黒曜公

1.

 ここはどこだろう?
 リリアは、何度もその問いを発したが、誰もそれに答えてはくれなかった。
 昨夜、この家に連れてこられた。
 町の中心部に近い、小さな家だった。
 身なりのいい若い男の手で連れ出されてここまで案内され、彼女の身は、この家で中年の女性の手にゆだねられた。
 そしてこの日の朝、彼女は湯浴みをし、美しく化粧を施され、こざっぱりとした衣裳に着替えさせられた。
 そして、今ここにいる。
 この部屋は?
 誰かを待っている。
 ──誰を?
 今、彼女とともにいるのは老婆だった。
 彼女の世話を焼いてくれた中年の女性の姿はいつの間にか消えていた。
 リリアは、今、隣に座っている、腰の曲がった小柄な人物をさりげなく眺めた。
 その人物は、目を凝らせば透けて見える薄手の面紗をすっぽりと頭からかぶり、さらに気味の悪い仮面で顔を隠していた。
 皺だらけの手と、しわがれた声から、老婆であると判別できた。
 どれくらいの時間を待っただろう?
 不意に扉が開いた。
 現れたのは、白一色の衣裳に身を包んだ堂々たる長身の男だった。
「待たせたかな、ガデライーデ」
 精悍な印象の強いその男は、躍動感のある声で老婆に話しかけた。と同時に老婆が立ち上がり、男に一礼する。
「いえ、我が君様。お忙しいのは承知しております」
 男の視線がリリアに向けられた。
「おまえが見つけてきたのは、この女か?」
「はい。これ以上、理想にかなう女はいないのでは……」
 二人の会話を聞き、昨夜来、自分の面倒を見てきた全ての人間の主人がこの男だと判断したリリアも立ち上がった。
 緊張の面持ちで男の若々しい顔を見つめ、口を開いた。
「旦那様が、あたしを身請けしてくれたのですか」
「身請け?」
 長身の男が怪訝な表情を見せると、すかさずガデライーデが言葉を添えた。
「とある妓館で見つけてきた娼妓でございます」
「ふん」
 男はさげすむような眼で女を見た。
「名は?」
「リリア」
「歳は」
「十七です」
 女は、滅多にいないほどの佳人であった。
 豊かに波打つ淡い金髪。憂いのある紺碧の瞳。
 彫像のように整った繊細な美貌。
 背は高からず低からず、ほっそりと華奢な肢体。
 幾分、蒼白く病的ではあるが、陶器のような滑らかな肌──
 それは、娼妓とは思えぬほどの初々しい清らかさであった。
「なるほど、なかなかの美女だな」
 リリアは問うように老婆のほうを見た。
「このお方は白い都の太守閣下じゃ」
「! ──冬、将軍……!」
 リリアは大きく眼を開いて絶句した。
 白い都は、都市国家としては大陸最大の規模を誇る。
 それは、堅固な城塞都市であり、都市国家でありながら、大帝国タナトニアにも劣らない軍事力を有するとの噂もあった。
 その都の太守である、冬将軍──
 都市国家の太守ということは、そこの元首、執政官だ。
 彼の本名は誰も知らず、ただ、“冬”と──そう呼ばれていた。
「私の名は知っているようだな」
──し、白い都の冬将軍の名を、知らぬ者がおりましょうか」
「ふん……悪名高い、というところかな」
 唇をゆがめてにやりと笑うと、冬将軍はぐいとリリアの顎に手を掛け、彼女の顔を上向けさせた。
「おまえは私直属の密偵となり、黒曜公のもとに潜入してもらう」
「密偵……? あ、あたしが?」
 思いもかけないその言葉に、リリアは驚愕して冬将軍の手を振り払い、反射的に一歩後退さった。
「あたしはただの妓女。春を売るのが仕事です。そんな──密偵なんて……しかも、黒曜公というのは、あの、黒曜公国の君主のことでしょう?」
「大枚を出しておまえを買ったのは私だ。おまえをどう使おうと私の自由だ」
 リリアには困惑の表情が見られた。
「旦那様は、あたしを側女にするために身請けしたのではないのですか」
「馬鹿な!」
 冬将軍は嘲るように哄笑した。
「妓館から遊び女を買い上げるほど女に不自由はしておらぬ。それとも、もとの妓館に戻りたいか?」
 リリアは唇を噛んだ。
 ──もとの生活。
 ただ男に媚を売るだけの毎日。来る日も来る日も躰を売って……
「あたしに……どうしろとおっしゃるの? 密偵なんて大それたこと、あたしにできるはずがないわ」
 リリアは泣き出した。
 泣くことは彼女の手管のひとつであったが、このときばかりは演技でなく、本当に困惑して涙があふれてきた。
 両手に顔をうずめて泣くリリアの傍らにガデライーデが近寄り、申しわけ程度に彼女の背中をさすった。
 なぐさめようとしてくれているのかしら──とリリアは混乱した頭の片隅でちらと思った。
 しかし、冬将軍のほうは彼女が泣いていようが一向お構いなく、その態度はおろか、表情ひとつ変えなかった。
「詳しい指示はこのガデライーデから聞け。黒曜公に関する一切は、ガデライーデに任せてある」
 リリアは涙に濡れた眼を傍らの老婆に向けた。
 老婆はリリアにやさしくうなずいてみせた。
「大丈夫。簡単な仕事じゃ。おまえは黒曜公のもとに行き、公の身辺であるものを探す。それだけじゃ。それが見つかれば、わたしに知らせればよい。そのあとは、おまえは晴れて自由の身じゃ」
「自由の身……?」
「白い都の一市民としての権利が与えられよう」
「市民になれるの……? 娼妓なんかじゃなく、ちゃんとした市民に──
 リリアは驚いた。
「市民の権利が得られるの? あたしの両親は奴隷だったのよ」
「おまえの生まれは関係ない。それはおまえの働きに対する正当な報酬じゃ」
 その言葉の意味が解らないように、リリアはしばらく呆然としていたが、やがて、冬将軍とガデライーデを交互に見て、きっぱりと言った。
──やるわ。まだよく解らないけど、あたし、自由になれるなら」

 この家を管理している中年の女性に、今後のリリアに必要なものを用意するよう、ガデライーデは細かく指示を与えた。
 冬将軍は食堂で遅い昼食を取りながら、そんなガデライーデの様子を眺めていたが、彼女が一通りの指示を終えて自分の傍らに戻ってくると、ワインを勧め、簡潔に、気になっていたことを口の端に掛けた。
「あんな女で役に立つのか──? まるで素人ではないか」
「わたしの読みに間違いはありませぬ」
 ガデライーデの情報網には、冬将軍も一目置いていたので、彼はそれ以上のことは言わなかった。
 金髪で碧眼の女がいい──
 ガデライーデはそう言った。
 何人もの金髪碧眼の美女が首実検にかけられた。
 そして、あちこちを探し歩いた結果、ガデライーデの目に最もかなったのが、リリアなのだ。
 まさか、自分の髪や眼の色が、美しく整ったその容姿が、密偵に選ばれた重要な要素であったなどとは、リリアは夢にも考えなかった。
 そして、彼女は冬将軍の密偵として、黒曜公国へ送られることとなった。
 それは大陸暦一〇一九年の春のことであった。

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2005.2.11.