呪詛の応酬

5.

 その剣幕に呆気に取られ、太守は唖然と、信じられないような面持ちで、一人娘の顔を見た。
 彼が知るアイザは淑やかで愛らしい、口答えなどしたこともないような、おとなしい娘だったのだ。
「お父様がタリニウスとの結婚を言い出しさえしなければ、こんな騒ぎにはならなかったはずだわ!」
 驚き呆れ、太守はおろおろと別人になったような愛娘を見つめた。
「お、おまえはタリニウスとの結婚が嫌なのか? おまえのためを思って選んだ男だ。私の部下の中でも彼ほど優秀な者はない。部下に対する思いやりもあり、誠実で真面目な男だ。いったい、何が不満だというのだ」
 アイザは屹と父親を睨んだ。
「あたしはまだ十七なのよ! 十五歳も年上の、しかもこんな冴えない醜男と結婚するなんて、真っ平ご免だわ!」
 口を開けたまま、太守はたじたじと絶句した。
 言うべき言葉も見つからない。
「……これでお解りでしょう?」
 冷ややかに父娘のやり取りを見守っていたユリウスが、風のように言った。
「お嬢さんも秘書官殿もこの結婚には反対だった。しかし、あなたはそれに気づかなかった。……気づこうともしなかった。多分、二人ともあなたを恐れて口に出すことができなかったんでしょう」
「お──しかし──アイザはともかく、タリニウスに異存のあろうはずがない。タリニウスにアイザを嫌う理由がどこにある。アイザは若く美しい。富も権力もある。彼にとってこれ以上の妻が見つかろうか」
 ユリウスは眼を閉じて首を振った。
「まだお解りでない。美や富や権力が何になる? それで秘書官殿が喜ぶと本気でお考えか。僕にはそんなものが彼女の欠点の代償になるとは思えないな」
「欠点?」
 太守が怪訝な声を出した。
「アイザはできた娘だ。この子にどんな欠点があるというのだ」
 ユリウスがちらと秘書官のほうを見ると、彼は正面の太守に真っ直ぐでひたむきな視線を注いでいた。
 やがて、決心したように火のような視線で上官を凝視し、決然と重い口を開いた。
──閣下。閣下はお嬢様の交友関係を全て把握してはおられますまい」
 アイザの眼が屹となった。
 彼女は怒りに顔を紅くして、憎悪の眼で許婚者を見た。
「何を言い出すのだ、タリニウス。だからどうだというのだ」
「では、お嬢様が幾人の情人をお持ちかも、おそらくご存知ありますまい」
 かっとなった太守は思わず腰を浮かせ、拳を卓子に叩き付けた。
「無礼だぞ、タリニウス! 可愛がってやった恩も忘れ、言うに事欠き、私の娘を侮辱するとは……! 許さぬ」
「マリウスという神官をご存知でしょう、閣下」
 タリニウスは低い声で言葉を続けた。
「二ヶ月ほど前でしたか、彼は私に面会を求め、アイザ嬢との婚約を破棄してくれと頼みに来ました。彼はアイザ嬢と愛を誓い合い、すでに契りも交わしたと──そう私に言いました。それも、アイザ嬢のほうから愛を打ち明けられたのだと」
「馬鹿な! それはマリウスの口からのでまかせだ。奴は私にもそう言いおったが、それが真実のわけはない。あやつは自分の罪の重さを身をもって知ることになった」
 一同は、ふと太守のその不吉な言葉に耳をとめた。
「身をもって……?」
「私がこの手にかけたのだ」
 タリニウスばかりか、アイザまでもが眼を見張って、父を見た。
「お父様──まさか、マリウスを──
 ユリウスがふうっと息を吐いた。
「……気の毒なことを」
「何?」
 ぽつりと洩らしたユリウスのつぶやきが、太守の神経を逆なでした。
「マリウスとやらいう神官には何の罪もなかった。その神官に罪があるとすれば、それは多情な女の偽りの心を見抜けなかったことだ」
「そなた、あの神官とアイザとの間に、まさか、約束があったとでも申すのか」
 ユリウスは肩をすくめた。
「さて。でも、あなただって本当のところはご存じない」
 この忌々しい美貌の若者に激しい罵声をあびせようと身を乗り出した太守を、タリニウスが冷ややかに制した。
「さあ、僕は失礼しようかな」
 軽く言って、そのまま流れるようにユリウスは部屋を横切った。
 アイザが複雑な視線で黒衣の背を追ったが、もはやこの場への興味を失ったように、金髪の若者はあっさりと部屋を出た。
 黒い風のように、訪れ、去っていく彼。
──閣下。私は大金を払い、魔道士シャルゲルにお嬢様の身辺を探らせました。シャルゲルという男、評判は悪いが、決して客を裏切ることのない人間です」
 秘書官タリニウスは、そして、魔道士シャルゲルが彼に報告したアイザの素行──それと同じ内容を太守に語った。
 彼女がお忍びで出歩く先々のいかがわしい店。彼女の幾人もの男友達──つまり、情人たちの目録である。その中には神官マリウスの名前もあった。
「嘘だ!」
 全てを聞き終わり、震える声で太守は叫んだ。
「みな、でたらめだ! アイザはそんな娘ではない」
「これは真実です。シャルゲルの報告を受けたあと、私自身の目でも確かめました」
 太守は打ちのめされたように一人娘を顧みた。
「嘘だろう、アイザ……?」
 二人に背を向けるようにして立つアイザは微動だにしない。
「アイザ、嘘だと言っておくれ──
 タリニウスが静かに立ち上がった。
 飄々とした表情である。
「ここまで包み隠さず申し上げましたからには、閣下は私がお嬢様の婿になることをお望みにはなりますまいし、私もそれを望みません。秘書官の職を解かれることも覚悟しております。婚約話が持ち上がったその日から、私はお嬢様からの数々の侮辱に耐え忍んでまいりました。しかし、それにも限界があります」
 彼の醜貌に、一種、威厳のようなものが漂っていた。
「未来の妻となる女性から容姿を馬鹿にされ、その上、彼女は日々他の男との乱交に明け暮れているのです。ですが、それをそのまま閣下に申し上げるわけにもいきません。私にどのような選択肢があったというのでしょう? 私とお嬢様とでは、閣下がどちらの言い分をお信じになるか、火を見るより明らかです。私はお嬢様を憎みました。そして、どうしようもない心の行き場を失ったまま、お嬢様の呪殺を魔道士に依頼したのです」
 秘書官の口許に淋しげな自嘲がそっと刻まれた。
「お嬢様さえいなくなれば、私の心は解放される──やすらぎを得られると、愚かにも、そう思ったのです。シャルゲルには、呪殺だと疑われないよう、時間をかけて事を進めてくれるように頼みました。……残念です。でも、これで私はやっと自由になれる。私のような者に目をかけてくださった閣下のご恩は忘れません」
 太守に向かって一礼し、タリニウスは静かに応接の間の扉を開けた。
 しんと冷えた空気が重く沈殿している。部屋を出るとき、ふと振り返ってみたが、誰も石のように動かなかった。
 ──扉が閉じられた。

 アプア街道に旅人の姿は疎らであった。
 今にも雨になりそうな雲行きである。
 街道を行き交う人々の中に、巡礼の黒衣に身をかためた美貌の若者の姿があった。
「また、雨に閉じ込められるかな」
 憂いをこめてそうつぶやいた若者の足が、ふっと止まった。
「青珠、出てきてくれないか」
 独り言のようなささやきを洩らしたとき、彼の背後に、碧羅をまとった清楚な姿がふわりと浮かび上がった。
 青い石の精霊の気配を感じ、ユリウスはその美しい瞳をわずかに伏せた。
「青珠、僕は、この町に来ないほうがよかったのかな」
 鮮やかな青い色の瞳と薄らかな蒼い色の髪を持つ精霊は、そっと地に降り立った。青珠は淡くユリウスの金髪の背を見つめた。
 無言だった。
 その瞳が、なぜ──と問いかけていた。
「僕がこの町へ来なければ──太守のおふれなどに気がつかなければ──全てはまるく収まったんじゃないかな」
「……どうしてそう思うの?」
「全てを白日のもとにさらす必要があった?」
 ユリウスは振り返って青珠を見た。
 深い碧色の瞳に哀しみの色はない。純粋に、あるがままの事実を見、真実を見ようとする色だ。
「僕が余計な手出しさえしなければ、秘書官は目的を達することができた。太守は娘の本当の姿を知ることはなかった。魔道士や神官は死なずにすんだ」
「でも、娘は死んだわ」
「一人が不幸になるのと、全員が不幸になるのと、どちらが正しいと思う?」
 いつしか、黒い叢雲がじわじわと天空を覆いつつあった。
「この世に正しいことなんて、ない」
 と、青珠はゆっくりと言った。
「この世に起こる幸も不幸も、正も邪も、全て神の気まぐれで決まる。あなたの運命もまた、然り。あなたは自らの生命を神の御手に委ねたはずよ」
「解ってる。ただ──僕の周りでは、人がよく死ぬ」
 銀の腕環をはめた華奢な手が、ユリウスの白皙の頬にふれた。
「時代が病んでいるの。あなたが思いわずらうことはない。ただ、あなたは時代に敏感なだけ。心のままに、生きればいい」
「……僕は、妖霊星のもとに生まれた」
 髪に、肩に、天空から振ってくる雨粒が、次第に強く、激しくなり、街道を行く人々を追い立てた。
 静かに首を振り、青珠はユリウスの肩を抱き寄せた。
「わたしがあなたのそばにいる。心配しないで。あなたの行いを、あなたの生きざまを、全て、わたしが見届ける」
 天地を黒くぬりこめるような、激しい雨になった。
 雨は、銀の紗のように、地にある全てのものを覆う。
 街道からは瞬く間に人が消え、遠く、淡く、ひっそりと、影絵のような二人の輪郭だけがそこに残った。

≪ prev  Fin.