告死天使
5.
憲兵の目が厳しく、ユリウスは三日間、ウェネリヤに足止めを食らった。
しかし、ロズマリヌスはあの翌朝、簡単にユリウスに礼を述べて、この町を去っていった。
青珠に何も言わず、そして、その日の朝、青珠もロズマリヌスの前に姿を見せることはなかった。
その日、厳戒態勢がしかれているウェネリヤ市をぐるりと囲む防壁の南側の門のすぐ前に、ユリウスとロズマリヌスの姿はあった。
市街を取り巻く防壁の南北二つの門が、関所の役割をも果たしている。
厳重な封鎖を意に介することなく、漆黒の衣をまとったまま町を出ていこうとする彼の姿は、少しの気負いもなく、飄々としていて、驚くほど自然だった。自分の立場を理解していないのではと懸念を感じるほどに。
ユリウスは南門までロズマリヌスを見送り、これからどこへ行くのかと尋ねたが、黒衣の麗人は少しうつむき加減に目を伏せ、黙って首を横に振っただけだった。
「夕べは世話になった。だが、これからのことは、おまえには関係ない」
おれには関わるなと──彼の眼が無言で告げていた。
「解った。余計なことは訊かない。だが、ロズ、ウェネリヤに来る前に、もしかしてネフタ地方あたりからヴァレシナク街道を南下した?」
「なぜ、そんなことを訊く?」
「霊峰群であなたに間違えられ、ひどい目に遭った」
「……はっ!」
ロズマリヌスは声をたてて笑った。殺し屋という生業に相応しくない──屈託のない彼の笑顔をユリウスは初めて見た。
「それは失礼」
憮然たるユリウスを妖艶な眼で鋭く眺め、ロズマリヌスは、心底おもしろそうに唇をゆがめた。
「おまえは不思議な奴だな、ユリウス。夕べ、おれが術を使ってゴブレットや己の身を余人の目から隠したときも、おまえには術が通じなかった。あんなことは初めてだ」
「僕は生まれつき、魔術が通じない体質らしい」
ロズマリヌスは、ふと、眉を上げた。
夕べ、ユリウスもまた呪われた生を生きていると言った青珠の言葉を思い返した。
見るからに清らかな容姿を持つこの若者がたどる呪われた生とは?
──いや、自分には関係のないことだ。
「ロズ」
「──何だ?」
「もうひとつ訊きたい──あなたは青珠を愛していたのか?」
ロズマリヌスの顔を微かに戸惑いに似た影がかすめたが、すぐに彼はそれをいつもの自嘲するような表情で覆った。
「おれたち人間と精霊は、たとえ同じ空間にあっても、異なる世界に存在している。もとより、ともに生きる対象にはなりえない」
それが答えにならないことは解っている。
だが、なおも自分を見つめるユリウスの視線に気づき、ロズマリヌスはその彫像のような美貌に苦笑らしきものを漂わせた。
「……たぶん、おまえの想像している通りだよ」
「そして、青珠の気持ちも僕が想像している通りなら──」
ユリウスは宝玉のような碧い瞳でロズマリヌスをまっすぐ見つめた。
「だが、ロズ、青い石は渡さない」
返さない、ではなく、渡さない、という表現が用いられたことに気づいた告死天使は、ふん、と不遜な笑みを見せた。
「青い石を手放したのはおれ自身の意思だ」
迷いのない澄んだユリウスの視線がまぶしかった。
青珠の言うように、同じ死の影を背負っているとしても、この美しい青年と自分とでは生き方が違う。
青い石の持ち主として相応しいのは彼のほうだ。
ロズマリヌスは、ふっと寂寥めいた痛みを覚え、黒衣を翻し、門に向き直った。
「さらばだ、ユリウス。もう会うこともないだろう」
「ロズ──」
ユリウスは口を開きかけ、ロズマリヌスの背を追おうとして、やめた。
まだ彼に言いたいことがたくさんあるような気がしたが、言葉が出てこなかった。黙ったまま、背の高い黒衣の彼が門の中へ消えていくのをじっと見守った。
そして、三日後。
どうやって彼が関所を抜けたのかは知らないが、あの日、告死天使の噂が町を騒がせることはなかった。
ウェネリヤ市を取り囲む防壁の南門。
ユリウスもまた、ここからウェネリヤを発つ。
三日前、ここでロズマリヌスと別れた。
彼が言った通り、そう、もう会うこともないだろう。
太守が暗殺され、ロズマリヌスをかくまったあの夜以来、ユリウスは青い石の精霊の気配を全くつかむことができなかった。──もう三日も。
青珠は告死天使を追っていったのかもしれない。
それならそれでいいと、ユリウスは淡々と考えた。
漠然とした不安が確かな現実になったとしても、それが定めなら、自分はその事実を受け入れようと。
ヴァレシナク街道はこのウェネリヤ市が終点となり、この地で公道はアプア街道に接している。
無事、関所を兼ねた門を通過すると、そこはアプア街道となる。
南への進路を取ったユリウスは、街道を逸れ、ひと気のない場所で巡礼の装束に着替えた。黒一色の衣裳に黒い頭布。左耳には紺瑠璃の石を象嵌した燻し銀の耳飾り。
何となく本来の自分に戻ったような気がして、ほっと息をつくと、不意によく知る気配がユリウスの背後に訪れた。
「青珠」
振り向いたユリウスがつぶやくと、気配は、ほっそりとした肢体の、蒼い髪を持つ娘の姿を現した。
「やっぱりあなたは黒い衣が一番似合うわ」
それは町娘の姿ではなく、いつもの碧羅をまとった青い石の精霊であった。
「……どうしたの、ユーリィ?」
夢を見ているようなユリウスの様子に気づき、心配そうに顔を覗き込む。
「戻ってきてくれたんだ」
「どういう意味?」
「戻ってこないかと思った」
心外だというように、青珠は青い瞳を大きく見張った。
「青い石の主はあなただと言ったでしょう?」
「ずっと、おまえの気配をつかめなかった」
「気配をつかめなかったのはあなたの心の迷いのせい。わたしはずっとあなたの声の聞こえる範囲にいたわ」
ようやく安堵したように、ユリウスは微かに微笑んだ。だが、青珠の気持ちは? 彼女の本心は──
「彼とゆっくり話ができた?」
「ええ。あの夜、あなたが時間を作ってくれたから。言うべきことは言ったわ」
ユリウスはうなずいた。
全てを受け止めようと思った。だが、心の奥深くに澱のように沈殿した不安な揺らめきは、そう簡単にはぬぐえない。
女々しいと思った。あるいは“彼”も、このような想いから解放されたくて、青い石を手放したのか。
「……僕には彼が解らない」
ふと、青珠は問うようにユリウスを見つめた。青珠を顧みたユリウスと目が合う。
「彼はなぜ殺し屋なんかやっているんだ?」
「彼は自分を呪っているの。自分自身をおとしめようとしている」
「あの額の紋様にも関係が?」
青珠の瞳が翳りを帯びた。
「やっぱり気づいたのね」
「あれは生贄の刻印だ」
「ええ」
「彼は自分で?」
「いいえ。それは彼の意思ではない」
ユリウスはそれ以上は訊かず、青珠に右手の拳を差し出した。
「なに?」
ユリウスが握りしめた拳を開くと、掌に、黒真珠があった。霊峰群で告死天使が落としたあの黒真珠。──それが、指輪の台に嵌め込まれていた。
「ユーリィ、これは……?」
「おまえが告死天使と話している間に細工師に頼んできた。指にはめていれば、もう落とす心配はない」
驚く青珠の手を取り、わざとぞんざいにその華奢な指に指輪をはめてやる。
「僕が初めて青い石を見たとき、それは水神の社にあった。あそこに石を納めたのは、彼なのか──?」
青珠は穏やかに言った。
「そうよ」
そして、ロズマリヌスのその行為がなければ、ユリウスが青い石と巡り逢うことはなかったのだ。
すっとユリウスの前にひざまずき、青珠は彼の右手を取った。
「青珠……?」
その手の甲にそっと口づける。
「わたしはあなたとともにある。あなたの行いを、あなたの生きざまを、全て、わたしが見届ける。──それが、あなたとの誓約だから」
そう言って、青珠は清流のように微笑んだ。
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2004.5.17.