もう一人のユリウス
5.
千里眼を持つユリウス自身にも、自分の父親が誰であるのかは見えなかった。
判っているのは、ルクィントス王は彼の本当の父ではなく、王は彼の母を、真実妹として愛していたという事実だ。
「父上」
ユリウスは静かに言葉を続けた。
「私にとって、父上はあなた一人です。ですが、父上にとっては、私は甥でなければなりません」
「……」
ルクィントス国王は打ちのめされたように、両手で顔を覆っている。
ユリウスの母・エリーザの死が入水であったこと、実の父親が不明であること、ましてや、彼が国王とその妹姫との子だという忌まわしい醜聞など、たとえ身に覚えのない噂でもユリウスの耳には入れたくなかった。
「私は父上が私の本当の父ではないことを知っています。私の母を妹として愛しておられたことも知っています。ですが、王宮内では……」
「もうよい、ユリウス。それ以上申すな」
掠れた王の声を聞き、ユリウスは口をつぐんだ。
「……私は父上を、実の父以上に敬愛しております。いつでも、どこにいても」
そして、静かに立ち上がる。
「失礼いたします」
顔を上げることもできず、じっと黙したままの王に一礼して、ユリウスはそっと執務室をあとにした。
* * *
自室へ戻ったユリウスは、ふと、窓辺へと寄った。
今日も天気がいい。
大きな窓の外は露台となっており、青々とした大樹が茂っている。
その樹の上に、金褐色の髪を双髻に結った少女がいた。
「ディディル?」
少女ははっと太い枝の上から露台にいるユリウスを振り仰いだ。
「ユリウス様」
この幼い方士は樹上を好む。
空が好きだからだ。
彼女はよく職務の合い間に、こうして樹の上で空を眺めていた。
「夕べも木に登って、星を見ていたね」
「ユリウス様には何でもお見通しなのですね」
彼女は枝を伝って、ユリウスの部屋の露台へ移ろうとしたが、
「そのままでよい」
と、ユリウスは彼女の動きを制した。
「ディディルは本当に空が好きだね」
「夜空には星が輝き、昼の空にも星が隠されています。星はわたしたちを導きます。空は方士の最大の師です」
ユリウスは軽くうなずいた。
「そなたは夕べ、星に何を見たか?」
さりげない問いであったが、王子の心は無明の闇のように、指針となる明星を求めていた。
ディディルは何の疑念も抱かず、素直に己が読み取った占星術の結果を口にした。
「星が動く、と出ました」
風がディディルの前髪をそよがせ、ユリウスの髪をなぶるように通り抜ける。
考え込むように少し首を傾げて、彼女は言葉を続けた。
「うまく言えませんが、世界を動かそうとしている小さな歯車の一部が動き出すような」
「……」
ユリウスの心の奥にある何かが、風に押されたように微かに揺れた。
それを確かめるように、彼は片手でサークレットに象嵌された黄色い石に触れてみる。
その石は母の形見でもあった。
少女時代のエリーザの気に入りの宝石であったそれを、サークレットに嵌めて、ユリウスは常に身に付けている。
それが精霊の宿り石だとは、エリーザはもちろん、ユリウス以外、誰も知らない。
石に宿る精霊は持ち主を選ぶ。
黄色い石の精霊・黄珠が自らの主に選んだのは、幼き日のユリウス王子であった。
千里眼をして、ユリウスは初めからその石に精霊が宿っていることを知っていた。そして、物心ついた頃から、黄珠は常にユリウス王子とともに在る。
ディディルが思い出したように付け加えた。
「それから、黒き風をつかめ、と」
ふと、ユリウスの睫毛が瞬いた。
「黒き風──」
「はい。意味は解りませんが」
「ありがとう、ディディル」
ディディルは樹の上でにっこりした。が、すぐに尋ねた。
「ユリウス様、大丈夫ですか?」
「何がだ?」
「お命を狙われたばかりでご心労がおありでしょう? わたしの占いが何かお役に立てるでしょうか」
健気な方士をいじらしく思い、そよ風のようにユリウスは微笑した。
「もちろんだ。そなたは優秀な方士だよ」
午後、ユリウスはアウリイの様子が気になって、部屋を出た。
広大な王宮内の中庭を巡る長い列柱回廊を歩き、アウリイの部屋へ向かっていたユリウスは、はっと足をとめて、大きな大理石の円柱の陰に隠れた。
話し声がする。
(父上と……あの声は正妃様か)
石造りの中庭には、方形の大きな石の噴水が水を湛え、涼しげに噴き出される水がいくつもの弧を描いていた。
その噴水のほとりに、ルクィントス国王とアネス正妃がたたずんでいた。
立ち聞きしてはいけないと思いつつ、ユリウスはそこを動くことができなかった。
王と正妃の声は噴水の水音にかき消されがちであるが、大気の精霊が、二人の声をユリウスの耳まで難なく届けた。
「これ以上、わたくしは我慢できません」
アネス妃の声が苛立ちを漂わせて言った。
「アウリイをユリウス王子とともに行動させることを禁じます。陛下もこれをお認めください」
対する王は苦々しく妃の顔を見た。
「それほど、ユリウスが疎ましいか。ユリウスが王太子候補であるからか?」
「それだけではございません。ですが、ユリウス王子を王太子になさる理由も、わたくしには納得できません」
「ユリウスは一国の君主としての器をそなえておる」
「アウリイにはそれがないと?」
「そうは言っておらぬ」
正妃は美しく眉をひそめた。
「ユリウス王子が王位に就けば、内部分裂が起こりましょう」
それは王も危惧していた。
現在のレキアテルの政は、ひとえにルクィントスの手腕によって成り立っている。そして、ルクィントスには母の異なる三人の王子がおり、それぞれに母方の後ろ盾があった。
後ろ盾のない、しかも養子であるユリウスを強引に王座に推せば、王宮内は各王子派、ユリウス派の四派に分かれるだろう。
それでも王がユリウスを次期国王にしたいのは、亡き妹姫と母・王太后の自死に対して己に責任を感じ、贖罪したいからだ。
「──ユリウスには王に相応しい力量がある」
アネスの声が鋭く低く、影を含む。
「本当に、それだけが理由ですの?」
「どういう意味だ」
「陛下におかれては、充分にお解りでしょう」
ルクィントスは沈黙した。
アネスがユリウスを、王と妹姫の不義の子だと思っているのは明白だ。
そのような噂が公然の秘密となっている限り、アネスがユリウスの存在を快く思わないのは当然のことだった。
(賊に襲われたとき、殺されてしまえばよかったのに)
「……!」
不意に悪意のこもった思念が、円柱の陰に隠れているユリウスの心に飛び込んできた。
アネス正妃の内面の声。
「……」
噴水の水が水面にいくつもの波紋を作る。
瞳を伏せ、ユリウスはそっとその場を離れた。
その日の夜、ユリウスは黄珠を呼び出し、精霊の眼を借りて手紙を書いた。
手紙は三通。
養父であるルクィントス国王と、義弟のアウリイ、そして、方士・ディディルに宛てた手紙だ。
時間をかけて、それらを丁寧にしたためると、ユリウスは旅の仕度を始めた。
彼は巡礼のユリウスを思う。
王子ユリウスと巡礼のユリウスは、十九年前、十日の間吹き荒れた激しい嵐のあと、同じ日、同じ時刻に、同じ妖霊星のもとに生まれていた。
そして、同じ名を持ち、ともに父親がいない。
幼い頃から己の千里眼で実の父の姿を捜していた王子ユリウスだったが、今は確信していた。
己に父は存在しない。
母・エリーザは純潔のまま身ごもったのだ。
そう、全ては巡礼のユリウスと同じ。
「黄珠、眼をありがとう。旅の仕度とはこのようなものでいいだろうか」
「はい。あとは馬があれば。けれど、王子……」
黄珠は躊躇いを表に出すことなく、静かに、淡々と問おうとした。
その言葉をユリウスが遮る。
「宮殿を出よう、黄珠。ここに私の居場所はない。黒き風を──巡礼のユリウスを追う。彼は私自身だ」
ユリウスの声も静かで落ち着いていた。
だが、そこには深い慟哭があった。
大陸暦一〇一九年九月、ユリウス王子はメディオラの王宮を去ることを決断した。
霊峰群。
星々のきらめく深夜、山中で野宿をしている淡い金髪の青年の傍らに、ふわりと、一人の娘の姿が現れた。
夜目にも美しいアイス・ブルーの髪と、青い瞳。
白い顔に星明かりを受けて、青珠は気遣わしげに眠るユリウスの肩にそっと手を置いた。
黒衣をまとうユリウスの長い睫毛がまばたき、ゆっくり瞼が開かれる。
「……青珠?」
「わたしを呼んだ? ユーリィ」
「いいや」
心配げな青珠の顔を見て、ただならぬものを感じ、ユリウスは身を起こした。
「誰の心の声を聴いたの?」
「あなたによく似た声。……哭いていたわ」
星が動き出す。
もうひとつの星に、巡り会うために。
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2018.7.29.