海神の花嫁
1.
海に出た。
大陸の南のこの海は、緋海と呼ばれる。
ユリウスが緋海を目にするのは初めてであった。
この海を渡れば、あるいは違う世界へ行けるのだろうか。
「わざわざ街道を外れてこんなところまで来て……ユーリィ、海が見たかったの?」
からかうように青珠が言った。
「もちろん、巡礼に来たんだよ」
「この辺りに巡礼の神殿があったかしら」
「たまにはいいじゃないか。一週間ほど海辺に滞在しないか? 海を眺めながら、少しくらいゆっくりしたって、どうってことないさ」
まぶしい陽差しに眼を細めながら、珍しく陽気な口調で、ユリウスは青珠に笑顔を向けた。
「あなたがそう望むなら」
青珠はまぶしそうにユリウスを見た。
ユリウスのこのような屈託のない笑顔を、青珠は初めて見る。
海の広さに心まで解放されたような、そんな、生き生きとした表情であった。
「……いい顔。まるで子供みたい」
ぽつんと洩らした青珠のつぶやきに、ユリウスがふとこちらを向いた。
「何? 何か言った、青珠?」
「ううん。何でもないわ」
ユリウスに微笑を残し、青珠はすっと姿を消した。
海岸沿いにひと気はなかった。
寄せては返す青い波。
波打ち際に広がる真っ白な砂浜。
すぐ後ろは切り立った崖であった。
陽が傾くまで、ユリウスは、白い砂浜を子供のように彷徨って歩いた。
「陽が沈む……」
まぶしげに夕陽に目をやるユリウスの顔は無邪気で、どこまでも無垢に見えた。
「そろそろ宿を探さなきゃな」
だが、見渡す限りの海岸線である。
公道に戻るには、かなりの距離を引き返さねばならない。
「ま、いいか。野宿でも」
長い影を白い砂の上に落としながら、なおも名残惜しそうに夕陽を見つめるユリウスの瞳の端に、人影らしきものがちらと映った。
「人がいる……?」
オレンジ色の残照を浴びて、浜に影を落とすのはユリウス一人ではなかった。
百三十パッススほど離れたところの砂の上に、一人の人間が横たわっている。
引き寄せられるように、そのほうへユリウスは歩を進めた。
確かに人だった。
眠っていた。
ユリウスと同じくらいの年齢の、まだ若い娘だった。
長い栗色の髪を後ろでひとつに束ね、活動的な男物の衣裳を身にまとっている。
傍らに一振りの剣が置かれてあった。
その出で立ちから、旅の女剣士だろうとユリウスは推察した。
「それにしても無用心だな」
低いつぶやきを洩らしたとき、娘がぱっと眼を開けた。
目と目が合った。
驚いた娘が、がばっと上体を起こす。
「あ……あなた、誰?」
娘の素朴な問いに、ユリウスはいつものように簡潔に答えた。
「巡礼の者だよ」
「──人間なの?」
「どういう意味?」
ちょっと感情を害したようなユリウスに表情に、娘は照れたようにくすっと笑った。
「ごめんなさい。あなたがあんまり綺麗なものだから……女神が降り立ったのかと思ったわ」
娘は立ち上がり、衣服の砂を払った。
「あたしはシーラ。あなたは?」
「ユリウス」
シーラはユリウスの顔をまじまじと眺めた。
大きな瞳はヘイゼルだ。栗色の長い髪が潮風に流れた。
「声が聞こえるまで気づかなかったなんて……気配を全く感じなかったわ」
「たぶん、君と同業者だから」
「傭兵なの?」
「昔ね」
「へえ」
シーラは大きな眼をさらに大きく見開き、
「そんなふうには見えないわね」
と、つぶやいた。
「君も、ここで夜明かしするつもりだったの?」
「まさか」
シーラはくすくすと笑った。
「あなた、この辺りは不案内のようね。意外と近くに町があるのよ。小さな町だけど」
「近くに町が?」
眉をあげるユリウスを誘うようにシーラは身体の向きを変えた。
「浜を抜けていく道があるの。こっちよ」
断崖絶壁に見えた崖の間に、人一人がようやく通れるような細い裂け目が、狭い通路を形作っていた。
ちょっと見ただけでは判らない。
「ここは地元の者しか知らないわ。子供たちの秘密の抜け道なの」
「君はその町の人?」
「そう。二年ぶりの里帰り。今日、帰ってきたとこよ」
シーラは元気よく言った。
「あんまり懐かしくて、つい、ね。あの浜辺は子供の頃よく遊んだ場所なの」
「きれいな浜だよね」
「でしょう?」
シーラは眼を輝かせてユリウスを顧みた。
「こんな田舎だし、滅多に人は来ないけど、でも、平和でいい町よ。二年前と何も変わってないわ」
ふと、ユリウスに別の表情が動いた。
故郷。
彼にはないものだった。
仮に三年ぶりで帰ってみたところで、そこに彼の生まれた国はない。
──クスティ王国はすでに滅びた国だ。
「どうしたの? ユリウス」
ふと気づくと、心配そうにシーラが彼を見つめていた。
「あたしの家、すぐそこよ」
いつの間にか、景色が変わっていた。
二人はすでに町の入り口までたどり着いていた。
小さくはあるが、想像していたよりも立派な町並みである。
「宿屋は?」
「小さいけれど、一軒あるわ。でも、うちへ来ればいいわよ」
「見ず知らずの人間だよ」
シーラは屈託なく笑った。
「ほんと、そうよね。でも、あなたは悪い人には見えないわ。遠慮しないで」
「久しぶりの里帰りなんだろう? 家族と水入らずで過ごすといい」
「……それもそうか」
石造りの家々の間を歩きながら、シーラは前方を指差した。
「お気遣いありがとう、ユリウス。宿屋はね、この道を真っ直ぐ行って、あの角を右に曲がったところにあるわ。すぐ判るわ」
「ありがとう」
その言葉に微笑を返し、シーラはユリウスを振り返って立ち止まった。
「この町にも神殿があるわ。あなた、巡礼者なんでしょう? だったら、詣でなきゃ。明日、案内してあげるわね」
「祭神は?」
「たぶん、あなたの知らない神様。この町には、この町だけの独特の信仰があるのよ」
「ふうん……?」
そして、彼女は左手の路地を曲がった。
「じゃあね、ユリウス!」
こぼれそうな笑顔で男装の娘は手を振った。
よく笑う娘だな、とユリウスは思った。
* * *
閉鎖的な町──というのが第一印象だった。
旅人が立ち寄る町ではないのだろう。
宿の人間も、無愛想この上ない。
「何かおかしくない、青珠?」
ユリウスの呼びかけに、青い石の精霊は部屋の中に姿を現した。
「何が?」
「なぜこんな町に、宿屋があるんだろう」
「……」
「そう頻繁に旅人が訪れているとは思えない。旅人を歓迎する気もないようだ。宿屋はどうやって生計を立てているんだ?」
そう言いながら、ユリウスは窓際へ寄った。
「……ごらん、青珠。海が見える」
町は崖の上に建っていた。
宿屋の裏は断崖に面しているらしい。
窓からは、葡萄酒色に輝く緋海が広く見渡せた。
「冬の海にしては穏やかだな」
「緋海は南の海ですもの。海面の色も、明るいわ」
青珠が西の海・緇海と比べていることはユリウスにもすぐ察しがついた。でも、なぜそのような目をする──?
緇海にはカルム島がある。
──ロズマリヌス。
カルムは、彼の生まれた島だから?
「なあに?」
ユリウスの視線に気づいた青珠が不思議そうに彼を顧みた。
「……いや」
「本当に、こんなにのんびりするのは久しぶりね。緋海に面した土地の気候は真冬でも穏やかだし、過ごしやすいわ」
「精霊でも?」
「精霊には寒さや暑さは影響しないわ。あなたが、よ」
──緇海の冬は、寒いのか?
口先まで出かかった言葉を、ユリウスは呑み込んだ。
翌朝、ユリウスが一人で朝食を取っていると、宿の食堂の扉がひょいと開いて、昨日の娘が現れた。
「おはよう、ユリウス。よく眠れて?」
剣は帯びていなかったが、シーラは昨日と同じように男装だった。
「おはよう。早いね、シーラ」
「あら、あたしは早起きだもの。軍隊生活の後遺症ね」
そう言ってくすりと笑うと、シーラはユリウスの向かいの椅子に腰を下ろした。
「あなたを神殿に案内してあげたいの。何しろ、あたしが知る限り、この町を旅人が訪れたのは初めてなんですもの」
「それは光栄だ。飲み物はどう?」
「いただくわ」
ユリウスは温かいカミツレ茶を二人分、給仕に注文した。
「神殿の祭神はネプトゥーヌスではないの? こんな海岸沿いの町は、たいてい海神を信仰しているだろう?」
水の神・ネプトゥーヌスは、陸地においては河川の神、海沿いの地域では海の神として信仰される。
「この町は違うわ。海の神様には違いないけど、海王神という牡牛の姿をした神よ」
「牡牛の?」
「海上を駆ける巨大な牡牛。海王神はネプトゥーヌスが遣わしたとされる海の王なの。この町だけに伝わる神話よ」
「へえ……」
運ばれてきたカミツレ茶を、二人は同時に手に取った。
「おもしろそうな神話だね」
「ふふっ、きっと興味を持つと思ったわ」
シーラはカミツレ茶をひとくち飲んだ。
「神殿の巫女に、あたしの幼馴染みがいるの。彼女がいろいろ教えてくれるわ」
2005.2.21.