海神の花嫁
5.
「だが、トロールがなぜこんなところに? 彼らがこんな岸近くに現れることなど、ありえないはず……!」
波間から跳ねた巨大な悪魔鯨が、再び波の合間に消え、と同時に波のしぶきが島の海岸線に大きく降りかかった。
「たぶん、これも“沈黙の封印”が解かれた影響」
手刀を斜めに構えた青珠が静かに言った。
「封印が解かれた大陸に引き寄せられ、この海域に迷い込んだトロールが、偶然にも人間の味を覚えた。──祈祷所で祈っていた巫女がトロールに襲われたんだわ」
「化け物!」
両手で剣を持ち直し、震える声でシーラが叫んだ。
「……これは海王神じゃない。でも、この大きさ──! とても刃向かえる相手じゃないわ……!」
「逃げても追ってくるぞ。僕たちは奴の餌なんだ」
やはり剣を構えたユリウスが、恐怖を隠せないシーラを必死に鼓舞する。
「こんな化け物を相手にどうやって戦えというの? 剣がなんの役に立つの!」
「落ち着け、シーラ。ここは僕と青珠に任せろ。君は自分の身をしっかり護るんだ」
悪魔鯨は祈祷壇周辺の様子を窺いながら、壇の近くをぐるぐると円を描くように泳ぎ廻っている。
怪魚を中心に荒れ狂う波の中、何十本もの剣の刃を立てたようなその背びれだけが陸から見えた。
海上は、陸は、立っているのも困難なほどの激しい風が吹き荒れている。
強風に煽られ、マントがはためく。
篝火の炎は狂ったように揺れている。
それほどの風をいとも容易く受け流し、巫女の衣裳に身を包んだ青珠の身体が、ふわりと空中に浮かんだ。
「ヘカス、ヘカス、エステ、ベベロイ!」
空中浮揚した青珠はその位置を維持し、右手で作った手刀で東に向かって大きく六芒星を描いた。
風に、蒼い髪がなびき、斎衣の裳裾が翻る。
「大いなる東方の聖守護天使ラー・ファー・エィルの御名によりて、汝、我に力を貸したまえ。汝ら、東方を守護する天使の眷属・風の霊たちよ。この地に荒れ狂う海の風を鎮めたまえ──!」
その言葉が終わると同時に、一陣の突風が吹き、そのあと、あれほど激しかった風がみるみるうちに治まってきた。
シーラが驚いて周囲を見廻す。
「青珠、縛しろ!」
ユリウスの言葉にうなずいた青珠は、次に、西の空間に向かって、手刀で大きく六芒星を描いた。
「大いなる西方の聖守護天使ガー・ブリィー・エィルの御名によりて、汝、我に力を貸したまえ。汝ら、西方を守護する天使の眷属・水の霊たちよ。忌まわしき海の魔物の水の枷となれ──!」
怪魚を中心に渦巻いていた波が、突如、不自然に逆に動き、怪魚に襲い掛かったようにシーラには見えた。
「──縛!」
水中を自在に泳ぎうるはずの怪魚が、波に捕らわれ、もがいた。
怪魚の二本の角から──角のように見えたものから大量の潮が噴出して、高く水柱を作った。
「今だ──!」
燃えさかる篝火に近づいたユリウスが、抜き放った剣の先で篝の中の松明を刺して、取り出した。そして水際へ走り寄り、剣を振って火のついた松明をトロールめがけて投げつけた。
「青珠、焼き殺せ!」
青珠は眼を伏せ、南に向かって六芒星を描いた。
「大いなる南方の聖守護天使ミィー・カァー・エィルの御名によりて、汝、我に力を貸したまえ。汝ら、南方を守護する天使の眷属・火の霊たちよ。忌まわしき海の魔物の身を覆いつくせ!」
松明の炎が青珠の操る火の霊たちによってみるみるうちに勢いを増し、悪魔鯨を呑み込んだ。
「やった──?」
シーラが歓声を上げるまもなく、トロールは海中へ潜行した。
尾ひれが海面を叩き、まるで津波のように海水が陸に打ち上げられた。──祈祷所はすでに水浸しである。
おびただしい噴煙とともに、じゅうっ!という音がして、トロールを包んでいた炎は消えた。
「──駄目か」
大きく息を吐いたユリウスが、額の汗をぬぐって、青珠に目配せした。
「僕が出る」
「駄目、ユーリィ、危険すぎる」
空中にあった青珠がユリウスのもとへ降り立った。
「奴の体内にもぐり込む。火と水で援護してくれ」
「待って。トロールはあなたが考えている以上に獰猛よ。わたし、まだやれるわ」
そして青珠はシーラを顧みた。
「あなた。わたしが合図したら、さっきユーリィがしたみたいに松明を投げて。トロールの口の中へ」
「あ──え、ええ」
体勢を立て直しつつあるトロールに向き直り、青珠は口の中で小さく呪文を唱えた。そして、何か小さなものを海へ投げ込んだが、それが何かは判らない。
ただ一瞬、篝火の炎の光をきらりと撥ねた。
「水の霊たちよ──嵐をまとう海の魔物の戒めとなれ!」
青珠の操る水が凄まじい勢いで怪魚を襲う。
トロールが激しく身悶えし、水の戒めから逃れようと暴れた。叩き付けるような波が祈祷壇に打ち寄せる。
苦しげにもがく怪魚が叫ぶように大きく口を開けた。
「松明を──!」
青珠の合図で、ユリウスとシーラの二人が篝火の中から松明を剣で刺して取り出し、怪魚の口中へと次々に投げ入れた。濡れた祈祷壇の床は滑りやすく、濡れた長い衣は足にまつわりつき──足場は悪いが、シーラはもう必死だった。
口内を焼かれたトロールは、反射的に海水を口の中へ流し込もうと躍起になったが、そのとき、闇がトロールを包み込んだ。
「なに? あれは──」
呆気にとられたシーラが驚きの声を上げる。
それは、“影”であった。
怪魚を見据え、青珠は静かに呪文を唱え続ける。
全身を“影”に覆いつくされたトロールは激しく暴れたが、影の戒めは解けず、体内の炎を消すことはできない。苦しみ、のたうちまわる怪魚は、その輪郭だけが闇に黒く浮かぶ巨大な影絵のようにも見えた。
さらに青珠が右手を振ると、するすると怪魚の影が祈祷壇まで伸びてきた。
ユリウスがはっとする。
これは“影使い”の技だ。
ユリウスは剣を逆手に構えた。
足許まで伸びてきた怪魚の影を見据え、その心臓の位置を探る。
──どこだ……
ふと、ある場所から、わずかに怪魚の鼓動を感じたような気がした。
「そこか──!」
ユリウスは、一気に地面に──怪魚の影に、剣を突き立てた。
「何をしてるの、ユリウス?」
シーラの怪訝な叫びと、漆黒の怪魚が激しく痙攣するのとが同時だった。
はっとしたシーラがトロールを振り返る。
「トロールが苦しんでる……! なぜ?」
悪魔鯨の痙攣はかなり長く続いていた。
「火の霊たちよ──炎よ、忌まわしき海の魔物の体内に満ちよ」
長い髪が風に流れ、厳しい表情の青珠が冴え渡る水晶のように美しい。象牙色の巫女の衣裳をまとう彼女こそ、守護天使そのものではないのか。
「──散!」
途端に、怪魚を捕らえていた波が、ざっ!と解放されたようにうねり、その勢いで祈祷壇に押し寄せた。
「きゃっ……」
「シーラ、足場に気をつけろ!」
波をかぶってその水圧に押し倒されたシーラに、片膝をついて影に剣を突き立てたままの姿勢のユリウスが叫ぶ。
二人はこの闘いの間に全身に海水を浴びていたが、青い石の精霊はひとしずくの水もその身に受けていなかった。
「ユーリィ、もういいわ」
青珠の言葉にユリウスが剣を引き抜くと、海面が割れ、一旦波間に消えた巨大な怪魚の姿が、“影”から解き放たれ、横向きにゆっくりと海上に浮かび上がってきた。
海にぽっかりと浮かんだ。巨大な丘のように。
もう動かない。
──死んだのだ。
波も風も──辺りは静けさを取り戻しつつある。
剣を鞘に納め、ユリウスが立ち上がった。
シーラは茫然と濡れた祈祷壇の上に座り込んでいる。
ふわりと空中を浮遊した青珠は海の上に降り、海面に手を伸ばして、波が運んできた小さな何かを拾い上げた。
依然、篝火は燃えている。
波しぶきや強い風を受けて、なお炎が消えずにいるのは、青珠の操る風の霊たちの守護の力によるものだった。
手にした何かを見つめ、青珠はユリウスのすぐそばに降り立った。
「こんなところでロズに助けられるとはね」
「それは?」
青珠は波間から拾い上げたものをユリウスに見せた。
それは、黒真珠を嵌めた指輪であった。
「あなたが指輪にしてくれたカルムの黒真珠。ロズの影を封じた真珠よ」
「ロズの影?」
「そう。ロズはカルムの真珠に己の影を宿らせ、魔術に用いているの。今回はその“影”を使わせてもらったわ」
黒真珠を海に投げ込み、封じられていた“影”を解き放って操った。
「彼ほどの魔道師の影を、彼以外の者が使うことが可能なのか?」
青珠はくすりと笑って、ユリウスの濡れた前髪をかきあげた。
「わたしは精霊よ。人間の使う術の真似くらい、わけはないわ」
ユリウスは青珠に微笑み返した。
まるで何事もなかったように、静かな満月が辺りを照らしている。
聴こえるのは穏やかな波の音だけ。
「……どうなったの?」
放心したように、座り込んだまま尋ねるシーラを、ユリウスと青珠は振り返った。
「ユーリィが、トロールの心臓を剣で刺し貫いたのよ」
「どうやって……?」
「あなたがその眼で見た通りよ」
シーラは呆然としたまま、ユリウスを見遣った。
「つまり、魔術を用いたんだよ」
* * *
海王神殿の祭司は狂信者だった。
海神の花嫁は、悪魔鯨に捧げられる餌だった。
祭司は悪魔鯨を海王神だと狂信し、町の繁栄を願って、それに贄を捧げていたのだ。それに町の長も加担していた。
まさに、トロールは邪教の神だったのだ。
夜が明けると、シーラは町の人たちを海王神の島に呼び寄せ、全てを明らかにした。
トロールの屍骸を見せ、一年半もの間、海神の花嫁たちが辿ってきた運命を人々に暴露した。
巫女の数が足りなくなると、祭司は長に命じて他所の小さな町や村から出稼ぎの娘たちを集めさせ、仕事を与えると騙し、次々と島に送っていたのだ。
真相を知っていたのは、祭司と長、そして海王神殿の二人の神官のみ。
町の長自らが、生贄になる娘たちを探し集めていたという。
人々の驚きと怒りはいかばかりであっただろうか。
「祭司や長は、町の人たちが裁くだろう」
巡礼の黒衣に身を包み、ユリウスが青珠に言った。
「海王神の島には、生贄にされた娘たちの慰霊碑が建てられるらしい」
宿屋の一室。
黒い布を髪に巻き、荷を手に取ったユリウスは、扉を開けて、窓辺にいる美しい精霊を振り返った。
左耳の耳飾りが揺れる。
「行こう、青珠」
微かに微笑んだかに見えた青珠の姿がすっと消えたのを確認して、ユリウスは部屋を出て扉を閉めた。
ようやく町の人々からの質問攻めから解放されたシーラが、エルゼとともに宿を訪れたとき、そこに、すでにユリウスの姿はなかった。
「行ってしまったのかしら。あたしたちに何も言わず……?」
ああ、あの巡礼の人なら、ずいぶん前に旅立ったよ──
そう宿の使用人から聞いたシーラは、信じられない思いで宿を飛び出し、狭い町の中を滅茶苦茶に走った。
「まだ、何にも話してない。お礼だってひと言も……!」
自然と涙があふれてきた。
町のどこにも、黒衣の姿はない。
町の出口で、呆然とその先の道を見つめて立っているシーラのもとに、エルゼが追いついてきた。
「シーラ」
シーラは慌てて涙を拭いた。
「エルゼ。ユリウスは行ってしまったわ」
エルゼは、シーラとともに道の先を、薄暗くなった空の彼方を見つめた。
「ユリウスさんと、そして、あなたのおかげよ」
今、町に住人の姿は疎らだった。
町のほとんどの者が、祭司たちを裁くため、そして悪魔鯨の屍骸を確かめに、海王神の島へ出向いている。
町の長と祭司、二人の神官は、島の海王神殿の一室に監禁されていた。
「長い一日だったわね、シーラ」
シーラは疲れたように笑った。
「あなたに化けて島に送られたのは、つい昨日のことなのよね」
「ほら、一番星よ」
二人の娘は空の彼方の夕星に向かって、祈る形に手を組んだ。
「ユリウスって……結局、何者だったのかしらね」
「あの人は──きっと、本物の海神の御使いよ」
そうつぶやき、エルゼはそっと微笑んだ。
≪ prev Fin.
2005.2.26.