黒曜公

5.

「大変だ! ヴァントラ王国の国王が自分の息子に殺された!」
「その王子が、次のヴァントラの王様になったそうだ!」
 町の人々があちこちの往来で叫ぶその内容を聞きとがめたユリウスは、立ち止まり、声のするほうを振り返った。
 町を駆け巡るその噂は、その町の憲兵たちから洩れた情報らしかった。
 小さな町だ。
 情報は、刺激の少ない小さな田舎町に瞬く間に広がった。
 町から町へ、ヴァレシナク街道を伝わって、ヴァントラ国王暗殺の知らせは、さらに南方の町や村にも広がっていくだろう。
 ここは、ヴァレシナク街道沿いにある小さな町であった。
 ヴァレシナク街道を南下していたユリウスは、ヴァレシナク南の終点に当たるオスリア王国のウェネリヤ市へ向かって、順調に巡礼の旅を続けていた。
 昨夜、この町に宿を取り、これからまた街道に出ようとしていたところだ。
 興奮した町の人々が口々に何かわめいている。
 そんな様子を少し離れた場所から見ていたユリウスは、物憂げに、
「ヴァントラ王国」
 と、ぽつりとつぶやいた。
「……あのとき通った国ね」
 ユリウスの背後にすっと青珠が現れた。
「青珠」
 二人の脳裏には、今は亡きある娘の名がよみがえったが、ユリウスも青珠も、その娘の名を口にはしなかった。
「王子の謀叛は、成功したんだ」
「ええ」
「あのときの王子……確か、ラナルズールといったな。ラナルズール王の誕生か」
「王子は、目的を果たしたのね」
 一人の娘の落涙の上に。
 そして今回のクーデターで、さらに幾人かの人間が無念の死を遂げただろう。
 ユリウスの眼差しはどうしようもなく儚げに見えた。
「ある王国の君主が替わった。それだけのことだ。……そしてそれは、僕には関係のない世界の出来事」
「ユーリィ」
「世の中がどう変化しようと、僕は僕自身の生きる意味を求めて、巡礼の旅を続けるだけだ」
 突然、ユリウスが自分から離れていってしまうような感覚に捕らわれて、青珠は、出し抜けに背後からユリウスの肩を抱きしめた。
「ユーリィ、わたしは変わらないわ。わたしは永遠にあなたの守護者よ」
「どうしたんだ、青珠? いきなり」
 唐突な──それも真剣な口調の青珠の言葉に、ユリウスはやや面食らったように笑ってみせた。
「永遠なんて、おまえにはあっても、僕にはないよ。……でも、嬉しいよ」
 ユリウスは青珠に向き直って、その華奢な肩をあやすようにぽんぽんと軽くたたいた。
「さあ、行こうか、青珠」

 黒い都の黒耀城の回廊を、ユリアは人目を忍ぶように歩いていた。
 黒曜公国へ来る前、ガデライーデが言った言葉──それは、今でも一言一句間違えることなく思い出すことができる。
 黒曜公の身辺で“あるもの”を見つけさえすれば、彼女は自由の身になれるのだ。
 ガデライーデは言った。
「“地のペンタクル”と呼ばれる緑色の石を嵌め込んだ大きな金貨じゃ。鎖がつけられ、首飾りになっておる。今は石だけが金貨からはずされていることも充分考えられるが、その石には他の石にはない特徴があってな」
「特徴?」
 ガデライーデはうなずいた。
「一見、宝石のようにも見えるかもしれぬが、その石は宝石ではない。石の中に五芒星が刻み込まれているのじゃ」
「五芒星? 石の中に?」
「そう。その石を探すのじゃ。五芒星の刻まれた石。見ればすぐ判る」──

 ユリアはそっと黒曜公の寝室の扉を開けた。──無人である。
 五芒星の刻まれた石。
 それは、おそらく余人の近づかない場所に厳重に保管してあるに違いない。
 ユリアは後ろ手に扉を閉めた。
 まずは石が象嵌されているという首飾りになった金貨を探そう。
 金貨が見つからなければ、石だけが取り外されているかもしれないから、宝石箱の中なども……
 目的は金貨ではなく、その緑の石なのだ。
「ユリア、何をしているのだ」
 不意に背後から大きな声が聞こえ、ユリアはびくっと身体を震わせた。
 強張った表情で恐る恐る振り返る。
「セラフィム様」
「私の部屋で何をしている」
「え……あの、お掃除を」
「掃除? この部屋の掃除はリデオンの仕事だ」
 セラフィムは探るような瞳で怪訝そうにユリアの顔を見遣った。
「リデオンに頼んで、替わってもらったんです。あたし、何か仕事がしたくて」
「おまえにはおまえの仕事があるだろう」
「あたしの仕事はあまりにも楽なので、何か申し訳なくて……」
「何を言っている。誰が何をするか決めるのは私だ。勝手なことをするな」
「……はい。申し訳ございません」
 しゅんとするユリア。
 その、あまりにも解りやすい反応に、セラフィムは苦笑した。
 ──こんな女にまともに腹を立てるのは馬鹿馬鹿しい。
「まあよい。ユリア、おまえの歌が聞きたくなった。晩餐のあと、リラを持って私のところへ来てくれ」
「……はい」
 ユリアを部屋の外へ追いやってから、セラフィムは寝室の西側の窓辺に寄った。
 広い寝室は、黒大理石がふんだんに使われ、黒を基調に荘厳なイメージでまとめてあった。
「金髪の女を何人集めようと、面影の似通った碧い眼の女を手に入れようと、所詮、皆、別人。おまえの代わりにはならない──おまえではない」
 窓の外に向けられていた視線が自らの右手へと動き、菫色の瞳が翡翠の指輪を映した。
 その指輪に、セラフィムはそっと口づける。
「ユリウス──おまえの面影は手に入れた。次はおまえの心と魂だ。必ず、おまえをおれのもとへ引き寄せてみせる」
 そうつぶやいたセラフィムの口許に揺蕩う妖しい笑みは、どこか冷たく、悪魔的だった。
 窓の外に広がる美しい夕焼けの空が、なぜか血の色に見えた。

 不意に、ユリウスが空を仰いだ。
──
 そんなユリウスを、青珠が訝しげに見遣る。
「どうしたの、ユーリィ?」
「なんだろう? ──何かが心をよぎったんだ」
 剣と、
 酒と、
 流れた血。
 そして、彼の名は──
「セラフィム……」
「え? 何て言ったの?」
 ユリウスははっとした。
「いや、何でもない。昔のことだ」
 心配そうな青珠に微笑みかけ、歩き出そうとして、ユリウスは赤く染まる西の空に気づいた。
「そろそろ今日の宿を探そう。日が暮れる」

 陽が沈む。
 大陸の空が赤く染まる。
 色鮮やかな夕焼け──
 黒い都の黒耀城で。
 白い都の塔の上で。
 そして、ヴァレシナク街道で。
 それぞれの地で見る夕焼けは、同じ──血の色だった。

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2005.2.17.