海神の花嫁

4.

 海王神の島へは、四十分ほどで到着した。
「さあ、神の花嫁たち。海王神殿はこっちじゃ」
 船を下りた祭司は、先に立って歩き始めた。
<ユーリィ、さっきから、妙な風が吹いてる>
 青珠の声なき声に、ユリウスは唇だけを動かして答えた。
<僕も感じている。──なんだろう。今までに感じたことのない風だ>
 島の中央には棕櫚の木立ちがあり、そこを抜けると、闇の中、月明かりに神殿の建物がぼうっと仄白く浮き上がって見えた。
「あれが、海王神殿──
 シーラが小さくつぶやく。
「花嫁たち。祈祷は、海に面した祈祷所で行う。ついてきなさい」
 一行は、海王神殿の中へ入った。
 回廊を抜けて、最初の部屋は、広いホールのようになった空間であった。
「ここは、祈りの間じゃ」
 円形の広間の中央に、巨大なブロンズの像がある。
「そなたらが祈祷をしている間、わしはこの神像に祈りを捧げるのじゃよ」
 その像はとても奇妙な形をしていた。
「牛じゃ……ない……?」
 シーラが怪訝なつぶやきを洩らす。
 それは、牡牛に似た巨大な頭に二本の角を生やし、──だが、その胴体は陸のものではない。鱗はないが、太い足のようなひれ、二股に分かれた尾ひれはどう見ても海に棲む獣のものであった。
「祭司様、牡牛ではありませんわ!」
 驚いたシーラは、できるだけエルゼの声と口調を真似て、祭司に問いかけた。
「そう、牡牛ではない。これこそが、真の海王様のお姿じゃ」
「これが、海王様──?」
 見たこともない動物。
「そう、いにしえの人々は海上を駆ける牡牛と見た。だが、実際の海王神のお姿は、この像の通りなのじゃよ」
 祭司の深く皺の刻まれた赤ら顔が、ゆがんだ歓びに輝いた。
「一年半前、海王神は初めてこの島の祈祷所に現れなされた。それから、わしがこの像を造らせたのだ。わしは何度も海王神のお姿をこの目で見ておる」
「見ている──って……」
 シーラは恐ろしそうに巨大な神像を仰ぎ見た。
 この奇怪な動物が、実際に目の前に現れたというのか──
「さあ、花嫁たちよ、祈祷所へ参ろう。今宵、そなたたちも海王神の真のお姿をじかに拝することができよう」
 妖しげな笑みを浮かべ、祭司は歩を進めた。
 仕方なくそのあとに続くシーラ。そして、ユリウスと青珠。
 斎衣の上に象牙色の防寒用のマントを羽織り、その下に剣を潜ませて──

 海王神殿の祈祷所は、町の方向とは反対側の海に面していた。
 海面に張り出した正方形の広い露台──そんな印象であった。
「ここが祈祷所じゃ」
 冬の海からの風を全身で受け、陶酔したように独り言つ祭司の傍らで、同行して船を操っていた神官二人が、祈祷壇の上に松明を使った篝火の準備を始めた。
「零時になったら火を焚く。それが、祈祷の始まりの合図じゃ」
 祭司の目を盗み、シーラがそっとユリウスに近寄った。
「なんだか、話が違うわね」
 小さくささやく。
「奴隷商人なんかいないし、祭司様は本当に祈祷を行わせるおつもりだわ」
「風が生臭い」
 ユリウスはシーラの言葉を無視して言った。
「え?」
「気をつけろ、シーラ。これは奴隷商人より何倍も厄介だぞ」

 祈祷所の水時計が零時を告げた。
 海面が月を映している。
 大きな篝火が勢いよく燃やされ、静まり返った薄闇の中、辺りに火の粉が飛び散る様は幻想的だった。
 聴こえるのは波の音だけ──
 篝火を灯すと、祭司と二人の神官は、神の花嫁たちを祈祷壇に残し、神像のある広間に引き上げていった。
「これで、この鬱陶しいベールを脱げるわね」
 祭司たちが確かに姿を消したことを確かめると、シーラは無造作にベールをかなぐり捨てた。
「思ったより寒いわね。それで火を焚くのかしら」
「火は合図なんだよ」
 同じくベールを取ったユリウスが言った。
「祭司もそう言っただろう? ここに花嫁がいると、海王神に知らせているのさ」
 ふと気づくと、シーラがまじまじとユリウスを見つめている。
「……ユリウス、あなた、全然違和感ないわね」
「何が」
「巫女の格好」
 むっとした表情のユリウスを見て、シーラは慌てて両手を振った。
「やだ、綺麗だって褒めているのよ」
 シーラの目には、金糸で縁取りした象牙色のマントをまとうユリウスの姿が、まるで月の女神が降臨したような清らかさと神々しさにあふれて見えた。
 月明かりを浴びる彼はそれほど美しかった。
「二人とも、気をつけて」
 ベールとマントを脱ぎ捨てた青珠が海の彼方を見て言った。
「海王神のお出ましよ」
 水平線近くの波が、微かに揺れて見えた。
「お出ましって……何が? まさか、海王神が本当に姿を現すと思っているの?」
「神ではない。でも、愚かな人間がそれを神に祭り上げているのよ」
 静かな青珠の声は、冬の大気のように澄み、また冷ややかだった。
「神に祭り上げているって──いったい何を……」
「シーラ。剣はあるね?」
「ええ、でも──
「来る。すごいスピードだ」
 緊迫した二人の様子に、不安を隠せないシーラ。
 何が起こっているのかよく理解できないまま、彼女はマントの下から長剣を取り出し、鞘から抜き放った。
「見える? ユーリィ」
「この距離だ。人間の肉眼ではまだ見えない。でも、気配は解る」
 気配?
 それが何なのか、シーラには皆目見当がつかない。
 やがて、波の音が不気味に高くなり、それと同時に風も唸り始めた。瞬く間に、波も、風も、次第に嵐のように凄まじさを増していった。
 耳をつんざく風の唸り。
 ──あれは何だろう?
 何か大きなものが海面をこちらに向かって接近してくる。
 月明かりを浴びて、白い……
 あれは──獣……?
 シーラには、それが海上を駆ける巨大な牡牛に見えた。
「あれは……あれは、海王神──?」
 海を渡る、白い牡牛──
 その姿を目の当たりにして、ふらふらと海のほうへ引き寄せられるように歩くシーラの腕を、ユリウスが素早く掴んだ。
「惑わされるな、シーラ! あれは海王神じゃない」
「あなたにも見えるのでしょう、ユリウス! あれは神だわ! 海王神が姿を現したんだわ!」
「いや、神じゃない。あれは大海原の沖に棲む海の魔物だ」
 そのとき、激しい水しぶきが祈祷壇に叩き付けられた。
 ユリウスの掌がシーラの頬を打った。
「よく見ろ、シーラ。あれが、本当に君の言う神の姿なのか?」
「神──
 篝火は、依然、燃え続けている。
 激しい風と波の中、意外にも近い位置から──突如、波の合間から姿を現した巨大なそれを、その姿を、シーラははっきりと見た。
 牡牛のようにごつごつした顔。しかし耳はない。
 そそり立つように上を向いた牙。
 大木のような太い二本の角。
 長いひれは何かの動物の足のように見えるが、二股に分かれた尾ひれはこれが海の生物であることを示している。
 魚のような鱗は全くなく、首の周りを鋭く尖った髭のようなものが──これもひれだろう──取り巻いている。
 燃える炎のような邪悪な赤い眼は、大型戦車の車輪ほどもあった。
「トロール……!」
 その巨大さに驚愕したユリウスが叫んだ。
 目の前に現れた怪魚の異様な姿に度肝を抜かれたシーラは、恐怖のあまり、言葉を失っている。
 トロール──悪魔鯨とも呼ばれるそれは、体長約七十キュビット、鯨の仲間というより海の怪物であった。伝説によれば、その大きさは二百キュビットを超えるものもいるという。
 ユリウス自身、それを我が目に確かめたのはこれが初めてであった。

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2005.2.24.

キュビット(cubit)=約43cm〜53cm