幻の村
3.
小鳥がさえずり、柔らかな陽射しが降りそそぐ、季節は春のようだった。
ヤヌス神殿の裏の山を少し登った辺りに、村を見渡せる場所があった。
ロイ、エレスの姉弟とともに、ユリウスは大樹の陰に身をひそめる。
そこは崖になっていて、身を低くしていれば、村人たちに気づかれないように村を見下ろし、眺めることができた。
初めて村に入ったときと同じ不自然さをユリウスは感じた。
やはり、村人たちに影がない。
建物や木立ちの影は地面に落ちているにも拘らず、だ。
ロイやエレス、老神官やユリウス自身には、影はあった。
地鳴りのような音がどんどん村へと近づいてくる。
「この地方の長官の下で、銅の不正取り引きをしていた奴らの下っ端が、逆恨みして、村のみんなを殺しにしたんだ」
ユリウスはロイの口調に違和感を覚えた。
なぜ、そこまで断定的なのか。
「そんな情報をどうやって手に入れたんだ? 君たちはまだ子供だし、こう言ってはなんだが、国の外れの小さな村の神官殿が中央の政に詳しいとも思えない」
「だって、もう起こってしまったことだもの。あたしたちは、神官様と一緒にいたから難を逃れたのよ」
「そうだよ。村にいれば、おれたちも殺されていたよ」
三人の背後で、こちらに背を向けて座っている老神官が、ユリウスに言った。
「地方長官とキサリヤ王国との裏取り引きで甘い汁を吸っていた輩の残党が、カサ村の住人を逆恨みし、キサリヤ人の手を借りて村を襲ったんじゃ。村人たちを皆殺しにして、この土地を奪おうとしたんじゃろう」
地鳴りは複数の蹄の音だ。
「そんなことをして、下手をすれば戦争になる」
「そこはドールのお偉方も解っておったようじゃ」
突如、悲鳴が聞こえた。
はっとするユリウスが村へと視線を戻すと、いつの間にか、十数名の馬に乗った覆面の男たちが、槍や剣を構え、次々と村人たちを斬り殺している。
「とめなければ……!」
走り出そうとしたユリウスの衣を掴み、老神官は彼を制した。
「全て、終わった」
「?」
なぜ、過去形なのか。
沸き起こる悲鳴。
血を流して倒れる人々。
村人たちを、一人残らず血祭りにあげようと暴れ狂う覆面の男たち。
黙って見ているわけにはいかなかった。
「見ていなされ。わしはあの光景をもう二度と見たくはないが。……奴らはすぐ死ぬ」
「え?」
いきなり、一頭の馬が後足立ちになり、その馬に乗っていた覆面の男が地面に投げ出された。と、馬上の刺客たちは次々と胸を押さえ、馬から転げ落ちていった。
「……何が、起こった?」
呆然とするユリウス。
刺客たちは全員が地に倒れ、すぐにぴくりとも動かなくなった。
「黒ずくめの殺し屋の仕業さ」
ロイが得意げに言う。
「そう。あとで役人が調べたら、刺客は全員、心臓を一突きにされて、死んでいたそうじゃ」
「例の殺し屋ですか?」
老神官は後ろを向いたままうなずいた。
「その暗殺者は、黒衣をまとっているという以外、正体不明の殺し屋じゃ。殺しを依頼したお偉方は、残党の報復を予期しておった。キサリヤに対し、カサ村と銅山は渡さないという牽制だったのじゃろう」
「でも、村の人たちは……」
「そういう運命なのじゃよ。ドール国は村人を見殺しにしたが、銅山の権利は守り抜くじゃろう。いずれ首都から軍が派遣され、この村は警護される。銅の採掘は国の事業として確立されよう」
「そして、あなた方は?」
ユリウスは静かに問うた。
もう驚かない。
これは過去に起こった出来事なのだ。
死者には影がなく、姉弟や老神官に影があるのは、彼らが今も生きているという証だ。
「わしはこの子たちを連れて、村を離れる」
背を向けて座る老神官の姿が、わずかに揺らいで見えた。
「この子らに住める場所を見つけて、そのあとは、そうじゃな」
ふと、ユリウスが目を向けると、ロイとエレスの姿も霞み始めた。
「わしは若い頃、アトレス山脈で修行をした。人生の終わりに、次は霊峰群を巡ってみるのもよいかもしれん」
霊峰群──
ユリウスは、そこにいた。
「ユリウス殿。旅の無事を祈ります」
「あなた方もお元気で」
風景に溶け込むように、意外なほどの自然さで、ロイは、エレスは、老神官は、消えていった。
視線をカサ村へ戻すと、そこも家々だけが残り、惨殺された村人たちや、姿を見せない殺し屋の手にかかって殺された覆面の刺客たちの姿もすでに消えていた。
彼らは最初から存在していなかった。
全ては幻だったのだ。
独り、ユリウスは廃墟になったヤヌス神殿に戻った。
幻の村にいることは判っても、彼自身、元の世界へ帰る術が判らない。
精霊の声に耳を澄ませるが、そもそも、この幻の世界に精霊などいないのかもしれなかった。
「……困ったな」
隙間に雑草の茂る石畳の間を進み、広い回廊の中に立った彼は、左右を交互に見た。
両側にアーチ形の大きな石の門。
過去と未来を見つめる門の神・ヤヌスの、過去の門と未来の門だ。
気がつくと、いつの間にか夕闇が迫り、今日という日が終わろうとしていた。
不思議と空腹感はない。
崩れた神殿の屋根の間からふと夜空を見上げたユリウスは、はっとした。
(あれは──)
神殿の庭に出る。
「妖霊星──まさか……!」
仄暗くなり始めた夜空の、およそ三分の一を、蒼白く尾を引く妖霊星が、妖しいまでの美しさで大きく輝いていた。
「でも、なぜ」
ここは二十年近くも前の、妖霊星が顕現した過去なのか。
しかし、ロイやエレスは妖霊星を見ていないと言った。
──妖霊星が現れるとき、大いなる門が開かれる──
(そうか!)
ユリウスは神殿の中へと身を翻した。
過去の門と未来の門。
片方の門は崩れ落ちている。
これはどちらの門だろうか。
<……ユーリィ──ユーリィ──>
青珠の声?
(崩れているほうが未来の門だ──!)
精霊の声は、崩れている門の向こうから聞こえる。
「青珠!」
<ユーリィ……!>
崩れた石の門の隙間から、風が吹き抜けた。
妖霊星が支配する夜空の下、一条の光が──真昼の陽光が、風とともに流れてくる。
ユリウスは、未来の門の、その向こう側へと手を伸ばす。
彼の左耳の耳飾りの青い石が、微かに光を帯びた。
「……っ!」
空間が繋がった。
* * *
「ユーリィ!」
眼を開けると、青珠が心配そうに顔を曇らせて、倒れている彼の顔を覗き込んでいた。
青珠に抱き起こされ、身を起こしたユリウスが辺りを見廻すと、そこは左右を険しい断崖にはさまれた岩だらけの山道だった。
青い空。
岩壁に刻まれたヤヌス神のレリーフ。
ヤヌス神の両側に刻まれたアーチ形の門の片方は、その表面がわずかにえぐれている。
「ここは……」
「霊峰群よ。あなたの持つ“力”は、思った以上に霊峰群の霊気に呼応したみたい」
「……そうか」
倒れていた場所から立ち上がり、衣についた土埃を払っていると、青珠が気遣わしげな眼差しを彼に向けた。
「ごめんなさい。あなたを見失ったわ。ここは数多の神々の霊気が入り乱れ、様々な層を形作っている。普通の人間は、その層を感じ取ることはできないけど、あなたは精霊の通る道とは別の層へ入り込んでしまったみたい」
「あの門」
ユリウスの視線の先の、岩肌に彫られたヤヌス神のレリーフを、青珠も見上げた。
「過去の門ね。大丈夫、崩落したりしない」
カサ村のヤヌス神殿では、未来の門が崩れていた。
このレリーフの過去の門と、カサ村の神殿の未来の門が、何らかの因縁で繋がったのか。
ユリウスは、ふと、あの老神官の言葉を思い出した。
子供たち──ロイとエレスの安全を確保した後、彼は霊峰群を巡礼したいと言っていた。
もしかしたら、このレリーフを彫ったのは、その後のあの、ヤヌス神殿の老神官なのではないだろうか。
「ユーリィ、あなたはどこにいたの?」
「過去の幻影の中にいたようだ。その幻の村で、殺し屋に間違われた」
「巡礼者なのに?」
「黒衣をまとった殺し屋だそうだ」
銅山の利権を巡る、醜い人間たちの争い。そして、それに巻き込まれた村。
ユリウスは、自らが体験した出来事を青珠に語った。
結い上げたアイス・ブルーの美しい髪を風になびかせ、青珠はじっとユリウスの話に耳を傾けていた。
「村人たちには影がなかった?」
「ああ」
「それは……告死天使が関わっているわ──」
「告死天使?」
「そう呼ばれている殺し屋がいるの。彼は──いつも黒衣をまとっていたわ」
死を告げる天使──それすなわち、死神。
「魔道師でもある彼は“影”を使う術を最も得意としている。これは、この霊峰群の霊気と告死天使の魔力が見せた、幻影なのかもしれないわ」
もしかしたら、“彼”がこの霊峰群を通ったのかも──
ふと、傍らの地面にきらりと光るものを見つけ、青珠は身をかがめてそれを拾った。
黒真珠であった。
カルム産の黒真珠──
カルム島──ロズマリヌスが生まれた島。
それを見つめる青珠の表情にわずかな翳りがさした。
「青珠?」
自分を見つめるユリウスの視線に気づき、青珠はとっさに微笑んでみせた。──つもりだった。
「……泣いて──いるの?」
青珠ははっとした。微笑んだつもりなのに、白い頬を涙が伝っていた。
「青珠……?」
思わずそむけた青い眼から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ごめんなさい。──何でもないの」
青珠の白い指が、カルムの黒真珠をぎゅっと握りしめた。
“彼”はここを通ったのだ。
いつ?
青珠は、岩壁に彫られた、わずかにえぐれたヤヌスの門を見上げた。
過去の門。
そう、過去は過去だ。
今あるのは、ユリウスとの巡礼の旅。
「あなたは恐らく、過去に起こった出来事の中に紛れ込んだ。でも、妖霊星だけは、あなたの中の血が見せたのだわ」
「あれも、過去の現実なのか?」
「時間が交錯したのね。同じ過去ではない。正常な時間軸に戻るため、妖霊星はあなた自身が呼び出した幻よ。過去の門と未来の門を繋げるために、必要だったの」
青珠はそれ以上何も言わず、ユリウスもまた、何も訊かなかった。
「行きましょう、ユーリィ。どこか休める場所まで」
「ああ」
ユリウスはうなずき、青珠と一緒に歩き出す。──岩壁に刻まれたヤヌス神と二つの門をあとにして。
広い夏の青空。
清浄な空気。
静寂。
青珠のそばで、ユリウスはやっと安堵した。
精霊たちの声が満ちるここは、神聖なる山。
霊気を帯びた風が、二人の間を吹き抜けていった。
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2018.4.22.