湖に捧ぐ
3.
「主──これが、アウネリア湖の主……!」
湖面から二パッススほどの高さにある白蛇の顔を見つめ、船の中に座り込むユリウスはつぶやいた。
白蛇の鮮やかな真紅の眼が、揺れる船とユリウスたち旅人を映している。
「そなたはあの神殿の関係者か? それともただの旅人か?」
ココが振り返り、ユリウスに問いかけた。
「神殿の者ならば、罰を受けねばならぬ。旅の者なら、なぜ、魂を抜かれていない」
「僕は……巡礼の旅の者だ……」
「では、なぜ魂を抜かれず、無事でおる。怪しい奴め──!」
ココの表情と声が険しくなると同時に、波もまた荒々しさを増していった。
激しく揺れる船の中にぼんやりと座っていた旅人が二人、湖に落ちていった。船内にはもはや、ユリウスとココ、そして二人の神官しか存在しない。
「答えよ」
このままではユリウスとて、湖に投げ出されかねない。
戸惑いながらもユリウスが口を開こうとしたとき、舳先に立つココとユリウスの間の空間に、ふわりと青い石の精霊──青珠が姿を現した。
空中に浮かぶ精霊の姿にココが驚きの目を向ける。
「そなた、何者──?」
「わたしは青い石・“青珠”の精霊。青い石の元素は水。青い石は水に属するあらゆる者の核。水の精霊は我が眷属。その青珠に、牙を向けるのか?」
「青い石? 四宝珠の──水の宝珠の精霊か──!」
水域に住む物の怪は水の眷属。水蛇もまた然り。
ココは愕然と眼を見張り、その場に膝を折って、巨大な白蛇を顧みた。
浮揚したまま、青珠は静かに視線をココから巨大な白蛇に移した。
「アウネリア湖の主よ。この巡礼者は青い石の主。そして常人ではない。精霊の言葉も解することができるわ。なぜ、このような振る舞いに至ったのか、自らの言葉で語りなさい」
<青い石の精霊……>
その“声”は、ユリウスの耳にも届いた。
あれほど荒れていた波が、次第に治まりつつある。湖面はもとの澄んだ色と静けさを取り戻していった。
<我はこの湖の主。水蛇の精。アウネリア湖の守り神じゃ>
それは、白蛇の“声”だった。
<普段は湖底にて長の眠りにつき、人間たちの前に姿を現すことなどなかった>
「それがなぜ、湖面に姿を現したの?」
淡々と青珠が問う。
<人間どもの腐乱した屍体の死臭が、我を覚醒させたのじゃ>
青珠はうなずいた。
「それはわたしも気がついていた。この湖に漕ぎ出してまもなく、湖底の死臭が鼻をついた」
「湖底に人間の屍体が?」
今度はユリウスに向かって、青珠はうなずいてみせた。
「かなりの数にのぼるわ」
「……僕には判らなかった」
「わたしは水の珠精霊よ、ユーリィ。たとえあなたでも、水底の臭いに人間が気づかないのは当然のこと」
<とにかく、湖が穢されたまま、黙っているわけにはまいらぬ>
湖底の無数の腐乱屍体。
それが、神隠しの犠牲者たちのなれの果ての姿なのか。
しかし、なぜ?
<湖底に屍体はたまる一方。なぜ、このような事態が起こっているのか、我はそこにいるラクスを調査のため、陸地に送り込んだ>
ココが、ユリウスと青珠を交互に見て、頭を下げた。
「わたくしもまた水蛇の精。主様の側近を務めております」
ココ──ラクスは舳先の上で膝を折った姿勢のまま、陸地で自分が見聞きしてきたことを簡単に語った。
神隠しの噂。
それがアウネリア湖の主の仕業とささやかれていること。
近隣の村人たちの恐怖。
主を鎮めるために執り行われている人身御供の祭式。
「しかし、物の怪の姿では調査にも限界がございます。そこで、わたくしはココというこの童女の身に取り憑いて、行動したのです」
そしてラクスは、神隠しの犠牲者となった全ての人間が、渡し船に乗り込む以前に魂を抜かれ、魂が抜き取られた屍体は、船を管理している神殿の神官たちの手によって、アウネリア湖に投げ込まれることで処分されていた事実を告げた。
「船を頼みに来た旅人は全て、湖畔の村の例の神殿にて、そこの祭司によって、魂を抜かれていたようです」
「ココに憑いてって……ココ自身に負担はかからないのか?」
ユリウスの問いに、ラクスは静かに首を横に振った。
「この童女も、すでに魂を抜かれております」
「……!」
「あなた様に道を尋ねたとき、童女はまだ生きておりました。しかし──あの神殿にたどり着き、夕食とともに出された飲み物を口にした途端……」
「黒幕はあの祭司か」
激しい光を瞳に宿し、ユリウスは唇を噛んだ。
きっと、兄様は湖を渡った町にいるのよ。だから、ココが行ってあげるの──
「しかし、祭司は旅人たちの魂を抜いて、何をしようとしていたんだ?」
「黒幕は祭司ではありませぬ」
と、ラクスは言った。
「祭司は集めた魂を、どこかよその国へ送り届けておりました」
「別の国へ?」
「はい。それは、おそらく、戦争をしている国でしょう」
「戦争を?」
ちらりと青い石の精霊を見たユリウスに、青珠がラクスに代わって答えた。
「一度死した人間に別の人間の魂を入れると、操り人形が出来上がるのよ。そういう高等魔術があるの。兵士の補充にはもってこいでしょう?」
<この美しいアウネリアの湖を利用し、人を殺めて我の所業となし、穢れた魔術の材料を集める輩がいる──許せぬ>
白蛇は怒りにわずかに瞳を細めた。
<ここにおる船の漕ぎ手とて、魂を入れかえられ、虚無に生きておる死人じゃ>
言われて、はじめてユリウスも気がついた。
ここにいる二人の神官の様子は、意思のない、湖に落ちていった旅人たちと同じ種類のものだ。
ただ、違うことといえば、淡々と船を漕ぎ、湖の沖で船を止め、やはり淡々と旅人たちを湖に投げ入れたこと。
彼らにはなすべき事柄があった。
命じられた任務があった。
──彼ら二人の神官は、祭司に操られていた生ける死人だったのだ。
<水の珠精霊よ>
と、アウネリア湖の主は真紅の瞳を青珠に向けた。
<これから、我はラクスとともにアウネリアの湖周辺の人間どもへ報復をする。主と言われるこの若者とともに、避難されよ>
「それはいけないわ。関係のない人間を巻き込んでしまう。あなたは邪神ではない。そのようなことを望むはずがない」
<しかし、我の怒りは治まらぬ>
「主よ。あなたは何をするつもりなんだ?」
<雨と洪水で周辺の村々を壊滅させる。我には容易いこと>
「いけないわ」
と、再び青珠が言った。
「ただでさえ、神隠しの原因があなたの仕業とされている今、そんなことをすれば、さらなる誤解を招くだけ」
<ではどうすればよい。あなた様が、このアウネリアの湖をもとの清浄な湖に戻してくださるとでもいうのか>
「清浄な……湖に……」
ユリウスは湖面を見た。
どこまでも澄んだ色を見せる湖は、とても、湖底に腐乱屍体をはびこらせているようには見えなかった。
<この広大なアウネリアをもとの姿に戻すことは不可能じゃ。このような結果をもたらした人間どもには、思い知らせてやらねばならぬ>
「しかし……被害を受けるのは罪のない人間たちだ。魂を必要とし、その抜け殻をこの湖に捨てさせていたのは、他の国の人間なのだろう?」
アウネリア湖についての神隠しの噂を教えてくれた、穏やかなあの初老の祭司の顔が脳裏に浮かんだ。
あのような罪のない人間が巻き込まれてはならない。
「報復を受けるのは湖に面したあの村の神殿の祭司だけでいい。何とか、この湖を清浄に戻す方法を考えよう」
<しかし──そのようなことは、我の力をもってしても不可能──>
「わたしなら……できるわ」
青珠が静かに言った。
2006.3.15.