もう一人のユリウス
2.
青珠に揺り起こされて、ユリウスは初めてそれが夢であったことに気づいた。
「また、悪夢を?」
ユリウスは全身汗びっしょりだった。
「うん……僕が生まれたときの夢。僕を産んだ女性が生贄にされる夢」
「それはあなたの血によるもの。血の成せるわざ。記憶にすらとどめられぬ映像を、あなたは見る力を持っているの。……それだけのことよ」
「解っているよ。でも」
でも──とユリウスは思った。いったい、いつまでこの悪夢に苦しめられなければならないのか。
妖霊星のもと、享けた生が、母を殺した。
悪魔の子を糾弾する人々の声──
「ユーリィ……?」
気遣わしげな青珠のささやきに、ユリウスは無理に笑顔を作ってみせた。
「大丈夫、夢だ。全て過ぎ去った過去のことだ」
「ユーリィ──」
闇の中、青珠の細い腕が、母の手のようにユリウスをそっと抱きしめた。
「──大丈夫なわけ、ないだろう……」
遠い声でつぶやいた人物は、広い回廊の石の窓辺に座り、夜の空をじっと眺めていた。
眺めていた──? しかし、その瞳には何も映ってはいない。
窓は開いていた。
夜風が、彼の細い亜麻色の髪をそっとそよがせている。
メディオラ市。大陸の東の雄・レキアテル王国の首都である。
ここは、王宮であった。
王宮の窓から夜空を見つめ、その人物は瞳に何を映していたのだろう。
回廊の床に影が揺らめいた。
「ユリウス様……まだ、起きておいでなのですか?」
可憐な声とともに姿を現したのは、まだ十二、三歳に見える少女であった。
「ディディルか。そなたこそ、まだ起きていたのか」
ユリウスと呼ばれた人物は、声のしたほうを振り返った。だが、少女のほうを見てはいない。──ユリウスは、盲目であった。
「夜風にあたるとお身体に障ります。もう、お休みくださいませ」
「そなたこそ、もう休め。──私は、少し一人になりたい」
「……はい」
心配そうな声であったが、ディディルは素直に引き下がった。
年こそ若いが、ディディルは、レキアテル王家に仕える方士であった。
また、巫女の資格も持っている。
この場合、方士とは占術士であり、占星術を科学と捉え、公的機関として置かれた占術府に属し、王国や王家のために占術を行う役目を担う者たちを指す。
代々王家に仕えてきた神官の家系に生まれた彼女は、十歳にして、レキアテル王家の第一王子づきの方士になった。それから、三年が経つ。
レキアテル王国の第一王子。それがユリウスだった。
ディディルの気配が遠のいてから、ユリウスはそっとつぶやいた。
「黄珠」
夜の闇が風のように舞ったかに感じられた次の瞬間、王子ユリウスの前にうら若い娘が現れた。
濃い金色の巻き毛に蜜蝋のような色の瞳。軽やかな山吹色の羅をまとっている。──もちろん、人間ではない。
「そなたにも見えたね?」
「はい」
と黄珠は答えた。
ユリウスの額に黄色い石がある。黄玉のようにも見えるそれは、サークレットの中央に嵌め込まれていた。
精霊の宿る石が、ここにもあった。
「巡礼のユリウス。──なぜ、私にあんなものが見えるのか……」
千里眼。
それは、彼の持って生まれた能力であった。
その力のため、彼には余人に見えないものが見える。
万物に宿る精霊の姿。声。ひとの心。密なる思惑。霊魂。
そして、なぜか、一人の巡礼者の心も──
「彼の苦しみ。彼の痛み。全て、そのまま私にも見える。彼の見つめているものが、そのまま、私に伝わってしまう」
「──」
黄珠は黙って王子の言葉を聞いていた。
ユリウス王子にもまた、妖霊星の記憶があった。
そしてそれは、巡礼のユリウスのものとよく似ていた。
──妖霊星のもと、享けた生が、母を殺した。
「……いつまで、過去を見つめ続けるつもりなんだ」
自らに問うようにつぶやいたユリウスは、自嘲するように哀しげな微苦笑を浮かべた。
そんな王子の姿をしばらく見つめていた黄珠は、短い巻き毛を夜風に舞わせ、おもむろに言った。
「それは彼の意思とは無関係でしょう。ちょうど、王子が彼の苦悩を垣間見てしまうことが王子の意思とは無関係なように」
* * *
大陸の東に位置する大国・レキアテル王国。
その第一王子であるユリウスは、国王の実子ではない。
表向き、ユリウスはレキアテルの第一王子という立場にあったが、実際には国王の甥、今は亡き王の実妹の忘れ形見であるのだ。
二十年近く前、妹姫が亡くなったとき、若き王はユリウスを実子として引き取ることを決め、第一王子が誕生したと、そう世間に発表した。
しかし、その後、国王に実の王子たちが生まれ、当然のことながら、王位継承問題が発生した。
国王には正妃の他に第二妃、第三妃がおり、王はそれぞれの妃との間に王子を一人ずつ、第二妃とは王女も一人、儲けている。
実の息子が三人もおり、中でも第二王子の母である正妃は、真実の第一王子の我が子ではなく、王位継承権の第一位が義理の甥に当たるユリウスにあることに納得できるはずがなかった。
そのことで、王と正妃との間には諍いが絶えなかった。
第三王子の母である第三妃や、第四王子の母である第二妃も、ある種の蔑みと冷めた目をもって、それを静観していた。
ユリウスには、豪華な続き間が与えられている。
だが、それは彼にとって、牢獄と大差ない空間だった。
彼が盲人であることは、外聞を恐れ、生まれたときから伏せられている。
その事実を知っているのは、王宮内のほんの一部の人間であった。
国王やその妃たち、彼の身の回りの世話をする侍女や従者、学問の師。
そして、正妃の一人息子・アウリイ。
第二王子のアウリイは、腹違いの弟妹よりも、義理の兄であるユリウスと仲が良く、彼を慕っていた。
毎日をほとんど一人で過ごすユリウスの部屋を、アウリイはよく訪れた。
ノックの音が響いた。
扉を開けた侍女が告げるより早く、ユリウスは訪問者の名を口にした。
「アウリイ」
「兄上、おはようございます。朝食はおすみですか」
ユリウス王子は、国王家族とは切り離された生活をしている。
食事もまた、豪華な自室の中にある居間で、一人でとるのが慣例であった。
「おはよう、アウリイ。今朝は早いね」
兄の部屋に顔を出したアウリイは十五歳。まだ、あどけなさの残る少年である。
侍女が一礼して退室すると、アウリイはユリウスの座る長椅子の前までやってきた。
「今日も図書室へ行かれるのですか」
「そのつもりだよ」
「今日はとてもよいお天気です。ディディルに本を読んでもらうのはあとにして、一緒に馬に乗りませんか?」
意外なことだが、ユリウスは乗馬を得意としている。
眼は見えなくとも、彼はあらゆる精霊の声を聞くことができる。精霊たちの声は、精緻に周りの光景を描写してくれた。
そして、馬に乗るときは馬の目に自分自身を同調させる。
生まれながらの千里眼の力で、彼は他者の視界を借りることができるし、必要であれば、いつでも黄色い石の精霊・黄珠が、彼の目となった。
したがって、よほど近しく接する者以外、ユリウスの眼が見えないことにすぐ気づく者は、まずいない。
「勉学の時間は大丈夫なのか? 母君が心配されるだろう」
「勉強なら、午後、兄上と一緒に図書室で行いますよ。母上のご機嫌取りにばかり気を遣う教師より、兄上と一緒のほうがはかどります」
冗談めかして言うアウリイは、だが、自分の母が、この兄の存在をよく思っていないことを知っていた。
でも、だからといって、それが自分が兄と仲良くしてはいけない理由にはならないとも思っていた。
「帝王学は大事だよ、アウリイ。決められた時間に、毎日勉強すべきだね」
「またその話ですか」
アウリイはあどけなくため息をついた。
「王位に相応しいのは兄上です。母上の言うことなど気になさることはありません」
「真の第一王子はそなただよ、アウリイ。それに私は──」
「眼が見えないことが何だというんです。眼が見えなくても、兄上の視野は王宮内の誰よりも広い。血統だって、父上の妹君の王子でしょう? 私たちと同じ王家の血が流れている」
「理由はそれだけではないんだよ」
アウリイは、椅子に座るユリウスの前に膝をつき、兄の手を両手で握った。
「兄上が王位に就けば、私が兄上の目になって、補佐します。兄上の見識や博学ぶりは、私が一番よく知っています」
「アウリイ」
微笑み、ユリウスは手を伸ばして、やわらかなアウリイの髪をやさしく撫でた。
「父上には感謝している。私の母を憐れみ、私を実子として育ててくださった。今でも、実子として接してくださっている」
「だからこそ、父上も次の王位は兄上にと」
ユリウスは翡翠色の眼を伏せ、すると、風が運んできた微かな光が、ユリウスのサークレットの中央に象嵌された黄色い石に撥ね返った。
「でもね、アウリイ。私は王位に就くわけにはいかないんだ」
2018.5.2.