“鍵”を探す山師
4.
宿屋の自分の部屋に戻ってきたユリウスは、別にだるそうでもなんでもなかった。
「青珠」
彼が青い石の精霊を呼ぶと、青珠はすぐにそこに姿を現した。
「麦酒はどうしたの?」
「飲んでない。ここだ」
ユリウスが手に取ったのは、昨夜のうちに天狼師が空にした酒壺である。
今朝は確かに空だった酒壺には麦酒が入っていた。飲んだふりをして、術を使い、密かにゴブレットの麦酒をこの酒壺に移したのだ。
「眠り薬を盛るとは古典的な。手際だけはよかったけどね。あんな子供騙しに引っかかると思われるなんて、心外だな」
「面白い人物ね、あの人」
「どこ?」
「その荷の中。パピルス紙で包んであるわ」
くすくす笑う青珠の前を横切り、ユリウスは天狼師の荷物に手を掛けた。
荷の中にパピルス紙に包まれた植物の根と実を見つけ、ユリウスは呆れた。
「マンドラゴラじゃないか。何でこんなもの持ってるんだ」
「魔道師だからじゃない?」
「山師だからだろう?」
「ほんと、おかしな人間ね」
青珠は楽しそうだ。
マンドラゴラの実には睡眠作用がある。
それを麦酒に混ぜてユリウスに飲ませ、天狼師が何をしようとしたか、歴然としていた。
ユリウスはため息をついた。
「じゃあ、老師の期待に応えて、僕は眠るよ」
「おやすみなさい、ユーリィ」
面倒そうに寝台に横たわるユリウスを面白そうに眺め遣り、青い石の精霊は姿を消した。
朝食を終えて、ほどなく部屋に戻ってきた天狼師は、足音を忍ばせ、そろそろと扉を開いた。
「……」
部屋は静かだ。
ユリウスは寝台の中でぐっすり眠っているように見えた。
「ユリウス」
微かな寝息が聞こえた。
「おおい、ユリウス。寝ておるか?」
返事はない。
天狼師は安心した様子で部屋に入って、扉を閉めた。
「さーて。青い石はこれか」
寝台に横たわるユリウスの左耳に付けられたままの耳飾りを覗き込み、天狼師は目を細めた。
優雅な燻し銀の細工の中に深い瑠璃色の石が象嵌されている。
「うむ。美しい石じゃ」
おもむろに手を伸ばし、ユリウスの耳から青い石の耳飾りを慎重に外す。
金髪の若者は静かに眠ったままだ。
「よしよし」
口の中でつぶやきながら、老人は、次いでユリウスの荷にまで手を伸ばした。
「ほう、あるある。では、ありがたくいただいていこうかの」
宿から出された礼金を含め、ユリウスの財布を彼の荷物から抜き取った天狼師は、満足げにほくほくと自分の荷をまとめ、宿の部屋を出ていった。
もちろん、宿代も払う気などないのだろう。
部屋の扉が閉まり、老魔道師の足音が遠ざかってから、寝台の中でユリウスは眼を開けた。
「青珠、頼む」
<ええ。待っててね>
透き通った声が、彼に答えた。
枸橘亭を出た天狼師は、山を登る道へと向かっていた。
昨日の親子との約束の、子供の名を記した奉納品を納めるために、霊峰群にある山の神の神殿へはとりあえず行くつもりらしい。
荷を入れた大きな革袋を担ぎ、太い杖をついて、ご機嫌で鼻歌を歌いながら歩を進める天狼師の後ろを、やや低めの、透き通った若い娘の声が呼びとめた。
「天狼師」
「はん?」
振り向くと、そこには天上のような色の碧羅をまとった、青い瞳のうら若い美しい娘がいた。
長い蒼い髪は後頭部に結い上げて、背に垂らしている。
羅をまとうその姿は村人や巡礼の者たちの中にあっては場違いな印象が強い。
旅人ではないし、この村の娘でもなさそうだ。
手に何か持っている。
天狼師は眼をぱちくりさせた。
「老師、お忘れ物です」
「なんじゃ、そなたは」
「ユーリィの使いです」
「ユーリィ? ユリウスのことか? そなた、ユリウスの何なんじゃ」
盗みを働いたことを忘れてしまったかのような、空惚けた天狼師の言い草であったが、蒼い髪の娘は清流のように微笑してみせた。
癖のない長い髪を山の風がさらさらと揺らせる。
「あなたの持っている耳飾り。それは、わたしの耳飾りです」
「なんじゃと?」
慌てて天狼師が懐を探り、手に当たった耳飾りを取り出してみると、それは青い石を嵌めた燻し銀ではなく、華奢な銀細工だった。
「返していただけます?」
呆然とする天狼師の手にあるのと同じ耳飾りが、確かに娘の右の耳にも揺れている。
「あ……ああ、ほれ」
狐につままれたような表情の天狼師が、手にした耳飾りを娘に返す。
受け取った娘は片手でそれを器用に己の耳につけた。
「それから、これ」
「なんじゃ、わしの財布ではないか!」
娘が手に持っていたものを差し出すと、天狼師は唖然となった。
「あなたのお忘れ物ですよね?」
財布と、そして、マンドラゴラの実と根を包んだパピルス紙。
「宿代の半額分は抜いてありますけど。ユーリィの財布と交換していただけます?」
「……」
もはや、言葉もない。
何が起こったのか理解が追い付かないまま、天狼師は機械的に自分の財布とマンドラゴラの包みを受け取り、懐から取り出したユリウスの財布を娘に渡した。
「確かに」
中をあらためた娘がにっこりと天狼師にうなずいてみせた。
「それでは老師。どうぞ、お気をつけて」
「はあ」
老魔道師はぼんやりとつぶやく。
あの耳飾りは、確かにユリウスの耳から直接この手で外した。
そう、確かに、青い石が象嵌されていた。
それから。
突然、我に返った天狼師は、己の荷物をどさりと地面に下ろすと、乱暴に中を確かめた。
そして、その荷を穴のあくほど見つめた。
ない。
財布とマンドラゴラが。
彼は蒼い髪の娘から渡された財布とマンドラゴラの包みを、まるで、初めて目にした品々のようにじっと見つめた。
ユリウスは老魔道師がマンドラゴラを持っていたことを知っていたのか?
麦酒は?
眠っていたのは?
眠ったふりを、していたのか。
天狼師ははっと気づいた。
「小僧め……!」
あんな若造にこの自分が手玉に取られるとは──
「く……くっくっく」
天狼師はさも可笑しそうに笑い出した。
老人の財布とマンドラゴラは、出発前、すでに荷物から抜き取られてあったのだ。
耳飾りは盗まれることを予測して、あらかじめ、この娘のものと交換して、目眩ましをかけていたのだろう。
こうまで鮮やかにしてやられては、毒気を抜かれてしまう。
ひとしきり哄笑し、天狼師は己の財布を懐に入れ、マンドラゴラの包みを荷の中に戻して革袋の中に荷物をまとめた。
「ところで娘さん──」
振り向くと、娘の姿はなく、そこに人のいた気配すら消えていた。
「……?」
見通しのいいこの道を行く疎らな人の流れは途絶えていない。
ただ、娘の存在だけが忽然と消えている。
「ま、まさか」
蒼い髪、青い瞳──
碧い羅をまとっていた──
「まさか、わしは、宝珠に宿る精霊を、この目に見たのか──!」
天狼師は愕然とターコイズの色をした眼を見張った。
昨日、伝説の四宝珠のひとつ、青い石を間近に見た。
そして今、珠精霊の一人、青い石の精霊と言葉を交わした。
信じられない現実であった。
ユリウスが精霊を使いに寄こしたのは、悪戯心だったのか、天狼師に夢の欠片を見せてくれたのか。
「綺麗な顔をして、とんだ食わせ者じゃったな」
愉快そうに、天狼師は口角を上げた。
「……いつかまた、会いたいものじゃ」
青い石の精霊に? ──それとも。
荷を入れた大きな革袋を担ぎ、杖をつき、踵を返した老魔道師は、山の神の神殿を目指して歩き出した。
なぜか、無性に気分がよかった。
山の空気は澄んでいる。
果てしなく蒼穹は続く。
頭上に広がるその晴れた空の青は、青い石の精霊であろう先程の娘を思わせた。
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2018.8.13.