告死天使
1.
ばたん! と鼻先で扉を閉められた。
「やれやれ……」
これで何軒目か。
「嫌われちゃったわね、ユーリィ」
ため息をつくユリウスの背後にふわりと現れた青珠が、面白そうに言った。
「おかしな町だな。なぜ、巡礼者を嫌うんだ?」
「つまり、巡礼者でなければ泊めてくれるということよ」
悪戯っぽく笑い、青珠は次の宿屋を目指した。
オスリア王国・ウェネリヤ市。アプア街道とヴァレシナク街道の交点としての要所である。
街道上の主要都市だ。宿屋は多い。
青珠の言葉通り、ユリウスは姿を見せず、青珠一人で宿を頼むと、あっさりと部屋を取ることができた。
「連れは遅れて来ると言っておいたわ」
「うん──しかし、何なんだ、この町は」
宿の人間に見つからないようにこっそりと建物の中に入る。部屋に落ち着くと、荷物を床に投げ出し、不機嫌そうにユリウスは窓の外を見た。
「ごらん、もう外は真っ暗だ」
青珠はくすくすと笑った。
「気を取り直して食事に行きましょう。でも、その黒衣では駄目ね。宿から別の服を失敬してくるわ」
どこから調達してきたものか、二人分の衣裳を、青珠は持ってきた。
巡礼ではない、一般の民衆の扮装をしたユリウスは、凛々しい町の青年になった。それでもやはり、彼は美しい。人間に身をやつした女神のように。
左耳に紺瑠璃を嵌めた耳飾りだけが変わらず揺れていた。
ユリウスに合わせ、青珠もまた、いつもの碧羅ではなく町娘の衣裳を身に着け、二人は宿の食堂におもむいた。
どこにでもいる町の青年と町の娘の二人連れ。
だが、いずれも美しい彼らはその場にいる人々の目を否応なく惹いた。──人間の恋人同士に見えるかな、と、ふと思ったユリウスの口許に微笑が揺れる。
喧騒を避け、二人は食堂の一番奥の隅の席に着いた。
注文を取りにきた娘に夕食と葡萄酒を頼む。
料理が運ばれてくるまで、二人は黙ったままだった。
人間の衣裳を身にまとった青い石の精霊は、何かに心を奪われてでもいるように、ユリウスから視線を外したままだった。
「ねえ、青珠。ウェネリヤは昔からこうなのか?」
テーブルに料理が並べられ、給仕がさがると、沈黙に耐え切れなくなったようにユリウスが口を開いた。
夢見るような青珠の眼差しがユリウスに向けられる。
「なぜ、この町は巡礼者を嫌う?」
優雅にパンをちぎって口に運ぶ青珠は、微かに微笑んで、肩をすくめてみせた。
「嫌われているのは巡礼じゃないわ。黒い衣よ」
木の匙を持つユリウスの手がふと止まった。
「衣?」
「この辺りに、告死天使が現れたようね」
「……!」
「また、間違えられちゃったわね」
ユリウスがその名を耳にするのは二度目だった。
霊峰群で迷い込んだ、あの幻の村から戻ったときに青珠がつぶやいた名前。
「告死天使が現れた──ということは、殺人があったってこと?」
青珠はうなずいた。
「もしくは、これから起こる」
「……」
「町の人が黒衣の人物を警戒しているのはそのためよ」
では、近く殺人が起こるという懸念があるのだろうか。
──人が死ぬところなんて見たくない。
黒衣のせいで巻き込まれるのもたくさんだ。
この町は早く発ったほうがいいかもしれない。
やや表情を曇らせたユリウスが葡萄酒のゴブレットに手を伸ばすと、向かいに座る青珠と視線が合った。
いつになく心ここにあらずといった様子の青珠が癇に障った。
情報を集めるという青珠を残し、ユリウスはひと足早く部屋へ戻った。
告死天使。
その名に、ひどく不安を覚えるのはなぜだろう?
青珠は何かを知っている。そして、隠している。
石の持ち主である自分にも言えないことなのか。
小さくため息をついたユリウスの目が、ふと、足許に落ちている小さな黒い物体を捉えた。
「……?」
拾ってみると、それは黒真珠であった。
ユリウスには生まれながらにして不思議な力がそなわっていた。その力をして、彼は黒真珠が青珠の落としたものであることを一瞬にして感知した。
青珠と──だが、もうひとつ、別の誰かの念をも感じる。
「黒……漆黒の衣をまとった男……」
ユリウスははっとした。
「告死天使か……!」
穏やかなノックの音がユリウスを振り向かせた。
「ユーリィ? ──どうしたの、怖い顔」
扉を開けた青珠は、怪訝そうに首を傾けながら部屋に入ってきたが、ユリウスの手にあるものを見ると、全てを了解した。
「着替えるときに落としたのね。持ち主を透視してしまった? ……そんな顔だわ」
「これは、おまえのもの?」
「ええ」
「そして、告死天使のもの?」
「ええ、たぶん」
「なぜ、告死天使のものをおまえが……?」
青珠はふっと翳のある微笑を浮かべた。
「霊峰群を通ったとき、拾ったの。それはカルムの黒真珠。そして、カルム島は彼が生まれた島」
「彼──って」
「ロズマリヌス。……それが、告死天使の本名」
「──」
やはり青珠と告死天使に接点はあったのだ。
驚きで何も言えないユリウスの前を静かに横切り、青珠は木の椅子に腰を下ろした。
「ごめんなさいね、ユーリィ。わたしはあなたに全てを話していなかった。でも、全てを話すことが最善だったとは思わなかったのよ」
「おまえは、何を隠してる?」
青珠は青い瞳でユリウスをまっすぐ見た。
「わたしと、ロズマリヌスの関係。彼が──以前、青い石の持ち主であったこと」
「──え?」
それは、ユリウスにとって一種の衝撃であった。
青珠の過去。
青い石の過去の持ち主。
──考えてみたこともなかった。
青い石は自分とともにあり、青珠は自分だけに付き従っているものだと思っていた。これまでも、これからも……
青珠の過去?
二年前、ユリウスが初めて青い石を目にしたとき、それは水神・ネプトゥーヌスの社にあった。
水神の社に納められていた青い石は、ずっと水神の社にあったのではなかったのか。
「わたしはあなたの使い魔。青い石の主はあなた。でも、あなたと出逢う前、ロズマリヌスが青い石の持ち主だったこともまた事実」
ユリウスの無言の反応に、青珠は内心戸惑っていた。
ユリウスの無表情さがこれほど冷たく見えたことはなかった。
「誤解しないで、ユーリィ。わたしはあなたとともにある。これは本心よ。ただ、ロズは以前──」
青珠は唐突に言葉を切って、眼を伏せた。
「──ごめんなさい……」
「……おまえが謝ることじゃない」
ユリウスは冷たく自嘲した。
青い石は自分だけのものだと錯覚していた自分自身が忌々しかった。
それは珠精霊の忠誠を得たという高慢さなのか、青い石に対する独占欲なのか、それとも──
不意に青珠が顔を上げ、ユリウスもはっとなった。
二人は同時に同じ窓を見た。
「感じた? ユーリィ」
「ああ。おまえも?」
突然、重苦しかった室内の空気が緊迫に一変した。
「近い。この方角だ」
2004.5.5.