もう一人のユリウス

3.

 ユリウスとアウリイ、二人の王子は、城の敷地内にある馬場へとやってきた。
 しばらく二人は軽く馬を走らせていたが、すぐに物足りなくなったアウリイが、森まで競争しようと言い出した。
 無論、森も城内である。
「アウリイ殿下。それには、正妃殿下のご許可がございませんと」
 従者の一人が慌てて口をはさんだ。
「森へ行って、少し散策して戻ってくるだけだ。そなたたちがともに来れば問題はない」
「ですが……」
「構わぬ。兄上、競争です。行きますよ!」
 言葉と同時にアウリイは馬の腹を蹴っていた。
 アウリイを乗せた馬は、森を目掛けて疾走していく。
 帯剣して馬場に控えていたアウリイの従者二人とユリウスの従者一人は、困惑して視線を交わし合った。
 ユリウスは森のほうへ馬首を返した。
「よい。私がアウリイを追おう。そなたたちはあとから馬に乗ってついてきなさい。アウリイは森の入り口で引きとめておく」
 アウリイの従者と自分の従者のほうを軽く振り返って、彼は言った。
「はっ」
「かしこまりました」
 馬番が急いで引いてきた三頭の馬の手綱を受け取り、従者たちは答える。
 ユリウスは馬を走らせた。
 耳元で風を切る音がする。
 この疾走感は好きだ。
 縛り付けられた現実から解放されたような気持ちになれる。
 手慣れた手綱さばきで、ユリウスは馬を走らせ、どんどん森へと近づいていった。
 アウリイはもう森の入り口に到着しただろうか。
 風の精霊たちの声に耳をすませたユリウスは、ふと眉をひそめた。
 不吉な予感。
(何者かが潜んでいる……?)
 精霊たちが知らせるそれは、木々のさやぎのようにユリウスの感覚に浸透していった。
 自らが駆る馬の目に同調した彼は、はっとして手綱を引いた。森は目の前だ。
「アウリイ!」
「兄上、私の勝ちですよ!」
 叫ぶアウリイの声は少し遠い。
 ユリウスは大声で叫んだ。
「アウリイ、引け! 森から離れろ!」
「えっ……?」
 突然、矢が風を切る音が響いた。
「馬場へ戻れ!」
「兄上──!」
 驚き、戸惑うアウリイの声とともに、第二、第三の矢が飛んできた。
 森から離れ、馬場へ戻ろうと手綱を操るアウリイの耳元を、矢がかすめた。
「何者!」
 厳しい声でユリウスが誰何する。
──
 曲者は黙ったままだが、千里眼を持つユリウスの耳には、微かに洩れ聞こえる“声”があった。
(第二王子も一緒だ)
(どうする)
(二人とも殺ってしまえ)
 賊は複数だ。森の中にいる。
「黄珠」
 と、ユリウスは黄色い石の精霊の名を唱えた。
 風が走る。
 風は疾風の刃となり、二人の王子を狙う矢を砕き、賊たちの持つ弓弦を断ち切った。
「っ!」
 突然の出来事に曲者たちは驚いたが、今さら引くことはできず、剣を抜いて、森の外へと躍り出た。
「殿下!」
「アウリイ殿下、ユリウス殿下!」
 その頃になると、遅れてやってきた王子たちの従者三人が異変に気づき、馬上から剣を抜き放って、賊に向かった。
「くっ……!」
 賊は五人。
 明らかに、王子を狙っての刺客であった。
「アウリイ、逃げるんだ!」
「はっ、はい!」
 だが、そのとき、刺客の一人が短剣を投じた。
 アウリイの乗る馬がいななき、棒立ちとなる。
 脚を傷つけられた馬が暴れ、アウリイはたちまち地面に転落した。
「アウリイ!」
 ユリウスは馬上から身を乗り出し、義弟へと手を差し伸べた。
「こっちへ!」
 蒼ざめたアウリイは、必死に手を伸ばし、ユリウスに引き上げられて、彼の馬に一緒に跨った。
 背後では剣を交える音がする。
 再び刺客が投げた短剣を、風の精霊の声によって察したユリウスは、素早く馬を操ってそれをよけた。
 そのとき、精霊たちのささやきで、ユリウスは自分たちの三人の従者が刺客の剣に倒れたことを知った。
「黄珠」
 口の中で小さくつぶやく。
「斬れ。ただし、一人は殺すな。誰の命か、証言させねば」
 震えるアウリイを前に乗せ、ユリウスは馬の腹を蹴った。
 凄まじい悲鳴が上がる。
 背後で血煙が上がる様が、馬場へ向かって疾走する馬上のユリウスには、精霊の眼を借りずとも感じ取ることができた。


 第一王子と第二王子が何者かに襲われたという知らせに、王宮は騒然となった。
 ユリウスは、怯えているアウリイを彼の部屋まで連れていき、急ぎ、衛兵たちを馬場の向こうの森へ向かわせた。
 幾人もの侍女が冷たい水を運び、アウリイを寛衣に着替えさせている。激しいショックを受けているアウリイのために、王宮の侍医たちも駆けつけてきた。
 ばたばたと騒々しく人々が動きまわる中で、ユリウスはひっそりとアウリイの部屋の窓際に立っていた。
<王子>
 微かな声が、ユリウスの耳に届く。
「黄珠か」
<曲者は皆、死にました>
「そなたが殺したのか?」
<五人のうち、四人を絶命させると、最後の一人は隠し持っていた毒を飲んだのです>
「……なんてことだ」
 吐息を洩らし、ユリウスは眉をひそめた。
 そのとき、慌ただしく廊下を駆けてくる音が響いた。
「アウリイ!」
 部屋に飛び込んできたのは、優美な長衣を身にまとい、美しく着飾った三十代前半に見える女性であった。
 レキアテル国王の正妃・アネス。
 アウリイの母である。
 室内にいた侍女たちが一礼して道をあけた。
「アウリイ」
 彼女はぼんやりと豪奢な寝台に横たわる王子に手を伸ばし、その頬に触れた。
「アウリイ、何者かに襲われたというのは本当ですか」
「母上……」
 アウリイは曖昧につぶやいた。
 侍医が、話をするのはまだ無理だと正妃に告げる。
 アネスは顔を上げ、ふと、窓際にユリウスの姿を認めた。
 さらさらと衣擦れの音を立て、そちらへと優雅に歩み寄る。
「ユリウス王子」
 ユリウスを見上げるアネスの金の耳飾りがきららかに揺れた。
 アウリイを見つめていたときとは対照的に、美しいが冷たい瞳と声だった。
「アウリイはそなたと乗馬をしていたとか」
 固い口調で詰問する。
「賊は複数と聞きました。刺客だったのですか? その者たちはどのような──
 そこまで言って、アネスは出し抜けに言葉を切った。
 ユリウスが盲目であることを思い出したからだ。
「……狙われたのはアウリイですか?」
「いいえ。私だと思います」
「そなたと一緒にいたから、アウリイも襲われたというのですか」
「恐らく」
 激しい感情を抑え込もうと、アネス妃は唇を噛んだ。
「ユリウス様!」
 可憐な少女の声がした。
 レキアテルの第一王子づきの方士・ディディルである。
「襲われたのですって……? お怪我は……」
「大丈夫、私もアウリイも怪我はない」
「でも、いったい何者が……」
──それは、これから明らかになるであろう」
 そう言った低い、重々しい声に、ディディルをはじめ、その場にいた者たちははっと息を呑んだ。
「陛下!」
 いつの間にか、顎髭を蓄えた、大柄な体格の壮年の男性がディディルの背後に立っていたのだ。
 レキアテル王家の紋章であるグリフォンの翼をかたどったサークレットをつけ、重厚な長衣をまとうその人物こそ、ユリウスの伯父でアウリイの父、レキアテル王国の国王・ルクィントスであった。
 その場に居合わせた者たち、ユリウスとアネス以外の全員が床に膝をついた。
「すぐに臣を招集し、衛兵の検分の結果をまとめよう。ユリウスもアウリイも、大事無いか?」
「はい」
 ユリウスはうなずき、アウリイも寝台の中で小さく首肯したが、アネスだけは納得がいかないようである。
「陛下。アウリイは巻き込まれたのです。怪我はなくても、このように憔悴して……それもこれも、ユリウス王子の」
 わずかにユリウスは眼を伏せた。
 ユリウス王子に同行さえしていなければ。
 そうしたら、巻き添えにはならなかったのに──
 そういう正妃の心の内の声が、ユリウスには聞こえる。
「なればこそ、今日は安静にしておれ」
 枕元に控える侍医たちに国王は視線を投げた。
 侍医は皆、深く頭を下げ、承諾の意を表した。
「遠駆けなど、わたくしは許しておりません」
 アネスは神経質に言葉を続けた。
「わたくしに無断でアウリイを馬場の外に連れ出すなど、なんたること──
 寝台に横たわるアウリイがか細い声を出した。
「母上、遠駆けをしようと言ったのは私です。兄上のせいではありません。兄上がいなければ、私は今頃……」
「そもそも、そなたがユリウス王子と行動をともにしなければ……!」
 声を荒げようとして、アネスははっと押し黙った。
 王の視線がある。
 さすがに、場をわきまえたのだろう。
 厳しい眼差しで妃を見つめていたルクィントス国王は、二人の王子へ、静かに言った。
「王子たちの話は明日、聞こう。二人とも、今日はゆっくり休みなさい」
 静かだが、有無を言わせぬ威厳を湛えた王の物腰に、正妃は口をつぐみ、かしこまるしかなかった。

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2018.7.16.