告死天使
4.
そう広くない建物の中を、数多の足音が不気味に駆け巡る。
宿屋の者を伴い、ウェネリヤ市の兵士たちが、一部屋ずつ中を検めて廻っているようであった。
ユリウスは告死天使の様子を窺ったが、彼は何事もないような静かなたたずまいで、そこにいる。
やがて、複数の慌しい足音がユリウスたちの部屋の前で止まり、その扉が乱暴に叩かれた。
「憲兵だ。ここを開けよ」
ロズマリヌスはおもむろに立ち上がり、行動した。
「精霊の影は役に立たない。ユリウス、おまえの影を借りるぞ」
彼はランプの灯を小さくし、ユリウスをそのランプの前に立たせた。背後に、ユリウスの影が色濃く落ちる。
ロズマリヌスは小さく呪文を唱え、その影の内に立った。
「いいか、その場を動くな。おれはいないものとして振る舞え」
わけも解らずユリウスがうなずくと、いつの間にか扉を支えていた青珠が、さっと扉を開いた。
武装した兵士が数人、無遠慮に室内に足を踏み入れた。
「──おまえたち二人だけか?」
二人?
驚くユリウスに、宿の主人が詫びるように口を開いた。
「申し訳ありません、お客様。あの有名な殺し屋、告死天使が現れたそうです。市の門も関所も封鎖され、市外に出た可能性は低いとか」
「それで、市内を捜索しているの?」
静かに尋ねる青珠とランプを置いた卓子の向こう側に立つユリウスを、兵士たちは無遠慮に見比べた。
「黒衣に身を包んだ長身の男だ。見なかったか」
黒衣の長身の男はここにいる。
なのに、兵士たちや宿の主人には、ユリウスの背後に立つ彼の姿がまるで見えていないようであった。
「わたしたちはずっと二人だったわ」
と青珠は言った。
「この町に着いたとき、すでに夕刻で、そのような人には気づかなかった。今は眠れなくて、二人で葡萄酒を飲んでいたの」
ユリウスははっとした。
──そうだ、ゴブレット!
卓子に三つ並ぶゴブレットを見れば、この部屋に三人の人間がいたことがすぐにばれてしまう。
だがしかし、はっきりとそこに残る物証に、誰もふれなかった。
「そうか。もし不審な人物を見かけたら、ただちに憲兵に申し出るように」
確かにゴブレットは三つある。
ふと見ると、そのひとつに、一粒の真珠が入っていた。
騒がせてすまなかったと宿の主人が詫び、来訪者たちは部屋を出て行った。いやに呆気なく兵士たちが納得したことが、ユリウスには意外であった。
青珠が扉を閉める。
再び室内が静かになり、ゆっくりと卓子に近寄った青珠がランプの灯をもとの大きさに戻した。
「精霊の言葉は、一種の暗示だからな」
ユリウスの疑問を見透かしたように、ロズマリヌスが不敵な笑いを見せた。
何事もなかったように静かに椅子に座り、ゴブレットを手に取る彼の姿を茫然と見つめていたユリウスは、はっと我に返り、卓子に両手をついて身を乗り出した。
「何かまやかしを?」
「おれは魔道師だよ、坊や」
言いながら、ロズマリヌスはゴブレットの真珠をすくいあげ、赤紫色のしずくを布でふき取った。──それは彼の耳飾りであった。
「何も好きこのんで騒ぎを大きくする必要もあるまい」
そして、真珠を耳につけた。
影使い──
彼はユリウスの影を使い、魔術を用いたのだ。
宿の全ての部屋を検めた憲兵は、次の宿屋へと移動していった。
依然、告死天使の探索は続いているが、とりあえずこの宿は静寂を取り戻した。
「朝まで動けないかもな」
「そうね。今のうちに休んでおくといいわ」
そして青珠は、自分を見つめるユリウスの表情にふと気づく。
目が合ったとき、彼が何を言わんとしているのか瞬時に理解した。──それは、ユリウスのやさしさなのだ。
青珠は、承諾したというようにうなずき、ロズマリヌスを顧みた。
「せっかく寝台があるんだもの。少し眠ったほうがいい」
「しかし、おまえたちは……」
ロズマリヌスがユリウスを見る。
ユリウスの口許を微笑がかすめた。
「乗りかかった船だ。今さら迷惑も何もないだろう? 僕と青珠が起きている。あなたには休息が必要だよ」
「……」
「じゃあ、青珠、ちょっと関所の門の辺りを見てくる」
青珠はうなずいた。
そのままユリウスは窓に寄り、窓に掛けられた外套の中に滑り込んだかと思うと、音もなく窓を開け、すっと窓枠を越えて夜の闇に消えた。
何の躊躇もないユリウスの行動に驚いたロズマリヌスが、思わず立ち上がり、窓辺に駆け寄る。
「おい、いいのか、青珠?」
「彼なら大丈夫。心配いらないわ」
眠りなさい、と黒衣の麗人にささやき、青珠はランプの灯を消し、窓を覆っていた外套を外して、先ほどまでロズマリヌスが座っていた椅子に静かに腰掛けた。
闇が静寂を浸していく。
「青珠」
「なに?」
彼女とこうして話すのは、何年ぶりだろう?
月明かりだけの闇の中、青珠と二人だけでいることに躊躇いを感じずにはいられなかった。このような状況に今あることが、不思議でもあった。
このような時間を持つことを、自ら捨てたはずなのに。
「……おまえは、なぜ再び人に召喚された?」
寝台に横たわったロズマリヌスは暗い天井を見つめながら、声に感情が表れないよう、注意しながら青珠に問うた。
「あの坊やの何が、おまえをそうさせた?」
青珠はしばらく沈黙していたが、やがて、
「死の匂い……」
ひとことだけ、つぶやいた。
「──死?」
「そう。ユーリィはあなたと同じ、死の影を背負っていたわ」
「──」
「だから、放っておけなかった。あなたの代わりに、彼を見つめていようと思ったの」
「おれの……代わり?」
「あなたは、なぜ、わたしを──青い石を手放したの?」
青い石の精霊の瞳がロズマリヌスを一瞬見つめ、すぐに逸れた。
「いえ、いいわ。よしましょう。──もう、過去のことだもの」
「過去、か……」
「今のわたしの主はユーリィ。もうあなたの代わりじゃない。ユーリィはただ一人の大切なひと──」
ロズマリヌスは青珠に思わせぶりな視線を投げた。
「神々しいほど美しい男だな」
「ええ、そうね」
「あいつの趣味か?」
「え?」
ロズマリヌスは、暗闇に慣れた眼で青珠の出で立ちを示した。
「その格好。まるで人間の娘のようだ」
「ああ、これね。──これはあなたのせいよ」
「?」
「あれ」
青珠の目線の先に、闇の中でもそれと判る、黒い衣裳があった。
「巡礼の装束? ……あいつは巡礼者なのか?」
「黒い衣はお断りですって。ウェネリヤ中の宿屋に宿泊を拒否されたわ」
ロズマリヌスは苦笑した。
「なるほど。告死天使を警戒されたわけだ」
二人は声を抑えて笑いあった。
「女はやっぱり、ああいう男に惹かれるんだな」
青珠がくすりと笑う。
「あなたが言っても説得力ない。あなたは自分の美しさすら自覚していないのに」
「美しい? 海神に呪われたこの身がか?」
「そういう言い方はやめて。あなただけが呪われた生を生きているのではないわ」
静かだが決然たる青珠の口調は、彼女にとって真摯な何かを示唆していた。
「ユリウスも、と言いたいのか?」
微かに青珠がうなずく。
「安心した」
「え?」
「おまえは存在している。そして、大切なものを持っている。──それでいい」
「……ロズ──」
ようやく安堵したように、彼は眼を閉じた。吸い込まれるように眠りに落ちた。
「おやすみなさい……」
青珠はそっと立ち上がり、寝台に近づいた。
そして、彼の額に──朱の紋様のある場所に、慈しむように口づけた。
2004.5.9.