奪われた青い石
1.
空を影がよぎった。
「……」
青珠が空を仰ぐ。
「……とり──?」
見えた、と思った刹那、それは消えた。
何か小さいもの。
「鳥? 鳥が、どうした?」
青珠より少し先を歩いていたユリウスが立ち止まり、振り向いた。
「……」
青珠はぼんやりと空を見つめている。
抜けるような青空だ。
白い雲がちぎれちぎれ、飛ぶ。
平和な、静かな空だった。
「なんでもない。──ただ、その姿をはっきりと掴めなかったものだから」
「おまえが?」
軽い驚きに見開かれたユリウスの碧い瞳を、青珠は見返った。
「おかしいわね。なぜか、胸騒ぎがするの」
微かに表情を曇らせ、再び影の消えた上空を仰ぐ。
「……わたしの思い過ごしならいいのだけれど」
冬の大気は澄んでいる。
蒼い空は青珠の髪の色にも似て、どこまでも美しかった。
ユリウスと青珠は小さな町にやってきた。
この辺りは大陸南部の国・オスリア王国の南東部になる。
南の海・緋海の海岸沿いから離れ、さらに北へ進むと、大陸を巡るアプア街道に出るはずだ。東の隣国・カヌア侯国との国境も近い。
宿の部屋に落ち着いて、荷を下ろしたユリウスは、真っ先に窓辺へと歩み寄った。
「ユーリィ?」
外の様子を窺うユリウスに、珍しく緊張が漂っている。
「おまえは気配を感じなかった?」
「気配?」
「気のせいかもしれないが、この町へ入った頃から、尾けられているような……」
わずかに眉をひそめ、青珠も窓際に近づいた。
「わたしが見た鳥のこと?」
「いや、生身の生き物というより、精霊に近い“気”だ」
窓の外の景色に特に変わった点はない。
石畳の道を人々が行き交い、商人は荷を運び、子供が遊んでいる。
「精霊は人間を尾行したりしないわ」
「解っている。でも、人間や鳥獣の気配とは、また違った感じがするんだ」
「町を廻ってきましょうか」
「いや、いい。本当に気のせいかもしれない」
扉がノックされ、宿の使用人が暖炉に火を熾しにやってきた。
石造りの暖炉にやわらかな火が熾されると、火影がふわりと部屋を明るくした。
そうして初めて、そろそろ薄暗くなる時刻だと気づく。
宿の者が退出してから、青珠が何気なく棚のランプを手に取ろうとして、言った。
「灯りを点けましょうか?」
だが、返事がない。
「ユーリィ?」
振り向くと、ユリウスはじっと立ちつくし、まるで初めて見るもののように暖炉の火を見つめていた。
火が揺れる。
炎が揺らぐ。
そして、問う。
“約束を、覚えているか?”
「ユーリィ!」
碧い瞳に炎を映したユリウスが、まるで催眠術にでもかかったように、ふらふらと暖炉へ近づき、その前に膝をついたのを見て、青珠は叫んだ。
とっさに彼女は背後からユリウスの肩を抱き寄せ、彼の肩越しに暖炉の炎へとふっと息を吹きかけた。
「……っ!」
はっと我に返ったユリウスは、力が抜けたようにその場に座り込んだ。
「何を聞いたの?」
黒衣の肩に手を掛け、青珠が厳しく問うた。
「火の霊はあなたに何を言ったの?」
燃えさかる炎を見つめるユリウスは茫然としている。
「火にまじないが掛けられていた。炎の中にいた精霊は何者かに操られていたわ。わたしの吐息でそれを消した。火の霊は何て言ったの?」
「約束……」
ユリウスは掠れた声で機械的に言った。
遠い記憶が警鐘を鳴らす。
「約束を……覚えているかと」
「約束?」
うつむくユリウスはひどく混乱したように額を押さえる。そんな彼の顔を覗き込み、青珠は同じ言葉をくり返した。
「約束って何? どんな約束なの?」
「判らない……」
「ユーリィ」
青珠は気遣わしげに彼の髪に巻いた黒い布を解き、まとったままの黒い外套を脱がせた。
されるがままのユリウスは微かに慄いている。
「何だろう……なにか、とても恐ろしい感じがする」
「その約束の内容が? 約束の相手が?」
「判らない」
ユリウスは首を振った。
青珠は彼を立ち上がらせ、寝台に腰掛けさせた。
「どちらにせよ、誰かが火の霊を使ってメッセージを送ってきた。普通の人間では理解できない方法で。その誰かは、ユーリィが精霊の声を聞く力を持っていることを知っているのね」
「……」
「あなたの勘は当たっていた。誰かがあなたのあとを尾けて火の霊を使った。魔道師かしら」
「ロズ以外の魔道師に知り合いはいないよ。なぜ、そいつは直接この宿へ僕を訪ねてこないんだ?」
「宿の人間は?」
「この宿に不審なところはない。おまえもそう思うだろう?」
「何も──心当たりはないの?」
用心深く問いかける青珠の声が低い。
彼女はユリウスの足許に膝をつき、下から彼の顔を見上げるようにして見つめた。──翳りを帯びた碧い瞳はそれでも美しい。
己の誕生や見たこともない母のことも記憶しているユリウスだ。
たとえちょっとしたことでも、このように特異な方法で接触してくる人物に心当たりがあれば、すぐに思い出すだろう。
それができないでいる。
しかも、彼が恐れを抱いていることに青珠は違和感を覚えた。
彼らしくない。
それが彼に害を与えるものだとして、いつものユリウスなら、淡々と避けるか、正面から受ける準備をするだろう。
敵はいないはずだ。
家族もない。
過去に友人や知己は?
青珠は、彼自身がたまに語ること以外、自分がユリウスの過去をほとんど知らないことに気づいた。
「わたしと初めて逢ったとき、あなたはすでに巡礼の途中だったわね。それ以前は傭兵をしていたと。その頃の知り合いでは?」
「いや。傭兵仲間に魔道師はいないよ。誰かと何かの約束をした記憶もない」
「傭兵の前は、どうしていたの?」
寝台に腰掛けるユリウスは、眼を伏せて、額にかかる金髪を軽くかきあげ、首を横に振った。
「それ以前の記憶は曖昧なんだ」
青珠は直感した。
おそらく彼は、自分でその記憶を封じたのだろうと。
「子供時代は?」
「どこかの家庭に預けられていた。いつも、ディリスと一緒にいたな」
「ディリス?」
「その家の子供だよ。僕と同じくらいの年頃の女の子で、兄妹のように仲が良かったんだ」
「その家を離れたのはいつ?」
ユリウスの瞳が昏く揺れた。
「いつだろう。なぜ、僕は傭兵という職を選び、いつから戦場に身を置いていたのだろう?」
「きっと、その記憶が曖昧な頃に、誰かと何かの約束があったということね」
立ち上がった青珠はテーブルの上の水差しに手を伸ばした。
その水をコップに注ぐとき、小声で小さく呪文を唱える。刹那、ユリウスの左耳の耳飾りに象嵌された青い石がきらりと光を撥ねた。
青い石の精霊は流れるようにユリウスを振り返り、寝台に近寄って、手にしたコップを差し出した。
嫌な胸騒ぎがする。
けれど、凛として青珠は言った。
「飲んで、ユーリィ。この水があなたを守るわ」
受け取ったコップの水をユリウスは一気に飲み干した。
返されたコップをテーブルに戻し、身を翻した青珠は部屋の扉に手を掛けた。後頭部に結い上げた、精霊のアイス・ブルーの長い美しい髪が揺れる。
「待ってて。夕食はここへ運んでもらうわね」
「ああ。悪い」
青珠が部屋を出たあと、残されたユリウスは記憶をたどるように天井を見上げ、その視線を暖炉の火へと向けた。
火の霊は何を言おうとしたのだろう。
──約束。
(その美しい人)
ユリウスははっとした。
何かのビジョンが脳裏によみがえる。
蘇芳の髪。琥珀の瞳。象牙の肌。
あれは誰だろう?
彼はじっと暖炉の炎を見つめた。
火の霊の残像が、ユリウスの記憶をじわじわと呼び起こす。
同時に湧き起こるこの感情は恐怖だろうか。
(怖い? 何が?)
“一年後の夏至の日に、迎えに来よう──”
不意に大きな羽ばたきが風圧となって、部屋の窓を激しく震わせた。
「!」
とっさに剣を掴んだユリウスは窓辺に寄った。
壁に背を寄せ、薄暗くなった外を窺う。
(鳥──?)
室内は暖炉の火だけで照らされ、夕闇のような影が漂っていた。
(夏至? 誰が言った?)
混乱が眩暈を引き起こす。
再び羽ばたきの音が聞こえ、窓の外を濃い影が横切った。
呼吸を整え、そっと片手を伸ばし、窓の掛け金に指をかける。
この部屋は一階だ。
次の瞬間、ユリウスは素早く窓を開けて、軽やかに窓枠を越えて外へ出た。
2018.10.23.