告死天使
3.
「青珠……なぜ、おまえがここにいる?」
ユリウスに対峙していたときの冷淡さとはまるで別人のような、ロズマリヌスの驚きようであった。
青珠はそっと人差し指を口許に当て、黒衣の麗人の口をふさいだ。
「いつまでもここにいないほうがいい。いずれ、太守の側近たちがあなたを捜し始めるでしょう」
その言葉で、ロズマリヌスははっと我に返った。
「よければ、ひとまず僕たちの宿に」
穏やかに言ったつもりだが、ユリウスに向けられるロズマリヌスの眼は、明らかに警戒心を含んでいる。
「大丈夫、ロズ。この人は味方。……さあ、行きましょう」
闇を縫うように、三人は神殿の泉からユリウスの泊まる宿へと移動した。
宿の中は静まり返っている。
泊り客は皆、眠りに就いているようだ。
ユリウスに青珠、そして、告死天使。三人は物音ひとつ立てず、やすやすと二階のユリウスの部屋まで到着した。
「どうした?」
部屋の扉の前で、立ったまま自分を凝視する黒衣の男の視線に気づいて、ユリウスが振り向いた。
「なぜ、おれをここへ連れてきた?」
「青珠がそうしたかったからさ」
「青珠が──?」
「それ以外に理由などない」
そして、ユリウスは何気ないふうにロズマリヌスに椅子を勧めた。
「おれが、告死天使だと知っていて、それでも──」
「僕には関係ない。──ただ、あなたは以前、青い石の持ち主だったと聞いた」
ロズマリヌスの視線が、ユリウスの左耳へ流れる。
「その耳飾り……」
ユリウスは手際よくランプを灯し、それを卓子の上へ置いた。
「ロズマリヌス──と呼んでいいかな。あんなところで、何をしていた?」
「ロズでいい」
ロズマリヌスはいくぶん警戒を解いたようだったが、その表情は険しいままだった。
「ナイフの血を……落としていたのか?」
「──清めていた」
「清め?」
「気休めかもしれない。だが、水神・ネプトゥーヌスはおれにとって神聖なる神だからな」
ふと、皮肉な笑みを浮かべ、ロズマリヌスはユリウスを見遣った。
「どうせ、青珠の遠透視の力で、全てを見ていたのだろう?」
殺人の一部始終を──
ユリウスは否定しなかった。否定しない代わりに、肯定もしなかった。
何も言わず、ランプの灯りのもとで美しい殺し屋を観察した。
自分より一パームは高いであろう堂々たる長身。
絹糸のようなアイス・グレーの髪。
エメラルドを嵌め込んだような鮮やかな緑色の切れ長の眼。
カルム島に住まうカリア氏族特有の浅黒いなめらかな肌。
額の紋様──細長い菱形を四つ合わせて形作られた十字の紋様──はヘンナで染めたような朱の色が美しいが、それが単なる装飾でないことは、巡礼であるユリウスもよく知る事実であった。
歳は?
歳はよく判らないが、おそらく自分より七、八歳上だろう。
ロズマリヌスはゆっくりと漆黒の外衣を脱ぎ、ユリウスが勧めた椅子の背にそれを掛けて、その椅子に腰を下ろした。
「青珠の好みも変わったな。石の持ち主に、こんな優男を選ぶとは……」
自嘲のようなロズマリヌスのつぶやきに、ユリウスは思わず苦笑を洩らした。
なるほど、自分が彼を観察していた間、彼もまた自分を観察していたわけだ。彼の目に自分はどう映ったのだろうか。
「ユーリィを外見で判断するのは危険よ、ロズ」
透き通った低めの声が二人の男の思考を中断させた。
いつの間に現れたものか、青い石の精霊が、酒壺を手に、そこにいる。
「風が、不穏な空気を伝えてくる。今、外へ出るのは危険だと。もう少しここにいたほうがいいわ」
木のゴブレットを三つ、卓子に並べながら、青珠は微笑んだ。
どことなく楽しそうな青珠の様子に、ユリウスは一抹の寂しさを覚えた。
窓をロズマリヌスの黒い外套で覆い、ランプの光に寄り添うように、三人は葡萄酒を飲みながらひっそりと時を待った。
室内の中央に置かれた小さな卓子の上にはランプと酒壺、ゴブレットが二つ。
二脚ある木の椅子にはそれぞれユリウスとロズマリヌスが座り、部屋の隅に置かれた寝台の上に、ゴブレットを手に持つ青珠が少し離れて座っていた。
どれだけ時が過ぎただろう。
相変わらず夜の闇は静謐さを保ち、葡萄酒を口にしながらも三人が酔うことはない。
ユリウスは、青珠と告死天使がどれほどの関係であったのか訊いてみたい衝動に駆られたが、それをはっきり言葉にして伝えられることが恐ろしくもあった。
不安めいた揺らめきにぼんやりと心を奪われていると、ロズマリヌスの声が耳に入ってきた。
「その綺麗な坊やが危険だって?」
「剣術の腕はあなたより勝るかも。彼は昔、あなたと同業だったの」
「ほう?」
ユリウスは顔を上げて青珠を見た。
「青珠? 僕は殺し屋なんてやってないよ」
ロズマリヌスが小さく笑う。
「──傭兵だな?」
「ええ」
「今は? 魔道士か?」
「どうして?」
「一般人じゃないだろう。おれを見ても顔色ひとつ変えなかった」
青珠は薄く微笑んだ。
「そうね」
不意にユリウスが立ち上がった。
「どうしたの、ユーリィ?」
「何か、違和感を感じる」
ロズマリヌスが眼だけでユリウスの行動を追った。
立ち上がり、窓際に寄ったユリウスが、窓を覆った黒い外套の陰から、外へ灯りが洩れないように注意深く外を覗いた。青珠がそれに続く。
「松明の火だ。──ひとつやふたつじゃない」
「見つかったか」
葡萄酒をひとくち口に含み、自嘲気味にロズマリヌスがつぶやく。冷たい目付きが息を呑むほど妖艶だった。
「暗殺者を狩り出そうとしているのね」
青珠はロズマリヌスを顧みて言った。
「あなたらしくないわね。暗殺の予告でも出していたの?」
「漠然とした噂だったが、情報が漏れてしまったんだ。太守の生命を狙う者がいる。それが告死天使だとね。……おれとしたことが、情けないな」
「依頼者は何者だ?」
「そのようなことは言えない。おまえには関係ないことだ」
何か言いかけたユリウスを、青珠が素早く手を上げて制した。
「ウェネリヤの太守はオスリア王国内において、かなりの権力と民衆への影響力を持つ人物と聞く。オスリア王国の六花同盟への加盟に強固に反対する太守を煙たがっているオスリアの内政に関わる人物が依頼主。……そんなところでしょう」
ロズマリヌスはふんと鼻を鳴らした。
「それは青珠の見解だ」
そんなロズマリヌスの態度に青珠は薄く笑って肩をすくめ、
「精霊にはいろんな声が聞こえるものよ」
と、ユリウスに向かって言った。
大陸には二つの大国がある。
東の雄・レキアテル王国。
西の雄・タナトニア帝国。
その両大国にはさまれた大陸中央部のネフタ地方、大陸南部のヴァルカン地方に位置する六つの国々が集まり、同盟を結んだのが、六花同盟である。
しかしオスリア王国内では、小国同士手を組むよりも、大陸最大の帝国であるタナトニアと同盟を結ぶべきだとする声も多く、ウェネリヤの太守は、そのような者の中で、最も発言力のある人物であったのだ。
「──青珠、来たぞ」
突然、ドンドンと宿屋の玄関の扉を激しく叩く音が聞こえたかと思うと、どやどやと宿の中になだれ込む複数の足音が響いた。