“鍵”を探す山師
3.
「ちょっと待ってください。なぜ、相部屋なんですか」
「解らん奴じゃな。一人部屋を二部屋借りるより、二人部屋を一部屋借りるほうが、割安じゃろ?」
「……料金はちゃんと二人で割るんでしょうね?」
ここが今晩泊まる部屋だと天狼師に連れてこられた部屋を見て、ユリウスは訝しげに老魔道師を眺め遣った。
「当たり前ではないか。わしがそんないい加減な人間に見えるかの?」
「見えないと思ってるんですか? 朝早く、僕が眼を覚ます前に姿をくらましそうです。もちろん宿代を僕に押し付けて」
天狼師は咳払いした。
「あ。いや、そんな底の浅いことはせん。うむ。そんなあけすけに言われてはな」
「──やっぱり」
ユリウスは吐息とともに天井を見上げ、自分の荷を片側の寝台の枕元に置いた。
「解っていると思いますけど、盗みも駄目ですよ。──路銀も青い石も」
さすがに情けなさそうな顔をして、天狼師は口を尖らせた。
「わしを何だと思っとるんじゃ? そこまで落ちぶれてはおらんわい」
「はいはい、安心しました」
山の生活は朝も夜も早い。
ユリウスは早々に夜具の中にもぐりこんだが、一方の天狼師は枕元の小さなランプに灯りを点し、半ば独り言のように語り出した。
「“妖霊星が輝く夜、天の門と地の門はひそやかに口を開ける”」
天狼師は音吐朗々と誦した。
「古い文献に記されていた言葉じゃ」
薄暗い部屋の中、天狼師は寝台に腰掛け、どこからかくすねてきたらしい小振りな酒壺を手に、ランプの灯をそのターコイズの瞳に映していた。
「そこでわしは考えた。自分の手で、天の門と地の門を開くことはできぬだろうかと」
「その門とやらを開いて、どうするつもりですか」
「決まっておる。わしは異界が見たいのじゃ。この世ならぬ世界へ自由に出入りする──魔道にたずさわる者の見果てぬ夢じゃ」
魔道士ではないユリウスには、そのようなことをして何になるのか解らなかった。
「今が沈黙の時代であることは知っておろう」
「……」
千年ほど昔、大陸に沈黙の封印が施されたことにより、それまで跋扈していた魔物たちが封じられ、人間中心の世の中になった。
それが沈黙の時代だ。
「ラウルスという名を聞いたことはあるか?」
「いえ……」
「大陸に沈黙の封印を施したといわれているのが、そのラウルスという名の賢者じゃ。ある文献には、ラウルスのものとされる言葉が残されておる」
「千年以上も前の賢者の言葉が残されているのですか」
「そう。わしはすっかり暗記しておる。──こうだ」
学者の眼差しで、天狼師は古き文献を暗誦した。
「“千年の後、封印は解かれる。封印の解かれた世を正すため、我は天の門から天の御子を、地の門から地の御子をこの世に送り出すだろう。二つの門は目には見えぬ。妖霊星が輝く夜、天の門と地の門はひそやかに口を開けるのだ──”」
天狼師は酒壺の酒をひとくち含んだ。
「最も新しき妖霊星が出現したのは、今からおよそ二十年前──」
「正確にはまだ二十年経っていませんよ。十九年と少しです」
ユリウスが遠い声で訂正した。彼にとって、それは重要な事柄なのだ。
「そんな細かいことは、まあよいわい」
酒壺を枕元に置いた天狼師の、その老いた顔の中で瞳だけが生き生きと輝く。
ユリウスはそっと寝返りを打って老人に背を向けた。
「そなたなぞ、まだ生まれていたかどうかという頃じゃな。……この世の終わりかと思うような激しい嵐が、十日間も吹き荒れた。うむ。あれは、今でも魔道士どもの間では語り草じゃ」
「──」
「そして、忘れもせん、嵐のやんだそのあと、妖霊星は夜空にその姿を現した」
そう、忘れもしない。
どうして忘れられよう。
目にしたはずもないその光景を、ユリウスははっきりと脳裏に描くことができる。
母・フィーテと、彼自身にとっての運命の夜。
妖霊星の顕現したあの夜こそが全ての始まりだったのだから。
「わしが探し求めているのは、その夜、天の門と地の門から出現した人物じゃ。彼らは間違いなく、異界からこの世に使わされた天の御子と地の御子。二人の御子の力で、再び妖霊星を招き、天と地の門を開けさせるのがわしの見果てぬ夢──」
熱を帯びた天狼師の独白を子守唄代わりに、ユリウスは眼を閉じた。
妖霊星の定めに生まれた彼──
彼もまた、天狼師の言う“鍵”となる人物に出会うことができれば、己の生きる意味を少しでも理解することができるのだろうか。
「そして彼らが異界へ帰るとき、わしは──わしもまた、彼らとともに異界へおもむくことができるじゃろうか……」
翌日の朝。
少し寝坊したユリウスが目覚めたとき、部屋に天狼師の姿はなかった。
天狼師が使っていた寝台の枕元の卓子には、空になった酒壺が放置されていた。その寝台に、青い石の精霊が座ってユリウスを見ていた。
「天狼師は?」
「さっき出ていったわ。でも、彼は何も盗っていないわよ」
まだね、と笑って青珠が指し示す場所に、天狼師の荷物が無造作に置かれている。
「……楽しそうだね、青珠」
「あなたが他人にペースを乱されるなんて、滅多に見られるものじゃないもの」
ユリウスは憮然とため息をつき、
「おまえに貸してほしいものがある」
「なに?」
ユリウスは無言で青珠の装身具を指差した。
ユリウスが枸橘亭の食堂で朝食を取っていると、天狼師がほくほくとした様子でやってきた。
「さて、わしも朝飯にするかの」
「ご機嫌ですね、老師」
おもねるようにユリウスが声をかけると、天狼師はほっほっと笑い、
「あの親子に、わしが代わりに山の神に詣でて進ぜると申し出たんじゃ」
「で?」
「よろしく頼むと子供の名を記した奉納の品と礼金を渡された」
ユリウスは苦笑した。
「転んでもただでは起きませんね」
「何を言う。親切でやっておるんじゃぞ?」
ユリウスと同じテーブルについた天狼師は、給仕を呼び、朝食を注文した。
「おお、それと、麦酒二つ」
「老師、朝から呑むんですか?」
「景気づけじゃ。そなたにも一杯奢ってやろう」
「遠慮します。あとが怖いですから」
「面白みのない奴じゃのう」
料理と一緒に麦酒のゴブレットが二つ運ばれてくると、天狼師は待ちきれないようにそれを両手で受け取り、テーブルに置いて、その一つをユリウスのほうへ押しやった。
「ほれ、ぐいっといけ、ぐいっと」
「……やれやれ」
食事を終えたユリウスはゴブレットを手に取り、軽くかかげる。
「いただきます」
「やっぱり、人生これがなくてはのう」
天狼師が美味しそうに麦酒を飲むのを眺め、ユリウスもゴブレットに口をつけた。
そのとき、ちょうど食堂を通り掛かった宿屋の主人が、巡礼の黒衣を認めてやってきた。
これからユリウスの部屋へ行くところだったらしい。
「ああ、ユリウスさん。ちょうどよかった。これは少ないが、礼金だ。ありがとうよ」
「恐れ入ります」
革の袋に入れられた礼金を、ユリウスは悪びれることなく受け取った。
テーブルの下から、向かい側に座る天狼師が爪先でユリウスの足を小突く。
「ほれ、半分わしによこさんか」
「あなたはもう前金ふんだくってるんでしょう? これは僕に権利があります」
天狼師は露骨に顔をしかめた。
「憐れな年寄りが旅先で路頭に迷ってもよいのか?」
「僕にだって路銀は必要です!」
そう言ったユリウスは、ふと、眩暈を覚えたように額を押さえた。
「どうしたんじゃ?」
額を押さえ、顔を伏せたまま、ユリウスは低い声でつぶやいた。
「失礼。……少し眩暈が」
「山酔いかの」
「僕が……? まさか。ちょっと部屋で横になってきます」
ユリウスはだるそうに立ち上がった。
食事を始めた天狼師が、ひょいとユリウスのゴブレットの中を覗いて言った。
「この程度の酒で酔っ払ったんじゃあるまいな。少し眠れば治るじゃろ。山酔いなら、山を下りれば治まるぞ」
「解ってますよ」
口の減らない老人だ。
だが、なぜか憎めない人物であった。
2018.8.7.