幻の村

1.

 霊峰群──
 それは、大陸中央部であるネフタ地方に位置する、大陸最高峰を含む山脈地帯のことをいう。
 その名の由来は、アウネリア湖の南に連なるこの山岳地帯一帯が多くの神々の聖地とされることからきている。
 山には神霊が宿る。
 そんな古代信仰から、高い山は霊気を宿し、山々が集中する山脈は神に近い神聖なる場と見なされているのだ。
 そんな山脈にも街道は敷かれている。
 巡礼に訪れる敬虔な人々が多いからだった。
 商業が盛んなことから自由都市と異称されるハザント市国まで銀の街道を行くと、そのハザント市国の中心市から霊峰群の中へ、ヴァレシナク街道と呼ばれる街道が伸びている。
 また、巡礼以外にも、ネフタ地方からアルデリア王国へ行くには、この街道を通るのが近道だった。
 しかし、今、ユリウスはハザントまで行かず、ヴァレシナク街道よりやや西の方角の登山口から山に入った。
 ユリウスが選んだ道は整備された街道ではない。
 一般の人間にはかなり険しい、山に慣れた人間のための、それは巡礼者のための道だといえよう。
 ユリウスが霊峰群に入るのは初めてである。
 しかし、彼に不安はなかった。
 彼の傍らにはいつでも青い石の精霊・青珠がいるし、道に迷えば、そこにいる樹木の精霊や、草花の精霊、また風の精霊たちの声を聞き、正しい道を知ることもできるからだ。
 険しい道をたどることもまた、巡礼をする者としての当たり前の試練だとユリウスは考えていたのだった。

 夏だというのに、山の中は涼しげだった。
 山道さんどうのあちらこちらに小さな祠があり、さまざまな神が祭られている。そのひとつひとつに祈りを捧げながら、ユリウスは細い山道を登っていった。
 道は鬱蒼とした森の中を続く。
 ユリウスは、先日のアウネリア湖での事件を思い返しながら歩いていた。
 自害した祭司が持っていた短剣。
 それに描かれていた黒曜公国の紋章とペンタグラム。
 祭司は、黒曜公国の手の者だったのだろうか。
 ペンタグラムまでが描かれていたということはどういうわけだろう?
 ペンタグラム。
 魔道に使われる印。
 あの祭司は魔道士だったのか。
 旅人たちの魂をその手で抜いていたのだから。
 そして、黒曜公国。
 それは、数年前に突如興った新興国であった。
 戦争によって小国三国を瞬く間に滅ぼした裏には、魔術を使って兵士を補充していたという戦力の秘密があったのか。
 ということは、黒曜公の名で呼ばれる黒曜公国の君主もまた、魔道を扱う人物であるのだろうか──
 考えれば考えるほど、謎は深まっていくような気がした。
 ふと、妙な違和感を感じて、ユリウスは立ち止まった。
「青珠」
 呼んでみた。
 しかし、透き通ったやや低めの声は返ってこなかった。
「青珠?」
 姿は見えずとも常に彼のそばにいるはずの青い石の精霊の返答はない。
 はっとして、ユリウスは周囲の景色を見廻した。
 鳥の声がする。
 木々のざわめきが聞こえる。
 しかし、大気、風、また樹木や草花の精霊たちの声を聞き取ることができない。
 その気配さえ、感じ取れない。
「青珠、どこだ?」
 胸騒ぎを覚えて、再び使い魔の名を呼んだ。
 だが、やはり、返事はない。
 青い石の精霊の気配もまた、ユリウスは掴むことができなかった。
 青珠の気配が掴めないなんて──
「こんなことは初めてだ──
 呆然とつぶやくユリウスの声だけが、山中の、深い森の中に大きく聞こえた。
 ユリウスは左耳の耳飾りに触れてみた。
 精霊の宿る青い石は、確かにここにある。
 しかし、青珠はいない。
 ため息をついたユリウスは、しかし、悲観はしなかった。
 ここは霊峰群だ。
 山脈の霊気が、何かに作用を及ぼしているのだろう。

 霊峰群に足を踏み入れてから最初の夜を山中で野宿したユリウスは、朝のまぶしい光を瞼の裏に感じて眼を覚ました。
 森の中でも、陽は差し込んでくる。
「青珠」
 しかし、ユリウスの呼びかけに応える声は、やはりなかった。
「おかしいな。霊峰群の霊気と精霊の力が相性が悪いなどとは聞いたことがないが」
 魔神が大陸を支配していた神代、強い霊気を有するこの山脈地帯は、人間たちの主な生活の拠点となっていた。
 ここが魔性のものを近づけさせない霊場であったからだ。
 しかし、万物に宿る精霊は魔性ではない。
 霊峰群との相性が悪いはずがなかった。
 現に、霊峰・シュクナ山では、至る所に精霊の声が満ちていた。
「青珠に……何かあった──?」
 ユリウスは漠然とした不安を覚えたが、それでは、なぜ、この山に住む精霊たちの声や気配すら感じ取ることができないのか。
 ため息をつき、それでも、ユリウスは普段と変わらぬ行動を取る以外に術はなかった。
 携帯食で簡単な朝食を取り、荷物をまとめ、歩き出す。
 青い石を身に付けている限り、青珠の帰る場所は己のもとだ。
 それを信じるしかない。

 両側を険しい断崖にはさまれた道に出た。
 道幅そのものは広いほうだが、左右にそびえる岩壁の高さが圧倒的だ。
 ふと、その岩壁の一部に、レリーフが刻まれていることにユリウスは気づいた。
 二つの顔を持つヤヌス神の姿と、そして、ヤヌス神の両側にアーチ型の門がある。
(過去の門と、未来の門……)
 巡礼者の作だろうか。
 粗削りだが、岩壁に刻まれた神の姿は雄々しく、見る者に畏敬の念を与えた。
 門の神・ヤヌスは、ユリウスにとって特別な神だ。
 彼はそのレリーフの前にひざまずき、祈りを捧げた。

* * *

 ぱらぱらと小石が崩れ落ちる音がして、ユリウスはふと顔を上げた。
(過去の門が──?)
 片方の門が刻み込まれている岩壁の一部が崩れたように思えた。
 だが、気のせいだろうか。
 次の瞬間、ユリウスは知らない場所にいた。
 ここにあるのは、岩壁に刻まれたレリーフではなく、廃墟のような神殿だ。
 石畳の間には草が生え、広い回廊のような場所に、彼は一人で立っていた。
 左右にアーチ型の大きな石の門がある。
 ただし、片方の門は崩れ落ちていた。
(……ヤヌス神殿? なぜ)
 よりによって、青珠の気配が掴めないときに起こった突然の出来事に、ユリウスはひどく狼狽した。
 けれども、自分に言い聞かせる。
 この霊峰群は特殊な霊気を帯びた場所なのだ。
 大丈夫。
 神を信じ、己を信じろ。
 ──大丈夫、対処できる。

 神殿を出たユリウスは、ここが村の外れであることを知った。
 だが、何かがおかしい。
 小さな村だったが、こんな険しい山の中に存在するはずもない、その村は平地にあったのだ。
(幻影?)
 ともすれば、山の霧が幻を見せることをユリウスは知っている。
 ブロッケン現象のようなものだろうか。
 それにしては、何もかもがはっきりとし過ぎているが。
 神殿を出て振り返ると、ユリウスが出てきた神殿の後ろがすぐ山であり、崖になっていた。
 ユリウスは村落の民家のほうへと足を向けた。

 一軒の家の前に立ち、扉を叩こうとすると、家の裏手から、水を汲んだ桶を手にした中年の女性が歩いてくるのが見えた。
「あの……」
 その女性に、ユリウスはここはどこかと問い掛けようとしたが、女性のほうは彼の姿にぎくりとして立ちすくみ、恐怖に顔を引きつらせた。
「あ……あんた……まさか、あんたは……」
「あの、巡礼の者です。道を尋ねたいのですが」
「きゃああっ!」
 女性の手から桶が転がり落ちる。
 地面に桶の水がこぼれて染みを作った。
 突然、女性のあげた悲鳴に、村のあちこちから人が出てくる。
「おい、どうした」
「何事だ?」
 水の入った桶を取り落とした女性は、震える指でユリウスを指差した。
「で、出た。出たんだよ」
「なに……?」
 用心深く巡礼の彼を遠巻きにする人々に、ユリウスは呆気にとられた。
 外へ出てきた村の女たちは、子供たちを引き寄せ、恐ろしそうに後ろへ下がり、得物を手にした男たちがユリウスを取り囲んだ。
「黒ずくめだ」
「噂の通りだ。こいつが殺し屋か!」
「そうだ、殺されるぞ!」
「殺される……?」
 ユリウスは唖然とするが、殺気立った人々は、じりじりと彼に迫ってくる。
(殺し屋? なぜ、僕が)
 さすがの彼も、事情も判らず、ただの村人を相手に剣を抜くことはできないでいた。

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2018.4.12.