湖に捧ぐ
4.
「アウネリアの主よ、わたしに任せて。わたしの力で、湖底の穢れを一掃する」
<そのようなことが……?>
「できる。あなたは人間たちに手を出しては駄目。邪神に身を堕としては駄目。これからもアウネリアの守り神でいるべきだわ」
青珠はふわりと空中へ舞い上がった。
「ユーリィ、あの神殿の祭司はあなたに任せるわ」
「ああ。おまえは?」
「別行動。湖に面したあの村で落ち合いましょう」
「解った」
<水の珠精霊よ。我も参る>
青珠の姿がふっと消え、それを追うように白蛇はその巨大な長い身をくねらせて湖の中へと消えていった。
それを確認して、ユリウスはラクスに向き直る。
「ココ──いや、ラクスか。船をもとの岸へ戻してくれ」
「かしこまりました」
アウネリア湖に面した船着場では、灰色の髪の痩身の祭司が、苛々と湖のほうを眺めていた。
「遅すぎる。神官たちは何を手間取っておるのじゃ」
何か手違いでも?
いや、思い当たるふしはない。
しかし、この胸騒ぎは何だろう?
得体の知れない不安感に身を硬くしていると、眺めている湖の湖面に、細かな漣が立ち始めた。
「あれは──?」
漣は次第に大きくなる。
その中を、早朝、旅人たちを乗せて出向した渡し船が戻ってくるのが見えた。
「おお、やっと戻ってきたか。しかし、この波は尋常ではない……」
不安げに眼を細める祭司の視界に映ったものは、だが、櫂と舵を操る神官二人の姿ではなかった。
彼らの他に、黒衣をまとった人物と、舳先に立つ小柄な人影が見える。そして、神官たちは櫂も舵も握ってはいない。
「なぜだ……? なぜ、神官たちはあやつらを湖に沈めなんだ?」
船はひとりでに進んでいた。
驚きに身動きできない祭司の前に、船着場に到着した渡し船から黒衣の青年がひらりと飛び降りた。
「そなた……魂を……」
「ああ、抜かれていない。酒は飲まなかった」
よろめく祭司に、ユリウスはすらりと抜いた細身の剣を突きつけた。
「覚悟するんだな。おまえのしたことは判っている。アウネリア湖の主の怒りは激しい」
「主……だ、と?」
「湖を渡る旅人が減ると、浮浪者や行く当てのない者たちや、職を求めて僻村から出てきた者たちまで言葉巧みに誘い、集めて、魂を抜いていたそうだな」
「く……」
よろめいて一歩退がった祭司は、懐に片手を入れた。
「おまえが集めた魂を送っている相手は誰だ? おまえは、どこの国の手の者だ」
「……!」
痩身の祭司は、懐から短剣をつかみ出すと、ユリウスに向かっていきなり斬りつけてきた。
しかし、そのようなことで動じるユリウスではない。
「はっ!」
剣の一振りで相手の短剣を弾き飛ばすと、短剣は、渡し船の中の、ラクスの背後に落ちた。
ラクスがすっと祭司を指差すと、ぼんやりと船の中に座っていた二人の神官が、立ち上がり、船を下りて、ユリウスに喉元へ剣を突き付けられている祭司を両脇から押さえ込んだ。
「こら、何をする! おまえたち、気でも狂ったか?」
「わたくしは湖の主様にお仕えする者」
と、ラクスはゆっくりと祭司に向かって言った。
「この神官たちは、今はわたくしの操り人形。おまえは、湖を穢した己の罪を知れ」
祭司は二人の神官の腕から逃れようと身をよじったが、神官たちは祭司の両の腕を、左右の両側からしっかりと押さえ込んでいた。
ユリウスが剣を鞘に収める。
ラクスが、とん、と船の舳先から船着場へと飛び降りた。
「ほら、感じるか? 主様のお怒りを」
そのとき、ひときわ波が高く、激しくなった。
波は、徐々に、だが確実に、激しさを増していく。
まるで、巨大な湖全体がうねっているようだ。
「う……あ……」
ユリウスとラクスは平気だったが、神官たちに動きを封じられた祭司は、恐怖に眼を見開いた。
これほどの高波は見たことがない。
晴れた日の、ここは、内陸の湖だというのに……!
凄まじい地鳴りのような音に、近隣の村々に住む村人たちが、一人、また一人と、湖の見える位置まで集まってきた。
「あれは……!?」
「あの高波──湖の主のお怒りか──」
人々は、恐ろしそうに身を震わせ、ささやきかわしながら湖の様子を見守った。
「皆の者、津波じゃ! 高いところへ逃げろ!」
アウネリア湖が見渡せる丘まで避難した近隣の村人たちの数は、数十人にものぼっていた。それだけ、村人たちのアウネリア湖への畏れは深い。
その中には、昨日、ユリウスがアウネリア湖に面する村への道を尋ねたあの初老の祭司の姿もあった。
「皆の者、無事か。どうやらこれは、主の何らかの意思らしいの」
「祭司様、主様は我々の村をどうするおつもりなのでしょうか」
「判らぬ。今はただ、ここより見ているほかは、何もできぬ」
「祭司様、あ、あの船着場に、人影が……!」
「何じゃと?」
祭司は眼を疑った。
「あんなところにいては危険じゃ。そなたたちはここにいなさい。わしが行って、あの者たちをこちらへ連れてこよう」
「祭司様こそ、危険です」
「しかし、放ってはおけまい」
祭司は、船着場の──ユリウスたちのもとへ向かって、駆けた。
波は、意思を持って動いているように見えた。
暴風などにあおられて湖面が荒れているのではなく、波は、湖底から湧き起こるようにして、うねっていた。
もとより、晴れた穏やかな日、湖水に加わる外的な自然界の力などない。
「そこの者たち、そこにいては危険じゃ! 早う逃げなされ」
船着場までたどり着いた祭司が、ユリウスたちに向かって叫んだ。
ユリウスやラクス、そして神官に動きを封じられて、恐怖に蒼ざめた祭司がその声に振り向く。
「おお、あなたは──昨日、この村の場所をお尋ねになった巡礼の──」
「昨日はどうも」
と、ユリウスは軽く言った。
「青い石の主殿。この人間は?」
「隣村の神殿の祭司殿だ。この方は善良な人間だよ、ラクス」
「いったい何が……? そこに捕らわれているのは、この村の神殿の祭司殿ではありませぬか」
「この村の祭司が、アウネリア湖の神隠しの元凶です」
「なんですと?」
「大丈夫。主の怒りは近隣の人間たちには向けられてはいない。ここにいても安全です。それより、ほら、ご覧ください。神隠しに遭った人たちの、成れの果ての姿を」
「おお──!」
何ということか。
湖の岸に打ち寄せられたのは、大量の人間の屍であった。
まだ人の形を保っているもの、腐乱しているもの、すでに白骨化したもの──
おびただしい数である。
「これらの人間の屍体が、アウネリア湖の底に捨てられていたのです。で、湖底に眠っていた主が腐臭に目覚めを余儀なくされた」
「では……では……神隠しは主の仕業ではなかったということですか?」
「全て、人間の仕業です。詳しいことは、そこにいるこの村の神殿の祭司が説明してくれるでしょう」
そのとき、がっ! と、異様な音がした。
驚いて振り返ると、二人の神官に両腕を押さえられていた祭司が大量の血を口から吐き出し、その場に崩れ落ちるところだった。
「しまった……! 舌を噛んだか──」
「己の罪の重さに耐えかねたのでしょう。もしくは、死へ逃げたか。主殿。人間たちへの説明は、わたくしが」
隣村の祭司の眼が問うようにラクスを見た。
「わたくしはアウネリアの主様に仕える者。水蛇の精です。今回の一連の出来事は、全て人間の仕業。主様はアウネリアが穢されたことを嘆いておられます。そして、この巡礼の若者の力を借りて、今、アウネリアを清浄化しているのです」
「しかし、このおびただしい屍体の山を、いったい、どう処理すればよい?」
そのときだった。
岸に打ち上げられた大量の屍の山のあちこちに、ぽっ、と炎が点った。
と、見る間に炎はその勢いを増し、屍体の山を包み込むような火勢となった。
「何だ?」
「今度は火の手が──!」
アウネリアを見渡せる丘の上の村人たちから驚きの声が湧きあがった。
2006.3.21.