めたのである。
町の太守──アイザの父親だ。
「休息のところ、わざわざ呼びたててすまぬな。実は、太守閣下がそなたに訊きたいことがおありだそうで、じきじきにお話しをなさりたいとのことじゃ」
「た──太守閣下ともあろうお方が、私のような一介の神官に、な、何を……」
それまで無言だった太守が、じろりと凄まじい目付きでマリウスを一瞥した。
「ほう、お心当たりがないと申されるか」
マリウスは太守が苦手だった。
太守に限らず、おとなしいマリウスは、太守のような頭ごなしにものを言う人と対面するとき、必要以上におどおどと落ち着きをなくしてしまう。
無論、太守が恋した女性の父親だということも過度の緊張の原因ではあるが、もし、太守がここに同席する祭司のような温厚な人間であれば、自分はもっと好印象を与えることができたはず──そう思わずにはいられなかった。
もしそうなら、アイザは彼の妻になっていたはずだ。
「……お嬢様のことでしたら、祭司様からお叱りを受けましてから、一度も、会ったことはございません。お嬢様は重い病とか──ですが、見舞いに参上することも遠慮しておりました」
「会わずとも、呪うことはできような」
「呪う?」
「左様。我が娘の病は呪詛によるもの。そなた、身に覚えがあろう?」
マリウスの顔がさっと蒼ざめた。
「ま……まさか、閣下は私が呪詛を行ってお嬢様を病気にしたと……そう、お思いなのですか。ち、違います! 断じて、違います!」
必死の形相で、マリウスは太守の足許に、身を投げ出すように両の膝をついた。
「お嬢様をお慕いする私が、何ゆえ、そのお嬢様を呪わなければならぬのです。どうか信じてください」
「太守閣下」
それまで、じっと二人のやり取りを聞いていた祭司が、静かに口をはさんだ。
「このマリウス、いささか一徹なところはござれど、仮にも神に仕える身。軽々しく人を恨んだりするような者ではありませぬ。まして、呪詛などと──この者を信じてやってはくださいませぬか」
「しかし、祭司殿、この男でないとしたら、誰が私や娘を恨むというのだ。事実、この者は下級神官でありながら、太守の娘を妻にしたいなどと申し出た不埒者。そのように大それた望みを抱く者が、果たして、神に仕える身といえましょうか」
不機嫌に言い放つ太守の足許にうずくまり、身を震わせていたマリウスは、意を決したように顔を上げて、唐突に叫んだ。
「アイザさんが──お嬢様が、私を愛していると──そう言ってくださったのです。身分が違うと、私はそう申しましたが、そのようなことは問題ではないと、お嬢様は言ってくださいました。そして──そして私たちは、契りを交わしたのです」
一瞬、太守は言葉につまった。
己の耳を疑った。
「な──、いま何と言った、マリウス?」
「アイザさんと私はそれほど愛し合っているのです。どうか──閣下、もう一度お考え直しください。アイザさんと私の結婚をお許しください」
衝撃の告白に、祭司も呆然と驚きあきれ、絶句したまま部下を見つめている。
激昂のあまり、太守はしばらくは言葉もなく、ただわなわなと震えていた。
「お──おのれ、マリウス!」
次の瞬間、我を失った太守は、激情のままに腰の長剣の柄に手をかけた。
「アイザ、アイザ──!」
名を呼ぶ声とともにアイザの寝室の扉が開かれ、彼女はそちらを振り向いた。
「どうなさったの、お父様」
「おお、アイザ。もう起き上がっても大丈夫なのか」
そう言って、太守は窓辺にたたずむ愛娘のそばへ大股に近寄った。
「もう、安心だぞ、アイザ。もう、呪詛などに脅かされずにすむ。さあ、この部屋を出てみなさい」
よく事情が飲み込めないながらも、アイザは言われる通りに部屋を出た。
「……う」
「どうしたのだ!」
崩れるように前のめりに倒れたアイザを腕に抱きかかえ、太守は慌てて、聖水で結界の張られた部屋へ戻った。
彼女を寝台に寝かせ、太守は大急ぎで、召使いにルクモス医師を呼びにやらせた。
ほどなく駆け付けたルクモス老医師は、一通りアイザを診察し、特に異常は見られないことを述べた。
「ところで、閣下。あの、ユリウスと申す巡礼はいかがいたしました」
「そうだ、ユリウス──あの者はどこへ行った?」
主要な都市から都市へと続く、代表的な街道のひとつ、アプア街道を行き交う人々の中に、巡礼の黒衣に身をかためた美貌の若者の姿があった。
<ユーリィ>
「解ってる」
街道を慌ただしく馬を飛ばすその蹄の音が、風を伝ってかなりの距離を隔てたユリウスの耳にも届いていた。
「僕に用らしいな」
「──やはり、私めの申した通りでしたな。呪詛など、始めから行われていなかったのです。それをあやつめは舌先で閣下をたぶらかし、いい加減な術を使うて、さもお嬢様が呪詛によって苦しんでいたように見せかけたのじゃ」
ここぞとばかり、ルクモス老医はユリウスの糾弾を続けた。
「そもそも、最初からおかしいと思いました。数多の魔道士が誰一人として治すことのできなんだお嬢様の病、少しばかり魔道をかじったとて、あのような青二才に治せるわけがありませぬ。即刻あの者を捕らえ、今度こそ首をおはねになることです」
「うむ……私が愚かだった。しかし、アイザが意識を取り戻したのは事実だ」
と、太守は不安そうな寝台の中のアイザを見遣った。
「全くの偶然に過ぎませぬ。それが証拠に、彼奴は閣下の命令を無視し、礼金を受け取るや否や姿を消したではありませぬか」
「うむ……そなたの言う通りだ」
折しも、そこへ、太守の命令でユリウスを追った者が、ユリウスらしき若い巡礼者を捕らえたという知らせが届いた。
「直ちにここへ連れてまいれ」
太守のもとへ引き返してきた形のユリウスは、だが、少しも悪びれたふうはなく、アイザの部屋に連れてこられると、優雅に礼をした。
「そなた、まんまと私を欺いたな」
「欺いた?」
眉ひとつ動かすことのない美貌の若者を、太守は憎々しげに横目で睨み付けた。
「そなたの申した通り、呪詛を行った人物は斬首した。しかし、アイザはこの部屋から出ることができぬ。ここで一生を終えろとでも申すのか」
「正直に申せ。そなた、まやかしの妖術で閣下からの礼金を騙し取った、ただのいかさま師であろう」
我が意を得たり、とばかりの得意顔で、老医師は手に持っていた杖の先で、ぴたりとユリウスを指した。
「言い訳の余地はないぞ。今すぐ、そなたは首をはねられるのじゃ」
押し黙ったままの栗色の髪の娘に、黒衣の若者がちらりと視線を向けた。ユリウスと目が合ったとき、思わずアイザは瞳をそらした。
「閣下、あなたや薬師殿のお言葉は単なる言い掛かりに過ぎません。そのようなことで呼び戻されては迷惑です」
「な、何を申す、この──」
「閣下は呪詛した者を斬首したとおっしゃった。しかし、それが人違いだったとはお考えにはなりませぬのか?」
太守はぽかんと口を開けた。
「人違い……?」
「そうです」
「黙れ、いかさま師」
ルクモス医師がわめいた。
「なぜ、人違いだと言い切ることができるのじゃ。それならば、真に呪詛を行う者をそなたが捜し出せるとでも申すのか」
勝ち誇ったような響きがあった。
だが、ユリウスはあっさりとうなずいた。
「ええ。では、そうしましょう」