湖に捧ぐ
5.
炎は全てを焼き尽くした。
アウネリア湖の湖底深くに沈んでいた穢れたもの、全てを。
ただの炎ではない。
精霊の操る火だ。
神隠しの犠牲者たちは、骨も残さず焼き尽くされ、煙となって空へと昇った。
「おお……火が──自然に鎮火していくぞ」
「おい、みんな、あれを見ろ!」
波も火も治まった澄んだ湖面の沖合いに、美しい巨大な白蛇の姿があった。
白蛇は、湖の中から半身を現し、遠目に人間たちの様子を見守っているようだ。
人間の眼には見えなかったが、霊体となった青珠が、アウネリアの主の傍らに浮遊していた。
青珠が主に語りかけた。
<火は全てを浄化する。これで、あなたのアウネリア湖も、完全に浄化されたわ>
<かたじけない。何か、あなた様に報わねばならぬ>
<それでは、波を操って、わたしとユーリィを湖の対岸につけてちょうだい>
「主様! あれはアウネリアの主様だ!」
「主様のお怒りが解けたぞ!」
村人たちは歓喜の声を上げ、丘を駆け下り、湖の畔まで近寄ってきた。
もう、神隠しや主の怒りを怖れる必要はない。
平和な生活が戻ってきたのだ。
船着場からその様子を見ていたユリウスは、身を翻すと、一人、渡し船に近づいていった。
そして、顔だけをラクスのほうへ向けた。
「アウネリア湖はもう大丈夫だね。ラクス、祭司殿、お別れです」
「お待ちあれ、巡礼の方。あなたは何者なのです。ただの巡礼者ではないとお見受けしたが?」
ユリウスはただ微笑んだだけだった。
「どこにでもいるただの巡礼者ですよ。それでは、祭司殿。お達者で」
ユリウスは身軽に渡し船に乗り込み、ココの姿をしたラクスに向かって言った。
「ラクス、あとは、主の側近である君の仕事だ。祭司殿や村人たちには、君から全てを説明してくれ」
「はい。主様の御心に平穏が戻ったのも、あなた様と青い石の精霊のおかげ。わたくしからもお礼を申し上げます」
「主が僕たちを対岸まで送ってくれると青珠が言っている。これで貸し借りなしだ」
ラクスはユリウスに向かって、深く一礼した。
船のほうへ一歩踏み出しかけた祭司が何か言おうとしたとき、櫂を持つ者もいない渡し船が、すうっと湖へ滑り出た。
「おお──」
驚く祭司に頭を下げ、船の中に座るユリウス。
船は、そのまま、アウネリア湖の湖面を滑るように流れていった。
湖岸が見えなくなった頃、渡し船の中に青珠が姿を現した。
「ご苦労だったね、青珠」
「いいえ。水の眷族の窮状を放置することなどできないわ」
「でも、謎がひとつ、残った」
「ええ。本当の黒幕が何者なのか、でしょう?」
そのとき、ユリウスは座っている足許に何かが落ちているのに気づいた。
「なあに、それ?」
「湖に面した村の神殿の祭司が持っていた短剣だ。あの祭司は何も語らず、舌を噛んで自害した。……まあ、おまえのことだから、全てお見通しだろうけどね」
拾い上げた短剣の柄の部分に視線を落としたユリウスの眼がわずかに細められた。
「──青珠、これ……」
「ユーリィ、この紋章は──」
それに目を留めた青珠の表情もわずかに強張った。
「黒曜公国の紋章だ」
「クスティア地方の新興国ね」
クスティア地方──その地にあった、黒曜公国に滅ぼされたクスティ王国こそ、ユリウスの生まれ故郷であった。
「黒曜公国の君主、あの、黒曜公が関わっているのか……?」
短剣の柄に描かれていたのは、ペンタグラムと金牛の紋章であった。
呪術的な意味合いを持つペンタグラムと、黒曜公国の紋章である金牛のシルエットの組み合わせ──
漠然とした不安な思いに駆られて、二人は顔を見合わせた。
空は青い。
水も清く、澄んでいる。
なのに、この不吉な感じは何だろう。
船の中、持参していた携帯食で簡単な食事を取るユリウスの傍らで物思いにふけっていた青珠が、ふと、主のほうを顧みた。
「今の世が“沈黙の時代”であることは知っているわね」
「ああ」
「では、沈黙の時代の次には、何の時代が来るのかも?」
ユリウスははっとした。
「“目覚めの時代”──!」
大陸暦元年から大陸暦一〇一九年になる今日に至るまでを“沈黙の時代”と称する。
沈黙の時代以前、大陸は強大な力を持った四人の魔神に支配され、朱羽暦が施行されていた。
その時代を“四帝時代”という。
四帝時代は約三百年の歴史を築いたあと、崩壊した。
いまや神代と呼ばれ、神話的に語られる四帝時代の崩壊のきっかけとなった三十年戦争や、その後、大陸に施された“沈黙の封印”について、詳しい経緯を知る者はいない。
ただひとつ、現在の人間中心の世界となった根源に、“沈黙の封印”が施されたという事実があるのみだ。
それまでの世界──魔神の支配する四帝時代は魔人や魔物、物の怪が横行する、人間にとっては決して住みやすい世界ではなかった。
そういった魔に属するものたちが封印された。
それが“沈黙の封印”であり、“沈黙の封印”によって時代の節目になった年が、大陸暦元年なのであった。
そして、今。
沈黙の時代を人々は生きている。
「まさか、青珠、目覚めの時代の到来が近いのか?」
“目覚めの時代”──それは、現在の世界の人々の生活を百八十度くつがえしてしまうほどの意味を伴った時代を意味する。
神代を支配した、魔神、魔人、魔物たちの目覚めが訪れたとき、現在に生きる人間の生活はどうなるのか。
それら魔に属するものたちの封印が解かれたとき、人間は、大陸の支配者の座から当然のように蹴落とされるであろう。
四帝時代に、時代が逆行する。
「“沈黙の封印”が解かれたんだわ……」
「沈黙の封印が?」
青珠はうなずいた。
「このような物の怪たちは千年以上も昔に封印されているはず。それが眠りから醒めて動き出しているということは、封印が解けたんだわ」
「しかし、沈黙の封印は自然に解ける封印ではないはずだ」
「ええ。誰かが、人為的に封印を解いたのよ」
「……」
「そうでなければ、アウネリア湖の主にしたって、腐臭くらいで目覚めるはずがない。沈黙の封印が解かれているからこそ、いとも容易く、目覚めて動き出すことができたのだわ」
ユリウスは、碧い瞳に湖面を映して、湖を見つめた。
「沈黙の封印を解くほどの者となると、よほどの魔力の持ち主だな」
「ええ。常人には不可能ね」
沈黙の封印が解かれたとしても、魔物たちが完全に目覚める目覚めの時代が訪れるまでは、あと何年か──あるいは何十年かの年月が必要だ。
今日明日、沈黙の時代から目覚めの時代に移行するということはないだろう。
しかし──
時代が変わってしまうのだろうか。
だが、ユリウスにとって、それは大した問題ではなかった。
時代が変わるなら、変わってしまったその時代をただ生き抜けばいい。
「ユーリィ、何を考えているの?」
「……別に」
携帯食を片付けて、ユリウスは船が進む方向を見た。
「青珠、岸だ。ほら、向こうに霊峰群が見える」
渡し船を下りたユリウスと青珠が振り向くと、数十パッスス先に、白蛇が湖よりその姿を現していた。
<お元気で>
「ありがとう」
「さようなら、アウネリアの主」
白蛇に向かって大きく手を振り、ユリウスと青珠は踵を返して陸を歩き出した。
誰も乗っていない船が、湖を滑るように、対岸の村へと帰っていった。
大陸の主要街道のひとつである銀の街道へ到達したとき、ユリウスはそのまま街道を横断しようとした。
「銀の街道を行くのではないの?」
「気が変わった。このまま、霊峰群を南下しよう」
銀の街道を東へ行けば、都市国家・ハザント市国。
西へ行けば、やはり都市国家のレアテ市国へたどり着く。
ユリウスの言う通りに進めば、山脈に入る。
それは、多くの神々の聖地とされる、大陸最高峰を含む山脈だった。
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2006.4.3.