もう一人のユリウス
1.
それは、大気を、大地を、世界をも震撼させる激しい嵐であった。
嵐は、この世の終末のように、十の朝と十の昼、そして十の夜を吹き荒れた。
やがて夜が十一日目を数え、大地がようやく静けさを取り戻したとき、人々は、澄み渡る夜空に、輝くひとつの妖霊星を見た。
不気味なほど静まり返ったこの夜。
ヤヌス神殿の中で、一人の男児が誕生した。
白い薄物をまとった女が、神殿の窓からじっと夜空を見つめている。
美しい女だった。
象牙色の肌。波うつ金髪。底知れぬ哀愁を秘めた深い海の色の瞳。まさに、ウェヌス女神その人が地上に降り立ったような麗しさである。
不意に扉が開かれ、女は振り向いた。
「オミノス様……」
室内に入ってきたのは、見事な白鬚をはやした老人であった。
「オミノス様。わたしの軟禁は、まだ解かれぬのでしょうか」
ヤヌス神殿の老祭司であるオミノスは、悲しげに首を振った。
「他の祭司や神官たちは、未だそなたが過ちを犯したのではないかと疑っておる」
「誓って! 神・ヤヌスに誓って申します。わたしは決して身を穢されてはおりません。あの子は正真正銘、神の子です」
「フィーテ、わしはそなたを信じておる。そなたは人一倍敬虔な巫女じゃ。しかしな、世には猜疑心に理性を欠く輩が多い。悲しいことじゃが、人間である以上、これは仕方のないことじゃて」
「では、せめて──せめて、あの子を母のもとへお返しくださいませ。わたしが神から託された子です。わたしが責任を持って育てねばなりません」
オミノスはため息をついて、フィーテから眼をそらした。
「実は、赤子も幽閉されておるのじゃ。乳母とともに北の塔にな。心ない者の中には、あの子のことを、邪神によって生まれた悪魔の子だと言う者もおる」
「──悪魔の子ですって? おお、神よ、何ということでしょう! それこそ、神への冒涜ですわ!」
フィーテははらはらと涙をこぼした。
「哀しい時代です。民族間の闘争は絶えることなく、神に仕える者までが平気で人を殺めます。このような時代だからこそ、神は御子をお使わしになったのですわ」
フィーテは再び窓のほうを向いた。夜風が長い金髪を微かに舞わせた。
澄み切った夜空には、異界への入口のように、妖霊星が静かな輝きを放っている。
「美しいこと。……あの子が──ユリウスが生まれた夜に、あの星は現れました。人々はあれを凶星だなどと言うけれど、わたしにはそうは思えません。きっと、神がユリウスの誕生を祝福してくださっているのです」
「フィーテ……哀れな女性よ」
「いいえ、オミノス様」
フィーテはきっぱりと言った。
「神はわたしをお選びになったのです。これに勝る喜びはありませんわ」
「フィーテ、本当にそう思うか」
「はい、オミノス様」
それまで、何かをじっと考える表情だったオミノスは、不意に、決然とした様子でフィーテの肩に手をかけ、押し殺したような声でささやいた。
「では、フィーテ、逃げるのじゃ。明日、そなたを裁判にかけることが決まった。よくても一生囚われの身、悪くすれば死罪は免れまい。ユリウスも殺されるじゃろう。わしが手引きをするゆえ、一刻も早う、ここから姿を消しなさい」
怖いほど真剣に逃亡を勧めるオミノスの灰色の瞳を、フィーテはむしろ驚いたようにあどけない瞳で見つめ返した。
「いいえ。それでは神の御意志に背くことになりましょう。わたしは堂々と人々の裁きを受ける覚悟でございます」
「人は神ほど寛大でも平等でもない。よく考えることじゃ」
美しき巫女は、穏やかな、そして哀しげな微笑みを浮かべた。
「解っております。でも、やはりわたしはあの子を逃亡者にしたくはないのです」
「悔やまなければよいが……」
「あの子には神がついていてくださいますわ。あらゆるものの運命は、全て神の御心のままに。──わたしは、我が身と我が子の運命を、神の御手に委ねます」
* * *
巫女・フィーテの裁きが、ヤヌス神殿の管轄下にある裁判所にて、今、行われようとしていた。
見せしめのための、公開裁判である。
純潔が絶対条件である巫女が赤ん坊を産んだというこの事件は、この地方の民の関心を根こそぎさらっていた。人々は、邪神と契って悪魔の子を産んだという巫女の姿を一目見ようと、裁判所へおしかけた。
時間きっかりに姿を現したその巫女は、掟と正義の女神・ユースティティアに仕える神官たちに引き立てられるようにして、裁きの間に入室した。そして、巫女はその場にひざまずいた。
傍聴席に、ざわめきが波のように広がっていく。
何という──何という美しさか。
あれが悪魔と契った女か? ウェヌス女神その人ではないのか。
「静まれ、民よ!」
裁きの進行をつとめる祭司が法廷の開会を宣言した。
「もとヤヌス神殿に仕える巫女であった女、フィーテよ。汝は神に仕える者として最も重要、かつ根本的な掟を破った。そればかりか、こともあろうに、悪魔の子を産み落とした罪は重い。それに対し、何ぞ申し開きはあるか?」
フィーテは決然と顔を上げた。
「わたしは掟を破ってはおりませぬ。天地に恥じるようなことは何もしておりませぬ。わたしは純潔の身のまま身ごもったのです。あの赤子は、まこと、神がわたしの肉体を通してお使わしになった御子なのでございます」
傍聴席がざわめいた。
フィーテを糾弾する声があちこちから湧き上がった。
「まだそのようなことを申すか。汝が産んだ子は呪われておる。その証拠に、赤子の誕生の際には天地を揺るがす嵐が十日もの間吹き荒れ、凶星が現れた。未だ夜になると、あの蒼白き妖霊星は天を支配し、民を脅かしておる」
「あれは凶星などではございませぬ。また、たとえ凶星だとしても、それがわたしの赤子のせいだという確たる証拠はございませぬでしょう」
「妖霊星が現れたのは、赤子が産まれた夜じゃ。無関係ではあるまい」
「ただの偶然かもしれませぬ」
毅然たるフィーテのその口調が、祭司をはじめとする居並ぶ人々の反感を買った。
掟の女神の祭司は憤怒にかっと眼を見開いて叫んだ。
「この女は邪神の使い、邪教徒の巫女。邪教徒の申すことなど、聞くに値せぬ。この女の産んだ赤子は神の子にあらず、邪神の子じゃ。フィーテよ、汝は我らの神に背き、我らの神を欺いたのだ」
「もし、あなた方に神を信じる心が少しでもあれば、あの子が真に神の御子であることがお解りになれましょうに」
美しき巫女は凛然と叫んだ。
「あなた方の眼に真実は映らぬ。あなた方には神の子の姿は見えぬ。しかし、来たるべき日、あなた方は理解するであろう。神の御意志を、神の御子の存在を、そして、神のお怒りを──!」
祭司は厳かに聴衆を見廻して、腹立たしげに叫んだ。
「皆の者、お聴きの通り、このフィーテという女は穢れた巫女、邪教徒じゃ! 邪神の子を我らの神の御子であると、我らを、そして我らの神々までをも欺こうとしておる。このような神をも恐れぬ振る舞いを、このまま許してよいものか」
祭司に賛同する喚声が起こった。フィーテは静かに眼を閉じ、唇を噛んだ。
フィーテの裁判は正午ちょうどに開廷したが、夕闇がせまる頃になっても、フィーテは己の罪状を認めようとはしなかった。裁きを司る祭司とは平行線である。
聴衆の中にはフィーテに同情をよせる声も少なくなかったが、彼女の美しさは魔性のもの──すなわち彼女は邪神の使いだと主張する者のほうが圧倒的に多い。
審判は多数決によって裁定されることになった。
この裁判の模様の一部始終をじっと静かに見守っていた、各神殿の神官、祭司たちが裁決を取った。
「フィーテよ、汝は我らの神の巫女という立場にありながら、邪神の子を宿した。その罪は重い。汝はその身をもって償わねばならぬ。汝を神・ヤヌスへの生贄とする」
フィーテは蒼ざめてはいたが、毅然と顔を上げて祭司の眼を見返した。
「そして悪魔の血は絶たねばならぬ。フィーテの産みし邪神の子は火炙りに処す」
ほんの──ほんの一瞬、フィーテの顔が激しい怒りの炎に彩られた。が、すぐに彼女は落ち着きを取り戻すと、静かな足取りで聴衆に向き直った。
「神の御心を知らぬ愚かな人間の手で、一人の巫女の生命が絶たれても、それは神の御意志と受け止めましょう。しかし、あなた方に、神人である御子の生命は絶てませぬ。御子の運命を決めるのは、人間ではなく、神なのですから。あらゆるものの運命は、全て神の御心のままなのです」
凛と響くフィーテの言葉に、祭司は激怒して部下の神官を呼び寄せた。
「即刻、この者を牢へ連れていけ! かような戯言をしゃべらせるには及ばぬ」
場内は熱気と興奮に包まれ、騒然としていた。
二人の神官に両側から腕を取られ、強引にその場から退場させられた彼女は、不思議なほどの安らかな微笑と、微かな威厳さえ漂わせていた。そして、天を仰ぎ、最後に声高く叫んだ。
「あらゆるものの運命は、全て神の御心のまま──!」
「閉廷!」
苦虫を噛み潰したような表情で祭司が宣言すると、ざわついたままの聴衆たちは半ば残念そうに、半ばほっとしたように各々の席から立ち上がった。
神官席には、ヤヌス神殿の老祭司・オミノスの姿もあった。
哀しげに、フィーテの消えた扉をじっと見つめていたオミノスは、場内から全ての人間の姿が見えなくなってから、ようやく重い腰を上げた。
裁判所を出ると、すでに大気は夕闇だった。
石造りの建物を気だるげに振り仰ぎ、オミノスは、ぽつりとつぶやきを洩らした。
「憐れなフィーテ。そして、憐れな神の子、ユリウスよ……」
裁判所の背景は、きらめく星の海であった。
宝石箱をあけたように、きらきらと鮮麗に瞬く数多の星々の中心に、その妖霊星の姿はあった。
それは、何かを暗示するように、ただ美しく、輝く沈黙を守っていた。