呪詛の応酬
4.
太守の一人娘・アイザを呪詛した人物を捜しだすことを、ユリウスがあまりに簡単に承諾したので、そこにいた人々は、ある意味、拍子抜けであった。
「本来、このようなことは不本意です」
と、ユリウスは室内の四方の隅に置かれた聖水の壺のひとつへ、数時間前、アイザを目覚めさせるために用いた筆を浸しながら言った。
「呪殺目的の呪詛を返せば、術者はほぼ確実に生命を落としますからね」
「はて、奇っ怪なことじゃ」
何としても、この美しき巡礼の若者に信頼を置くことのできない老医師・ルクモスは、思わせぶりに首を振った。
「そなたは言うたではないか。己は魔道士ではないと。魔道士でないそなたが、本物の魔道士を相手に、さて、呪詛を返すことなどできるかのう?」
「薬師殿の申される通り、僕は魔道士ではない。呪詛返しなどできません」
紺瑠璃の耳飾りが、揺れて、鈍く光を撥ねた。
黒衣の若者の当然と言わんばかりの口調に、ルクモスばかりか太守とその娘まで、唖然として眼を見張った。
「い、今さら何を──そなた、生命が惜しくないのか?」
「お慌てにならぬよう。呪詛返しをするのは僕じゃない」
刹那、ユリウスの傍らに、うら若き娘が一人、立っていた。否、出現した、といったほうがいいが、まるで最初からそこにいたかのようだ。
清楚な美貌にほっそりとした肢体。あたかも、水晶の彫像に生命が吹き込まれたようなその美しさ。
「呪詛返しは彼女──青珠がする」
突然現れたその娘が人間でないことは、容易に察しがついた。
しかし、それではいったい何者か。
「座りなさい」
清水のような声であった。
青珠が現れたことで茫然となっていた三人は、ようやく我に返った。それが自分に向けられた言葉だと知り、アイザは黙って寝台に腰を下ろした。
太守と老医師が見守る中、聖水を含ませた筆を手に、ユリウスが、アイザの額に何かを書いた。
前回はそれで額に浮かぶ神代文字をなぞったが、今回は、その余人には見えぬ神代文字を囲むように、六芒星を描いていた。
アイザの意識がふっと消えた。
が、寝台の上に座る彼女の姿勢は微塵も崩れない。
「ヘカス、ヘカス──」
低い声でつぶやいた青珠が右手で手刀を作り、空間に、アイザの額のものと同じ魔法陣を大きく描いた。
さらに呪文を唱えると、空中に描かれた魔法陣は光の六芒星となり、それに呼応するようにアイザの額に描かれた六芒星も白い光として可視になった。
「くう……!」
アイザの顔が苦痛にゆがむ。
「アイザ!」
思わず腰を上げようとした太守の前に、ユリウスが立ちふさがった。
「お座りください。もう少しです」
一方、呆気に取られている老医師は、呆けたように、言葉もない。
「……見える、ユーリィ?」
青珠の長いアイス・ブルーの髪や碧羅の裾が、風にあおられ、なびいている。
この部屋の窓は閉じられていたが、二つの魔法陣を通して、その向こうから異界の風が流れ込んできているのだ。
「姿は見えた。青珠、術者の心を透視だ」
青珠はうなずいた。
彼女が精霊の力をもって遠視、透視した映像を、感応術で、ユリウスはそのまま自らの眼で見た映像のごとく受け取ることができる。
しかし、そのような事情を知らない太守たちには、理解不能の出来事だった。
「見えた。術者の名はシャルゲル。この名に心当たりは?」
「シャルゲル? いや、知らぬ」
「どうやら、この町に住む魔道士のようだ。呪詛の依頼を受けたらしい」
ふと、青珠が眼を細めた。
「ユーリィ、消えるわ」
「もう少し。──タリニウス。これも人の名だ。これが依頼者か」
「タリニウスだと?」
突然、太守ががばっと椅子から跳ね上がった。
「タリニウスというのは、日ごろ私が目をかけている秘書官の名前だ。奴は──アイザの許婚者なのだ」
空中に浮かび上がった魔法陣と、そしてアイザの額の魔法陣とが、白光が砕けるように霧消した。
と同時にアイザも寝台の上に仰向けに倒れた。
「ど、どうなったのだ」
「術者が死にました」
短く、ユリウスが答えた。
「僕の役目は終わった。あとは、そのタリニウスという人物を問い詰めれば、全て明らかになるでしょう」
その日の夕方、官府で勤務中だった秘書官・タリニウスは、突然、太守邸に呼び出された。
大至急、ということであった。
この町の太守の秘書官を務めるタリニウスは、誰もが認める有能な男だった。
この男なら自分の後継者として申し分ないと見定めた太守に気に入られ、一人娘の婿にと申し入れがあったのは半年前だ。
この年、タリニウスは三十二歳。
頭の回転が速く、将来有望な切れ者だが、彼は醜貌だった。体格もどちらかというと小柄で、見栄えはしない。
お世辞にも女性に好かれる容姿とはいえなかった。
太守からの呼び出しの知らせを受けたとき、秘書官はさっと蒼ざめた。
──閣下はもう何もかも知っているのだろうか。しかし、証拠はないのだ。何も恐れることはない。
タリニウスは仕事を早く切り上げ、馬車で太守邸に向かった。
太守邸の門をくぐると、タリニウスは応接の間に通された。
「よく来た、タリニウス」
秘書官の姿を認めた太守は、椅子から立ち上がりもせず、不機嫌な声を投げた。
いつもとは打って変わった上官の冷ややかな視線に、タリニウスの表情は強張った。
「どうしたね。座りたまえ」
応接の間で彼を迎えたのは太守一人ではなかった。
一目で巡礼者のそれと判る黒衣に身を包んだ見知らぬ若者がいた。
息を呑むほど美しいその若者に不審の眼差しをちらりと送り、タリニウスはゆっくりと長椅子に腰を下ろした。
「さて、秘書官。ここに呼ばれた理由は、すでに察しておろうな?」
「いいえ、解りかねますが」
「アイザの病は治った。こう言えば解るかね」
刹那、タリニウスの眼に狼狽が走ったように見えたが、それもほんの一瞬のこと、
「それは何よりのことです。お嬢様のためにお祝いを申し上げましょう」
微かな笑みさえ浮かべ、秘書官は恭しく頭を下げた。太守は憮然たるままに部下の顔を見つめ、おもむろに足を組み替えた。
「単刀直入に言おう。おまえはシャルゲルなる魔道士を存じておるな」
タリニウスの眉がぴくりと動いた。
「シャルゲル、ですか」
「おまえが呪詛を依頼した魔道士だ」
「……」
険しい上司の顔からわずかに視線をそらし、タリニウスは唾を呑んだ。
「だが──なぜだ? 私は特別おまえに目をかけてやった。次期太守候補として、格別の扱いもした。可愛い一人娘を妻にやろうとさえしたのだ。それを……なぜ、私を裏切るような真似をした」
うつむき、やや眼を伏せたタリニウスは、掌に爪が食い込むほど強く、拳を握りしめている。
その肩がわずかに震えていた。
「どうした。答えられぬのか」
激しい感情を抑えた低い声だった。そのとき、太守の背後にたたずんでいた黒衣の若者が、初めて口を開いた。
「……代わりにあなたが答えては?」
流れるようにすっと扉のところに移動したユリウスが、音もなく扉を開けると、そこで話を立ち聞きしていたらしい太守の娘が、はっと身構えた。
太守と秘書官が驚きの眼でアイザを見遣った。
「アイザ──いつからいたのだ」
「秘書官殿が来られてすぐですよ」
無言のまま、アイザが入室すると、ユリウスは静かに扉を閉めた。
「さあ、アイザさん。秘書官殿との間に何があったか、全て父上に話してください。これでは秘書官殿一人が悪者にされてしまう」
「何を言う。アイザは関係ない。この子は被害者なのだぞ」
腑に落ちない表情で、太守は娘と黒衣の若者とを見比べた。
「お嬢さんにはいい薬じゃないかな」
「どういう意味だ、ユリウス。無礼ではないか」
「言ったままの意味ですよ」
ユリウスはうつむく秘書官へ視線を移した。
「あなたが言いますか、秘書官殿。それとも、僕が?」
タリニウスは微動だにしない。
そのとき、誰も予想しなかった激しい声が、突然、重い空気を切り裂いた。
「あたしが悪いとでも言うの? 冗談じゃないわ! こんな男との結婚を強要したお父様が悪いのよ!」