湖に捧ぐ
2.
傾いた太陽が涙の湖に沈もうとしている。
夕食までの短い時間、ユリウスは湖の岸を散策して歩いた。
湖上の彼方から吹く夏の風が心地好い。
北西から南東へ長く伸びる大きな湖の、この地はちょうど真ん中あたりになる。この地から対岸までの距離が、最短で湖を渡る道程であった。
気がつくと、そこに童女の姿があった。ユリウスに道を尋ねた、あの娘だ。
ユリウスを認め、茶色の眼がにこっと笑った。
「君も、湖を渡るの?」
童女はこっくりとした。
「一人で?」
「そう」
「名前は何というの」
「ココ」
「いい名だね」
童女は再びにっこりした。
「なぜ、一人なの?」
ユリウスがこのように他人に関心を持つことは珍しい。けれども、幼いココは無邪気にユリウスを見上げて答えた。
「ココは一人なの。父も母もないの」
「一人で旅を?」
ユリウスの瞳に、見分けられないくらい微かな感情の光が動いた。
「そう、兄様を捜しに」
「にいさま?」
「旅に出たまま、帰ってこないの。湖を渡るという手紙が最後だった。きっと、兄様は湖を渡った町にいるのよ。だから、ココが行ってあげるの」
神隠しの犠牲者がここにもいた。
「見つかるといいね。……君の兄さん」
ココは嬉しそうに顔をほころばせ、神殿のほうへ向かって、無邪気に湖のほとりを駆けていった。
いつの間にか、傍らに青珠がいた。
「気づいた? ユーリィ」
「何が」
「あの子、獣の匂いがするわ」
その夜、ユリウスはまんじりともしなかった。
渡し船の出港時刻は、まだ朝靄も消えぬ早朝であった。
同じ僧房に宿泊した五人の旅人は、前日の酒がまだ残っているのか、だらしない鼾とともに眠り続けている。
部屋中に不快な酒の匂いが充満していた。
ふと、部屋の扉の向こう側に人の気配を感じて、ユリウスは横たえていた身を起こそうとした。
<駄目、ユーリィ>
そっとささやく青珠の声が聞こえた。
<起き上がっては駄目──眠っている振りを。祭司が来ても、口を利いては駄目>
「なぜ?」
<とにかく、周囲の人間と同じように振る舞って>
「解った」
ユリウスは再び粗末な木の寝台に横になった。と同時に、僧房の扉が開き、この神殿の祭司が姿を現した。
「愚かな旅人どもよ。さあ、出港の時間だ。眼を覚ましなさい」
その声が合図でもあったかのようだ。
正体もなく眠っていた五人の旅人が、まるで夢遊病者のように、ふらふらと、だが一斉に起き上がった。
そして、ユリウスもそれに倣う。
「さあ、歩くのだ。渡し船に乗り込みなさい。すぐに出港する」
ユリウスと、同室に泊まっていた五人の旅人、そして、別室に泊まっていたらしいココの七人が、この日の渡し船の乗客であった。
七人は湖の船着場に集められた。
ユリウスがさりげなくココの様子を観察してみると、彼女もやはり、昨日とは打って変わった生気のない表情をしていた。他の連中と同じく、意識が麻痺してでもいるようだ。
夢遊病者のような足取りと顔つきである。
昨日振る舞われた酒が怪しい──
ユリウスは、思うでもなくそう思った。
酒に何かが混入されていたのだ。人の意識を麻痺させてしまう、何かが──
だから、ユリウスは酒を飲まなかった。
船着場には祭司の部下らしい二人の神官が待機していた。
船は、黒ずんだ木の、あまり手入れもされていない古いものだった。十人ほどの人間が乗り込めるくらいの大きさである。
「今日の獲物だ」
意思のない表情をした、夢遊病患者のような七人の旅人を船に乗り込ませてから、祭司は、部下たちに低い声でそうささやいた。
二人の神官は無表情にうなずき、一人が櫂を持ち、一人が舵を取った。
気味の悪いほどの土気色の肌をした、昏い表情の痩せた男たち。そう──まるで死人のような──
九人の人間を乗せた船が湖面へと漕ぎ出された。神隠しなどという不吉な噂など、嘘のような、青く澄んだ湖であった。
ゆるやかに、船は遠くなる。
靄の中、静かな湖面を滑るように移動していく渡し船の様を、しばらく、一人残された祭司がじっと見送っていた。
「……死出の旅への出港じゃ」
闇のような笑みをひそめ、祭司は影のような身のこなしで奥に退がった。
船の中は、皆、無言であった。
船は、鏡のような湖面を、音もなく滑っていく。
次第に朝靄は晴れ、すがすがしい朝の空気が大気に満ちていた。
湖の色は澄んでいた。
ただ、ギイ、ギイ、という二人の神官が櫂を操る音と、舵を取る音だけが穏やかに響いている。
なめらかに櫂が水を掻く。
どれほどの距離を進んだだろうか。
船が止まった。
「……?」
なぜ止まるのか。
こんな湖の真ん中で。
怪訝に思ったユリウスが二人の神官に声をかけようかと迷ったとき、二人の神官は櫂と舵から手を放し、船の中で立ち上がった。
言葉を交わすでもない。
二人は、無表情に淡々と、こともあろうに手近にいた旅人を、湖の中に放り込んだのである。
「……! 何をするんだ!」
驚いたユリウスは素早く立ち上がり、近いほうの位置にいた神官を羽交い絞めにし、それ以上の行動を阻止した。
しかし、もう一人の神官は二人目の旅人を湖へ投げ入れようとしている。
「やめろ!」
ユリウスは身体を押さえていた神官の首筋を手刀で打って気絶させ、もう一人の神官の凶行を止めに入った。
こんな事態になっているというのに、他の旅人は誰一人として騒ぎはしない。
湖へ投げ込まれた者たちも、わずかな抵抗のそぶりさえ見せなかった。
みな、朦朧と夢の中といった風情のままである。
「なぜだ……? なぜ、誰も意識を取り戻さない」
そのとき、湖面が揺れた。
大きく船が揺れた。
あれほど静かだった湖に大きな波が押し寄せ始めた。
<来るわ、ユーリィ>
「来るって──」
船の中にバランスを保って立っているのが困難なほど、船は揺れ出した。
すでに、四方の視界に陸地の影は見えない。
船を捨て、他の旅人を見捨てて、ここから泳いで岸までたどり着こうとすることも、無謀なことであった。
「そなた、正気じゃな?」
突然響いたあどけない声に、驚いてユリウスは振り返った。
「ココ──!」
「主様のお出ましじゃ。控えておれ」
尊大な口調でそれだけを言うと、ココは、大きく揺れる船の舳先に立った。
「ココ、危ない! 湖に落ちるぞ!」
だが、ココはちらとユリウスのほうを一瞥し、微かに笑っただけだった。
「下りてくるんだ、ココ!」
<ユーリィ、あの子は、すでに人間の子供ではない>
「何……?」
愕然とするユリウスを尻目に、ココは、波が渦巻く湖面に両手を差し伸べた。
ざざ!
と、波が天高く伸びた。
渦巻く波の中心から姿を現したのは、胴回りがふたかかえもあろうかと思われる巨大な水蛇──美しい白蛇であった。
2006.3.6.