海神の花嫁

2.

 小さな町のこと、神殿は、ユリウスの泊まる宿のすぐ近くにあった。
 小さく、簡素ではあるが、しっかりと建てられている。
 二人を出迎えた巫女は、大きく両手を広げ、幼馴染みとの再会を全身で喜んだ。
「シーラ……! 二年ぶりかしら。いつ、町に帰ってきたの?」
「昨日よ。年が明けるまで、この町で休暇を過ごせるわ」
 二人の娘は抱き合い、歓声を上げた。
 そして、シーラはユリウスを振り返って言った。
「あなたが来るの、もう少しあとだったら、新年のお祭りが見られたのに。この町の神殿の新年祭はそれは盛大なのよ」
 この人は? と、問うような目をする巫女に、シーラはユリウスを紹介した。
「彼はユリウス。巡礼者なの。ユリウス、この子があたしの幼馴染みのエルゼよ。十歳の頃からこの神殿に巫女として仕えているの」
「エルゼです。よろしく、ユリウスさん」
「どうも」
 ユリウスは微笑を浮かべて会釈した。
 微かに頬を赤らめたエルゼがこっそり友人をつつく。
「シーラったら、いつの間にこんな素敵な人と知り合ったの?」
「つい昨日よ?」
 悪戯っぽく笑うシーラにエルゼは首を傾けた。
 神殿の造りは大陸の他の地域とそう変わりなかったが、そこに祭られている神像が、ユリウスの注意を引いた。
 ──牛。
 堂々たる牡牛が、馬のように前足を持ち上げ、後足で立っている。
「これが海王神よ」
 神像を見つめるユリウスに、シーラが説明した。
「海を渡っている姿なの」
 この大陸で獣を神格化することは珍しい。そして、美術品ならともかく、神像として祭るのに、動きのある像を持ってくることも稀なことだった。
 たいていの神殿に祭られている神の像は、通常、直立した姿をとっている。
「この像は青銅だけど、本当は真っ白な牛なんですよ」
 と、エルゼが付け加えた。
「ほら、そこの窓から沖合いに島が見えるでしょう? あれが、海王神の聖なる島なんです。この神殿の本殿は、あそこにあります」
「ここは拝殿だけ?」
「拝殿と、あと神官や巫女の寄宿舎があります。小さな神殿なので、神職にある者も少数ですけど」
「そういえば、もうすぐ満月ね。今月の花嫁は誰が選ばれたの?」
 エルゼの表情がふと曇り、彼女はうつむいた。
「花嫁?」
 その言葉を聞きとがめたユリウスが訊き返す。
「海の神の花嫁よ。毎月、満月の晩に、あの海王神の島に三人の巫女が祈祷のため送られるの。巫女たちは一週間の間、町から隔離され、町の繁栄を神に祈る。そういう風習があるのよ」
「なぜ、花嫁が三人も?」
「一人は全能の神の花嫁、一人は海神の花嫁。最後の一人が海王の花嫁」
「ふうん」
「それに選ばれることは、巫女たちにとっての誇りなのよ」
 シーラは憧れるように窓から島を眺めた。
 そんなシーラの傍らで、エルゼは蒼ざめた顔で微かに震えていた。
「エルゼ……? どうした?」
「……」
 エルゼは救いを求めるようにユリウスの眼を見た。様子のおかしい友人に気づき、シーラが窓辺で振り返る。
「どうかしたの、エルゼ?」
「あたし……今月の海神の花嫁は、あたしが選ばれたわ」
「まあ、あなたが?」
「でも……あたし、島の海王神殿には行きたくない。行けば、二度とこの町へは帰ってこれなくなるわ……!」
 その異常な怯えようにシーラは驚き、思わずユリウスのほうを見た。
 ユリウスは怪訝な表情で震える娘を見遣った。
「なぜ、そう思う?」
 はっとして、エルゼは口をつぐんだ。
「よその土地の人に、お話しするわけには──
「なに言ってるの、エルゼ! 何をそんなに怯えているの?」
 シーラがエルゼの両肩をつかみ、その瞳を覗き込んだ。
 エルゼは諦めたように、幼馴染みのヘイゼルの眼を見返した。
「この町は……あなたが出ていってから、何かが違ってしまったのよ、シーラ」

 神殿に仕える他の巫女や神官たちに話を聞かれるのを恐れ、エルゼはユリウスとシーラを宿舎の自分の部屋に案内した。
 簡素だが清潔な部屋は、寝台と鏡を乗せた小さな書き物机だけでいっぱいだった。
 部屋の扉を閉めて、ようやくエルゼはほっと息をついた。
「狭いところにごめんなさいね。でも、ここなら安心よ」
 縦長の窓からはやはり海が見える。
 ユリウスは奥行きのある窓の縁に腰掛け、シーラは寝台の上に座った。
 そんな二人の様子を窺い見て、木の椅子に座ったエルゼは、決心したように低い声で話し出した。
「これは、ここだけの話にしてね。こんなことを町の外へ洩らしてしまったら、あたしだけでなく、あたしの家族までどんな目に遭わされるか判らないわ」
「エルゼ、安心して。町から出ても、誰にも言わないわ」
 エルゼはユリウスのほうを見た。
 シーラの言葉を肯定するように、ユリウスがうなずく。
「あなたたちを信じるわ。あたし……海神の花嫁に選ばれてから、恐ろしくて夜もろくに眠れないの。町の誰にも、こんなこと相談できないし……」
 エルゼは、両手を膝の上で握り締めた。
「二年前、シーラが出稼ぎに行って、そのあとのことよ。一年半ほど前だったかしら。あるときから、海王神の島に祈祷に行った巫女たちが、そのまま町へ戻ってこなくなったの」
「戻ってこない? それはどうしてなの?」
 エルゼは恐ろしそうに首を振った。
「判らないわ。祭司様も長様も何も言ってくれないし」
 そして、ユリウスを見て説明した。
「海王神の島には、祈祷のための巫女以外には、祭司様と町の長様しか立ち入ることを許されていないの」
「それで?」
 と、ユリウスが促す。
「町の人たちは、巫女たちは神に花嫁として迎えられ、神の国へ旅立ったのだと言っているわ。でも、そんなの変でしょう? なぜ、毎月花嫁が必要なの?」
「他の巫女たちは何て言ってる?」
「神の国へ行けるならと喜んで島に行く者もいるわ。でもね、毎月三人よ? それが次々といなくなっては、町の娘だけでは巫女の数が足りないでしょう? 長様はどこかよその土地から若い娘を大勢連れてきて、花嫁として島へ送っているわ」
「巫女じゃない者を海王神の聖なる島へ?」
 驚くシーラにエルゼがうなずく。
「ユリウスさん、あなた、夕べはそこの宿屋に泊まったのでしょう? あの宿が、今はよそから連れてこられた娘たちの宿泊所として使われているわ」
「でも、あの宿屋は巫女が行方不明になる以前からあったのだろう?」
 と、ユリウスは昨夜来から気になっていたことを口にした。
「あそこは代々宿屋だったのよ。ただ、旅人なんてまず来ないから、主に町の人たちの食堂として営まれていたわ」
 ユリウスにそう説明してから、シーラはエルゼに向き直った。
「よそから連れてこられる娘って、その娘たちは何者なの? なぜ、知らない町の神のために、わざわざやってくるのかしら」
「それは……判らないけど」
 エルゼは口ごもり、うつむいた。
「エルゼ、君自身はどう考えているの?」
「花嫁に選ばれた巫女たちは奴隷として他国に売られているんじゃないかしら。町の収入源として。そうでなければ、花嫁はどこへ消えるの? 祭司様も長様もこのことを尋ねると、ひどくお怒りになるのよ」
「人身売買か……」
「満月は、明後日ね」
 と、シーラが不安げに言った。
「あなたは、明後日には自分もどこかへ売られてしまうと思っているのね」
「……あなたが帰ってきて嬉しいわ、シーラ。最後にあなたの顔が見られて、あなたに話を聞いてもらえて。これで、あたしも思い残すことはないわ」
「そんな、エルゼ。まるでこれが最後みたいに……」
 シーラは座っていた寝台から素早く降りて、エルゼの足許に膝をつき、彼女の小さな手を握った。
「あなたは海王神の島に行きたくないのね? なら、行かなければいいわ」
「そんなことできないわ。どこかおかしいところがあるにせよ、神聖な儀式なのよ。あたしのわがままで花嫁を放棄することはできないわ。それに、あたしが行かなければ、誰かがあたしの代わりに島へ送られるわ」
 シーラは悲しげな友人の顔をしばらく見つめていたが、
「あたしが行くわ」
 ときっぱりと言った。
「シーラ……?」
「あたしが行く。あなたの代わりに。行って、あの島で何が起こっているのか、この目で確かめてくるわ」
「駄目よ、そんなこと……! 巫女でない者が島へ行くなんて。海王神を冒涜する行為だわ」
「実際、巫女でない娘たちが島へ送られているんだろう?」
 ユリウスが静かに口をはさんだ。
「満月は明後日か。すると、残りの二人の花嫁も、もう決まっているんだね?」
「ええ。よそから来た娘たち。あなたが泊まっている宿にいるはずよ」
「彼女たちからも話を聞こう。確かに妙な話だ」
 ユリウスは立ち上がった。
「エルゼ、君は心配しなくていい。祭司や町の長に気づかれないように動く」
「何をする気なの……?」
「もし、本当に人を攫って人身売買が行われているなら、大変なことだ。ちょっと調べてみる」
「ユリウスさん!」
「ユリウス、あたしも行くわ」
 エルゼは慌てて二人を止めようとしたが、無駄だった。
 ユリウスとシーラは彼女が止める暇もなく、部屋を飛び出していった。

 二人は一旦、ユリウスの泊まる宿に戻った。
 宿屋に使用人は少なかったが、よそ者が目立つこの町で下手に動くことは避け、ユリウスを部屋に残したまま、シーラが宿の内部の様子を探りに行った。
「ユリウス、大丈夫よ」
 しばらくしてユリウスの部屋に戻ってきたシーラが、扉を少し開けて、ユリウスを手招きした。
「宿の人に直接訊くことはできないけど、確かに宿泊客がいるようだわ。こっちよ」
 シーラがユリウスを引っ張ってきたのは、彼の部屋から一番離れた部屋だった。
「ほら、人の気配がするでしょ?」
「うん。確かに」
 シーラはその部屋の扉を小さく叩いた。
「……誰? 長様ですか?」
 扉の向こうから不安そうな声が答え、扉がわずかに開いた。
──!」
 途端に外からいきなり扉を大きく開けられ、中にいた娘はひどく驚いた様子だった。
「誰? 神殿の人……?」
 シーラとユリウスは素早く室内に滑り込み、扉を閉めた。
 部屋は二人部屋。
 若い娘が二人、驚いた顔をしてこちらを見ていた。
「驚かせてごめんなさい。あたしたちは神殿に関わりのある町の者よ」
「祭司様の使いですか?」
「まあ、そのようなものね。あなたたち二人は、海王神の巫女になるためによその土地から連れてこられた娘さんね」
 二人の娘は顔を見合わせ、おどおどとした様子で、男装の娘と巡礼の黒衣をまとった美しい若者とを見比べた。
「なぜ、ここの巫女になろうと思ったの?」
 シーラは努めて明るく、何でもないことのように話しかける。
「だって、海王神はあなたたちにとっては異教の神でしょう?」
 二人の娘は困ったように視線を彷徨わせていたが、やがて、一人がぽつりと言った。
「……働かないといけないから」
「えっ?」
「あたしの故郷は小さな貧しい村です。村では働くところがありません。そんな時、村を訪れたこの町の長様が、働き口を紹介してくださると──
「つまり、出稼ぎのためここへ来たの?」
「ええ。神殿で人が足りないから、巫女になってくれたら助かると……とりあえず一年、働いてみる気はないかって」
「あたしも同じです」
 と、もう一人の娘が言った。
「巫女というのは神への奉仕が仕事でしょう? お給金をいただけるのか心配だったんだけど、それは町の長様が保証するっておっしゃって」
「実際にどんなことをするのか、説明は受けたの?」
「明後日の夜、海王神殿で儀式が行われるから、それに参加するようにと」
「どんな儀式か聞いていて?」
「巫女としてこの町の神に認めてもらうための儀式だとうかがいました」
「その儀式を終えたら、正式に巫女になってもらうって」
 娘たちは不安げに口をそろえた。

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2005.2.23.