湖に捧ぐ
1.
「あなたのようなお若い方が、巡礼の旅とは感心ですな」
拝殿の神像の前にひざまずく金髪の若者が、祈りを終えて立ち上がったとき、不意に声がかけられた。
「何かの願掛けですかな? まさか、巡礼僧ではありますまい」
屈託のないやさしい声である。象牙色の僧衣をまとった温厚なその姿は、この神殿の祭司であった。
慈父のような笑みを浮かべる初老の祭司に一礼し、若者は微笑を返した。
淡い金髪が麗しいその若者は、漆黒の衣裳に漆黒の外衣という出で立ち、髪にも漆黒の布が巻かれている。
それは、巡礼の装束であった。
「僧ではない、ただの巡礼者です。ただの巡礼に理由はありません」
幻のようなその微笑み。満月のようなその美貌。
左の耳にだけ揺れる、紺瑠璃を嵌めた燻し銀の耳飾りが鈍く光を放った。──ユリウス。
「ほう……理由なき巡礼ですか」
「ところで、祭司殿、銀の街道への近道だという湖は、この近くですか?」
祭司は思わず眼を見張った。
「湖を渡られる? いや、それはやめたほうがよい」
「なぜです」
「確かに、アプア街道から銀の街道へ出るには、この先の村から湖を渡るのが最短の道程じゃが、それは危険すぎよう」
「危険?」
「神隠しに遭われますぞ」
ユリウスの眼の表情がちらと動いた。
「あの湖は、アウネリア湖といいましてな。この地方の神代語で“涙の池”という意味です。その名の所以は、太古、黒い巨人の涙が湖になったという言い伝えによります。それが今では、人間の涙を吸う湖になりましてのう……」
その先の言葉を続けたものか、祭司は迷っているふうであった。
目の前の静かな美貌に変化はない。
「それというのも、ここ一、二年、銀の街道へ行くために湖へ出た旅人が何人も姿を消しておりましての。無人の船だけが船着場へ戻ってくる。この辺りの民は、皆、一様に湖の主の所業だと言うておる。湖の主を恐れて、ここらへ来る人も少のうなった。最近では、主を鎮めるため、近隣の村人たちが月に一度の人身御供を捧げておるのじゃが……」
「で、主は鎮められたのですか?」
沈痛な面持ちで、祭司は首を横に振った。
「船は?」
「あるにはある。訪れる旅人も皆無ではないからの。しかし、湖へ出た者は皆、行方知れずじゃよ。どの者の消息も、あの湖の上でぷっつりと途絶えておる」
「そうですか」
「悪いことは言わぬ。おやめなされ」
微笑した美しき巡礼者は、無言で祭司に一礼し、神殿をあとにした。
「……どう思う?」
小さな神殿の建物を出てから、歩きながらユリウスは訊いた。姿なき声が煙るようにそれに答える。
<湖の主がいるとは聞く。でも、それが故なくして人間を襲うなんて、ありえない>
「やっぱりね。じゃあ、神隠しは人間の仕業かな」
ふと、足が止まった。
ユリウスの前に小さな影が立ちふさがったのだ。簡素な旅装束に身を包んだ、まだ幼い童女であった。
「あの、湖のある村は、どっちですか」
十歳に満たないと思われる。
ひたむきな茶色の瞳がじっとユリウスを見つめた。
「あっちだよ。この道をまっすぐ行けば、湖畔の村に出られるはずだ」
「ありがとう」
にこっと笑って、童女は寂れた村の一本道を駆けていった。
無表情に、だが、いくぶん物憂げに、その後ろ姿をユリウスは見送った。
<どうかした?>
「……ディリスに、ちょっと似てたかな」
口許に翳のような微笑を漂わせ、ユリウスは見えない使い魔を振り返った。
「行くよ。湖を渡る」
湖に面したその村は、想像していたよりも小さな、小さな村であった。
かつては豊かに暮らしていたであろう面影をそこここに残し、今は、ただ小さな神殿を除いて人の住む気配は全くない。
村は、森閑としていた。
ユリウスは村の神殿を訪ねた。
ここだけは、曲がりなりとも人の手で管理されている形跡がある。
神殿の建物は古びているが、雑草がはびこることもなく、質素ながらも小奇麗さが保たれていた。
「旅のお方かな」
突然、声をかけられて、ユリウスははっとした。
振り向くと、そこに、僧衣に身を包んだ祭司の姿があった。
薄い灰色の髪をした、浅黒い肌の、痩せぎすの男であった。
いつから、そこにその祭司がいたのか、全く気がつかなかったことに、ユリウスは軽い驚きを覚えた。
「その装束、巡礼のお方ですな」
ユリウスはうなずいた。
「湖を渡ります。あなたがこの村の神殿の祭司殿ですか?」
祭司──数々の儀式を司る役目を担う神官と、その資格を持たない神官との違いは着用する僧衣の色や形で容易に区別がつく。
「左様」
「船を頼むには、どこへ行けば?」
「今日はもう船は出ません。今夜はこの神殿にお泊まりなされ。明朝、一番に船を出させましょう」
六十近いと思われる痩身の祭司は、影のように言って、微笑した。
「村に宿は?」
「ご覧の通り、この村には人が住んでおりません。神隠しの噂はご存知でしょうな。その噂のため、村人は皆、湖の主を恐れて村を去りました」
「……」
「今ではもう、わずかに、この神殿を守るため、私と、二人の神官がとどまっておるのみです」
灰色の髪の祭司は踵を返し、肩越しにユリウスを振り返った。
「さあ、どうぞ。何もない、さびれた神殿ではありますが……」
ユリウスは僧房に通された。
「なにぶん、小さな建物ですので、他の方々と同じ房で、ご勘弁くだされ」
通された部屋には、五人の先客がいた。
いずれも粗末な木の椅子に座る男たちは、ある者は卓子の上に突っ伏し、ある者はぼんやりと窓の外の景色へ目をやり、心ここにあらずといったていで、部屋に入ってきたユリウスのほうを見ようともしない。
「この人たちは神官ではありませんね」
「ええ。あなたと同じ、湖を渡る旅の方です」
「旅人?」
ユリウスは思わず祭司を顧みた。
「神隠しを恐れ、村人でさえ逃げ出したこの湖を渡ろうとする旅人が、まだ、こんなにいるのですか」
「そう言われるが、あなたとて、そうした旅人の一人なのではありませんかな? 驚くには及ばぬでしょう」
「……それはそうですが」
「もちろん、平常の旅なら、皆、遠回りをしてでも陸路を選びます。ここを通るのは差し迫った用で旅路を急ぐ者だけです。かといって、神隠しへの恐れがないわけではない。ご覧なされ。どの者も、酒で恐怖をやわらげたいのですよ」
再び男たちを向いたユリウスの瞳が、卓子の上にだらしなく散乱した杯と、床に倒れた酒壺を映した。
まだ日は高いのに、男たちはすでに酔い潰れているらしい。
「……止めないのですか」
物憂げに、ユリウスは低くつぶやいた。
「そんなにまでして湖を渡ることはない。神隠しに遭うことが判っていて、急ぐ旅もないでしょう。陸路を往くよう、この人たちを説得すべきだ」
「それは私が口をはさむことではありませんな」
「なぜ? 渡航を禁じればいい」
「お若い巡礼の方、私にはそのような権限はないのですよ。私は、ただ、ここの神殿の管理と、そして月に一度の人身御供の祭式を任されているだけです」
「……」
「気になさることはない。どうしようもないのが現実です。そう、あなたも酒を召し上がりますかな?……ああ、遠慮は無用。夕食時に届けさせます。お疲れでしょうから、まずはゆっくりおくつろぎなされ」