幻の村
2.
殺気立つ村人たちに取り囲まれ、立ちすくむユリウスは、素早く踵を返した。
「あっ、逃げるぞ!」
「追え!」
とにかくこの場を離れようと、人々の間をすり抜け、走り去ろうとしたとき、ふと振り向いた彼は目の前の光景に違和感を覚えた。
(影が……)
村人たちの足許に、あるはずの影がない。
ちらと空を仰ぐ。
空には、太陽が出ている。
不審に思って、足が止まりかけたとき、ぐいと手首を掴まれ、腕を引かれた。
「っ!」
「こっち」
小さな手がユリウスの手を掴み、強く引いて走り出した
どこをどう走ったのか解らない。
だが、気づけば、彼は村人たちをまき、最初にいた、崩れかけたヤヌス神殿へと戻っていた。
大きく息をついて、ここまで自分を連れてきた少年を見遣る。
十か、十一くらいに見える少年は、軽く息を弾ませて、ユリウスを見上げて嬉しそうに言った。
「殺し屋が黒ずくめって、本当だったんだね」
「え?」
「あんただろう? 長官より偉い人が雇った殺し屋って」
「殺し屋……?」
「あんたが殺したのは、おれの父ちゃんを殺した悪い奴らなんだ。だから、おれも姉ちゃんもあんたに感謝してる」
わけが解らず絶句していると、廃墟になった神殿の奥から、十二、三の少女と、神官の衣をまとった背の低い老人がやってきた。
「駄目よ、ロイ。その人を困らせちゃ」
少女は少年をたしなめたが、彼女もどこか嬉しそうだ。
「殺し屋が自分で自分のことを殺し屋って認めるはずないでしょう?」
「それもそうか」
あどけなく笑う少年と少女を、腑に落ちぬようにユリウスは見つめた。
「あの」
少年と少女、そして老人が、彼の声に顔を上げる。
「ここはどこです。それに、あなた方は?」
少年と少女はきょとんと顔を見合わせた。
「とぼけなくてもいいよ。おれたちがあんたをかくまってあげるから」
「……」
老神官が訝しげにユリウスの美しい顔を見遣った。
「おまえさんが殺し屋だというのは本当かね? なに、役人につき出したりはせん」
村人からも言われたその言葉に、ユリウスは大きく首を横に振る。
「何のことです?」
「その黒衣は……」
「巡礼の装束が何か」
小さな眼を大きく見張り、老神官は、やれやれといったふうにため息をついた。
「エレス、ロイ。どうやらわしらは思い違いをしていたようじゃ」
「ええー?」
「この人は、ただの巡礼者ではないかな」
「でも、黒ずくめ……」
「巡礼をする者は、黒衣で身を固めるのじゃよ」
「でも……」
少年は残念そうにユリウスを見て、尋ねた。
「本当に、殺し屋じゃないの?」
「僕はただの巡礼者だ。名をユリウスという。君たちは?」
「おれはロイ」
「あたしはエレスよ。ロイの姉」
「よろしく、ロイ、エレス」
ユリウスは姉弟に向かって軽くうなずいてみせ、老人を見た。
「あなたは、このヤヌス神殿の神官殿ですか?」
「神殿と言っても、もう、名ばかりじゃがな」
老神官は、哀しげに、どこか自嘲するように、崩れた神殿を見廻した。
「どれ、お座りなされ。説明してあげよう」
拝殿の前の階段に腰を下ろし、ユリウスは神官の言葉を待つ。
辺りは静かだ。
時折り、鳥のさえずる声が聞こえる、さわやかな大気が心地好かった。
「ここも昔は美しい神殿だったのじゃが」
石の階段に腰掛ける神官の向こう側に、ロイとエレスも座り込んだ。
「さて。何から話せばよいものか」
「ここはどこです? 僕は道に迷って、この村へ出たのですが」
「おお、そうか。ここはアトレス山脈の西の端じゃ」
「アトレス山脈ですって?」
ユリウスは愕然となった。
アトレス山脈は、シュクナ山を含む山岳地帯だ。
「巡礼の旅ということは、シュクナ山からアプア街道上のゲヌム市を経て、北西へ進んでこられたのかな?」
「ゲヌム? まさか、ドール王国の首都の?」
「ここはドール王国のカサという村じゃよ」
「そんなはずは……」
ユリウスは驚いた。
ドール王国とは、大陸北部の山間に位置する小王国で、霊峰・シュクナを擁する。
ユリウスの巡礼の旅路は、そのシュクナ山から大陸を南下し、大陸中央部に位置する巨大な湖・アウネリア湖のさらに南に連なる山脈・霊峰群の山中まで進んでいたはずだ。
アウネリア湖を中心にすると、南北、逆の方角にいることになる。
老神官の口から説明されたのは、物理的にはあり得ない地名であった。
「アプア裏街道を行くなら、ドール王国のエヴェ市よりもキサリヤ王国のテート市のほうが近い。キサリヤとの国境もすぐそこじゃよ」
「……そうですか」
ユリウスの顔が曇ったが、彼は気を取り直して神官に尋ねた。
「ところで、僕の黒衣に何か問題でもあるのでしょうか?」
「殺し屋だよ!」
老神官が口を開く間もなく、勢い込んでロイが言った。
「国が雇った殺し屋が黒ずくめなんだ。でも、そんなことはどうでもいい。殺し屋は父ちゃんの仇を討ってくれたんだから」
「仇?」
軽く眼を見張るユリウスとロイを見比べ、老神官はちらと困ったような表情を浮かべた。
「これも説明しなければ判りませんな」
老神官はやさしい眼差しを幼い姉弟に向けた。
「ここは、もとは静かな村だったんじゃが……数年前、銅が採れることが判りましてな。その銅に目をつけた輩が大勢いたのです」
「あたしたちには母がいなくて、父は、銅を掘る仕事をしていました。鉱夫のまとめ役だったんです」
エレスが細い声で付け加えた。
「カサはドール王国の村じゃ。当然、銅山の権利はドールにある。しかし、隣国・キサリヤとの国境が近いこともあって、裏では非合法にキサリヤとも銅の取り引きがなされておっての」
しかも、この地方の長官自ら、その裏取り引きに関与し、私腹を肥やしていたという。
地元の村や町が潤うことはなかった。
地方長官のキサリヤ王国への銅の横流しを黙認できなかったカサ村の鉱夫たちは、その事実を役人に訴え出た。
しかし、確かな物的証拠は何もなく、逆に地方長官から疎まれる結果になった鉱夫たちは、脅され、おとなしく長官に従うか、職を失って村を去るかの二択を迫られた。
他の貧しい村々から、新たな鉱夫はいくらでも雇うことができる。
それでも逆らう者たちは、銅山での事故を装い、長官の息のかかった者たちに始末されていった。
ロイとエレスの父親も、そうして生命を落としたのだ。
「身の危険を感じた鉱夫たちをこの神殿にかくまったことで、神殿まで襲われてしまった。わし以外の神官たちは、そのとき、犠牲になってしまったのじゃよ」
「なんてことだ。神殿を襲うなど──」
ユリウスは私利私欲にかられた輩の横暴なやり方に眉をひそめた。
そして、廃墟といってもいいほどに荒れ果てた、この小さな神殿を見廻した。
「だが、それはいつのことです? この神殿の荒れ方では、すでに何年も……」
「おまえさんは妖霊星を見たかね?」
唐突な老神官の意外な言葉に、ユリウスは驚いて言葉をとめた。
「妖霊星は、災いの前兆じゃ」
遠く、晴れ渡った青い空を見上げる老神官の横顔を、ユリウスはじっと見つめる。
「それは二十年近く前の出来事でしょう?」
「いいや、わしには見える」
「神官様、そんなこと言ってるから、村のみんなに耄碌してるって言われるんだよ」
「ロイったら!」
姉にたしなめられても、ロイは平気な顔で続けた。
「だって、おれたちには見えないもん」
「ヤヌスの神官はみな知っておる。妖霊星が現れるとき、大いなる門が開かれる」
「大いなる門?」
二十年近く前、この世に妖霊星が姿を現して人々を震撼させ、恐怖に陥れた出来事は、ユリウスも知識として知っていた。
だがそれは、あくまでも過去の出来事だ。
「それから、噂が流れた」
老神官は静かに語り続けた。
「長官たちを裁判にかけることが難しかったので、執政に関わるお偉方の誰かが、秘密裏に暗殺者を雇ったというのだ」
「その殺し屋が、黒ずくめなんですね」
「そうじゃ。地方長官をはじめ、黒い噂の絶えなかった者たち数名が暗殺された。皆、心臓を一突きにされてな」
「……」
「そして、不正な利益を失った輩の残党が、腹いせにカサ村を襲ったのじゃよ」
「え?」
カサ村とは、先程、ユリウスが村人たちに殺し屋と間違えられた村ではないのか。
村は一見、平和に見えた。
「もうすぐ始まる」
それはどういうことかとユリウスが問い返そうとするより早く、地鳴りのような音が聞こえた。
ロイとエレスが立ち上がる。
「来た」
「来たわ」
「ほら、見に行こう」
続いて大儀そうに立ち上がった老神官が、ユリウスを促した。
2018.4.19.