告死天使

2.

 地上を闇が支配する時刻、だが、室内には充分すぎるほどの蝋燭が灯されていた。
 石造りの、堂々たる大邸宅──その一室である。
 大きな卓子に向かい、広げた羊皮紙の上に静かに羽根ペンを走らせている人物は、このウェネリヤ市の太守であった。
 執務中であろうか、もうかなりの時間、太守は熱心に卓子に向かったままの姿勢を崩していない。──と、卓子の上の蝋燭の炎が、ふと不自然な揺らめきを見せた。
「はて……? 窓は開いておらぬに……」
 さして気にとめるふうもなかった太守だが、次の瞬間、確かな人の気配を背後に感じ、不機嫌な声を出した。
「誰か? 執務中はこの部屋には入らぬよう、申し渡しておいたはず。警護なら、扉の外でせよ」
「お忙しい中、申し訳ありませんが、太守閣下。私の用はすぐに済みます」
 太守は、やや眉をひそめた。
 聞き慣れない声だ。
 側近の誰かではないのか──
 と、今さらながら扉の開く音がしなかったことに気づき、太守は愕然となった。
 振り返ることが恐怖であった。
「……な、何者か!」
「告死天使と呼ばれる者です」
──! わしの……わしの生命が狙いか……!」
「私が訪れること、ある程度の予想はしておられたでしょうが」
 心地のいい低い声音が、微かに笑いを含んでいる。
 恐怖と闘いながらも意を決したウェネリヤの太守は、椅子から立ち上がり、一気に背後を振り向いて大声で叫んだ。
「誰かある! 告死天使が現れた! 誰かおらぬのか──!」
 だが、太守の声に応じる者はなし。
 くくっ、と告死天使が小さく笑った。
「無駄ですよ、閣下。ここに駆けつけてこられる護衛兵は、一人とていませんよ」
「どっ、どういうことか……!」
「さあ?」
 室内に灯された幾本かの蝋燭の光が瞬時に消えた。
 天井から吊るされた多灯架に灯された光、壁に設置された燭架に灯された光──ただひとつ、執務中の卓子の上の灯火だけを残して。
 その蝋燭の光が、ひときわ大きく揺れ、卓子を背に立つ太守の影を、冷たい石の床に色濃く落としている。
 扉の前に立つ告死天使の姿は、ただ、黒いシルエットとしか判別できない。
「閣下。お覚悟を」
 告死天使の右手が上がった。細い何かを指にはさんでいる。
 一瞬、蝋燭の光を撥ねたことにより、それが刃であることが判った。
「やめ──やめろ──
 細いナイフであった。
 それが風を切り、
 トッ!
 と、床に突き立ったとき、太守は硬直した。
 ナイフがなぜ石の床に突き刺さるのかは判らない。だが、確かに鈍く銀色に光る刃は床に刺さって見えた。
 床に伸びた太守の影に。
 その心臓に。
「う……」
 自らの心臓を押さえ、ウェネリヤの太守は崩れ落ちるように両膝をついた。心臓を押さえる両手の指の間から、赤いしずくがこぼれ落ちる。
 血──
 ナイフの刃は太守の身体に触れてもいないのに。
 恐怖と苦痛と混乱に限界まで見開かれた太守の眼が、影に突き立った刃を見た。
 影使い。
 そう、告死天使は影を使う魔道師ではなかったか。
「……ぐふっ」
 そのまま、太守は冷たい床に前のめりに倒れ込んだ。
 ふっ、と、卓子の上の最後の蝋燭の火が消えた。
 黒い衣に包まれた長い腕を伸ばして、告死天使は暗闇の中から太守の影を刺した自らのナイフを抜き取った。
 そして、用は済んだといわんばかりにあっさりと踵を返し、退室する。
 闇の中、不気味なほどの静寂が辺りを支配している。
 扉の外の廊下には、十数人の護衛兵たちが倒れていた。──いずれも絶命している。
 それらの屍を一瞥し、告死天使は悠々とその場から立ち去った。
 仕事は終わったのだ。

「ユーリィ──
 不安げな青珠の面持ちをなるべく見ないようにして、ユリウスは今まで見つめていた窓を開け、軽々と窓枠を越えて外へ出た。
「解っている。告死天使を追うぞ」

 ウェネリヤ市のほぼ中心にある太守の邸宅からかなり離れた神殿の裏手に、ぽつりと黒い人影があった。
 水神・ネプトゥーヌスを祭る神殿である。
 太守暗殺の報はまだ誰にも知られてはいないらしく、町は静かであった。
 そこには町の人々の生活の水ともなる小さな水源──泉があり、黒い影は、そこで何かを洗っていた。
 ──血を。
 血のついたナイフを。
 血のついた?
 それは生身の人間ではなく、影を床に縫いとめただけなのに?
 黒い人影の動きがぴたりと止まった。
「何やつ?」
 大気は静寂を保っている。
 だが、彼は自分以外の人間の存在を鋭敏に肌で察知したようだ。
 低く誰何するその声に逆らわず、ユリウスは神殿の壁の陰からすっと姿を現した。
「怪しい者じゃない。僕の名はユリウス」
 闇に溶け込むような漆黒の衣をまとう人影が鋭くユリウスを見遣る。
 ユリウスに殺気はない。
 黒衣の人物は、その穏やかな気配を測りかねているように見えた。
 雲が割れた。
 微かに天上から降り注ぐ月光が、ユリウスの美貌を朧に照らす。
 頭布をつけていない金髪が、淡く銀色に輝いた。
 ──誰だ?
 男装の……女? いや、声は男だ。
 どれだけの間、互いに牽制した視線を合わせていただろう。
 相手に敵意はないとみて、黒衣の人物が手にしたナイフの刃の水滴を払ったとき、ようやく、ユリウスが口を開いた。
「あなたが告死天使か?」
 闇が静かに凝結した。
 野生の獣のような視線が、再びユリウスを睨めつけた。
──やはり、太守の側近の手の者か?」
 さりげなく構えられた細いナイフが、ユリウスの影を狙う。
「いや、違う。僕はあなたの敵じゃない。……たぶんね」
──?」
 訝しげに金髪の若者を凝視する鋭い視線が、わずかにその背後へと逸れた。
 振り返らずとも、ユリウスには解っていた。──青珠の気配が。
「ロズ……マリ、ヌス……」
 鈴を振るような透明な声に、彼の様子が一変した。
「! まさか──
 確かにその声に覚えがあるようだった。
 黒衣の──ロズマリヌスと呼ばれた人物が、一歩、足を踏み出そうとして、そして躊躇った。
 そのとき、初めて、淡い月の光がロズマリヌスの半顔を照らし出した。
 彫刻のようだと──ユリウスは思った。
 月光に浮かび上がるようにして立つその姿は、冷酷な殺し屋だとはとても思えない、半神的なまでの美しさがそなわっていた。
 漆黒の衣に包まれた均整の取れた長身。長い手足。灰色の髪。
 彫刻のように整った面立ちと、その射るような光を放つ切れ長の眼。
 そして、何より印象的なのが、額に描かれた朱の紋様だった──
「ロズ、わたしが……判る?」
 ふわりと、ユリウスの背後に青珠の姿が浮かび上がった。
 碧羅ではなく町娘の格好だが、その長いアイス・ブルーの髪は夜の闇でも見間違えようはない。
 青い石の精霊──
「青珠……」
 ロズマリヌスは愕然と眼を見張った。

≪ prev   next ≫