奪われた青い石

2.

 宿の部屋の窓の外は裏通りに面していた。
 周囲の石造りの家々の窓からは灯された明かりが洩れている。
 剣を手に、ユリウスは注意深く辺りの気配を探った。

 バサバサッ──

 鳥の羽ばたきの音とともに頭上を大きな影がよぎる。その影を追って、ユリウスは音もなくしなやかに裏通りを駆けた。
 淡い金髪が風になびき、左耳の耳飾りが揺れる。
 ふと気づくと、その町の中心の広場まで来ていた。
 背の高い街路樹が暗くそびえ、その街路樹の高い枝に羽を休める黒い影があった。
(鳥……)
 青珠が見失った鳥だろうか。
 だが、その気配は複数あった。
 黒い影。
 視線を感じる。
(鴉……? いや、あれは)
 猛禽だ。大きい。
 鷲──
(なぜ、こんな町中に……)
 いつの間にか辺りは夜陰に包まれていた。
 広い広場。高い木々。
 左手に持った剣の柄に右手をかけ、ユリウスは大気の精霊の声に耳を澄ませた。
 冷たい冬の大気。
 三羽いると、精霊たちが告げる。

 バサバサバサッ──

 出し抜けに大きな黒い影が飛び立った。
 樹上の一羽が一度空へと舞い上がり、こちらへ向かって急降下してくる。常人には聞こえない風を切る鋭い音が、ユリウスの鼓膜を震わせた。
 続いて、二羽目が飛来する。
 広げた翼は優に四キュビットはあろうか。大鷲たちは明らかにユリウスを狙っていた。
 広場に人影はない。風の音を捉え、鷲の速さと己との距離を測る。
 彼に向ってくる大きな翼の影をひらりとかわし、ユリウスは躊躇いなく剣をふるった。ざっと羽を斬る音が不気味に響き、手応えを感じると、返す刃でもう一羽の首を狙う。
 血しぶきが飛び、瞬く間に二羽の大鷲が地面に落ちた。
 だが、重い音とともに地に落ちた瞬間、大鷲の姿が変化した。
(……っ!)
 そこに伏しているのは二人の人間の男だ。
 若く逞しい男たちで、二人とも生成りのキトンを身にまとっていた。
(人間──?)
 頸動脈を斬られ、すでに絶命している。
 驚いたユリウスは空を仰ぎ、三羽目の気配へと注意を向けた。
 残る大鷲が風を切る音にユリウスが身構えたとき、いきなり辺りに声が響いた。
「やめろ、アルタイル」
 ユリウスははっとなる。
 辺りに人の気配はない。声は頭上から降ってきた。
「二人は死んだ。おまえ一人で敵う相手じゃない。拉致は断念して、朱玉しゅぎょくの指示を待て」
 ユリウスに迫ろうとしていた大鷲が旋回し、羽ばたきの音とともに上空へと遠ざかる。その漆黒の影を確認することができた。
 しかし、声の主は何者だろう。
 声は若い男のものだ。
「誰だ!」
 ユリウスは頭上に向かって叫ぶ。
「鳥たちを操っていたのはおまえか! 姿を見せろ!」
 見えない声の主は低い声でくくっと笑う。
「ファティマ様の配下、とでも言えばいいか? おれの名は彩羽さいは。いずれまた会うだろう」
「彩羽? ファティマとは誰だ!」
「ファティマ様の名を知らないのか? 朱夏の魔女、といえば解るか?」
 朱夏の魔女──
 それは大陸でも伝説的な魔女の通り名だった。
 千年もの刻を生きているという噂があり、大陸に沈黙の封印が施された以前の魔人の生き残りであるとも、また、一人ではなく、代々“朱夏”という名を継承した何代もの複数の女性魔道師のことだともいわれている。
 実在しているのかさえ疑わしい人物だ。
「朱夏……が、関係しているのか……?」
「約束通り、おまえを迎えたいとのファティマ様の仰せだ。ユリウス。ファティマ様はおまえに会いたがっておられる」
「約束……?」
 炎が伝えた。
 “約束を、覚えているか?”
(その美しい人)
 息を呑み、愕然となったユリウスは言葉を失い、闇に向かって大きく眼を見張った。

 “一年後の夏至の日に、そなたを迎えに来ようぞ──

 その美しいひとは、確かに“朱夏”と名乗った。
「ユーリィ!」
 突然、青い石の精霊の声が聞こえた。
「何者!」
 剣を手にしたまま、驚愕のあまり動けないでいるユリウスの前にふわりと降り立ち、青珠は町の広場を囲む街路樹のある一点を凝視して叫んだ。
「翼ある者、名を名乗りなさい。昼間、上空からわたしたちを監視していたのは、なぜ?」
「監視?」
 ユリウスが驚く。
「ユーリィに危害を加えるつもりなら、容赦はしないわ」
 くくくっと姿を見せない声の主が笑う。
「青い石の精霊のお出ましか。ユリウスにはもう名乗ったぞ。おれは彩羽だ。ユリウスを殺すつもりはない」
「だが、おまえは……鳥たちを使って僕を襲っただろう!」
「多少は手荒にしてもいいとのお達しでね。珠精霊を相手にするつもりはない。退散するよ」
「あっ、おい──!」
 上空を旋回していた最後の大鷲がどこかへと飛び去った。すると、何者かの声もぷつりと途絶えてしまった。
 広場にはユリウスと青珠、そして、二人の男の屍だけが残された。


 夜の広場から宿へと戻ったユリウスは、言葉少なに、青珠に促されるままテーブルについた。
 テーブルの上にはランプの灯が揺れ、スープに冷肉、温野菜、パン、そして葡萄酒のゴブレットが並んでいる。
 未だ緊張が解けず、食欲はない。
「ユーリィ」
 青珠は心配げに彼を見た。
「外套も着ずに外へ出て、こんなに冷えているわ。とりあえず食事をして、睡眠をとってちょうだい」
 暖炉には赤々と火が燃えている。
「……青珠。おまえは彩羽の姿を見たのか?」
「あなたには見えなかった?」
 問い返され、ユリウスは思いつめた様子で、気だるげに夕食に手を付け始めた。
「鷲かな、三羽の鳥はすぐに解ったけど、彩羽だけは、彼が声を発するまで気配すら掴めなかった」
「彼も“鳥”よ」
 美しい青い石の精霊は、あっさりと言った。
「けれど、魔道師の使い魔の類ではなさそうね」
「鳥?」
 うなずいた青珠は椅子を引き、ユリウスの向かい側に腰を下ろした。
「昼間、わたしが姿を捉えそこなったのは彼だわ。彼は鳥だけど、鳥じゃない。人間だけど、もう人間でもない」
「どういうことだ?」
「あなたが斬った二羽の鳥は、死後、人間の姿になったと言ったわね。術を掛けられ、鳥の姿をしていた者が、死して、本来の姿に戻ったの」
「じゃあ、彼らは元は人間……」
「そういうことね」
 ユリウスは機械的に食事を続けた。
 冷めたスープは味気ない。
「でも、ユーリィ。わたしが感じたのは彩羽の尾行で、あなたが感じたのは彩羽の気配ではない。彩羽は生身で精霊ではない。彩羽や鳥たちを操っている者が他にいるわ」
「そういえば、誰かの指示を待つと言っていた」
 朱夏の魔女・ファティマが指示を出しているのだろうか。
 ユリウスは手にしたスプーンを置き、向かいの青珠へ片手を伸ばす。
「青珠、手を」
 差し出された青珠の白い手をユリウスは黙って握った。
「見える?」
「ええ。これは誰?」
 眼を閉じて青珠は答えた。
 鮮明ではなかったが、遠い記憶の映像を思念にして、握った手を通して彼女に送った。
 それは、美しい、とても美しい、蘇芳色の長い髪の二十代半ばに見える背の高い女性だった。
 彫像のような美貌。肌は象牙の如く、アーモンド形の眼は琥珀色だ。
「僕が七歳のときだ」
 瞼を開けた青珠の青い瞳を見て、ユリウスは言った。
「過去に一度だけ、この人に会った。誰だか知らない。ただ、とても恐ろしかった」
「傾国の美女といった印象ね」
「彼女は一年後に僕を迎えに来ると言った。その日は僕の誕生日だった。そう、ちょうど夏至の日だ」
「八歳のあなたを迎えに来ると? で、彼女は来たの?」
 冷たい手で青珠の手を握りしめ、その手をユリウスはそっと離した。
「判らない。たぶん、彼女にとって、それが“約束”なんだろう。でも、思い出した。僕は逃げたんだ」
「……」
「彼女が恐ろしくて、本能的に逃げなければと思った」
「彼女は何者?」
 ユリウスは強い視線で青珠の澄んだ青い眼を見遣る。
 彼の左耳の耳飾りが微かに揺れた。
「……彼女は僕に、“朱夏”と名乗った」
「朱夏──ですって──?」
 青い石の精霊は思わず立ち上がり、身を乗り出した。
「ユーリィ! 朱夏の魔女に会ったことがあるの?」
「青珠なら知っているか? 朱夏とはどういう人物なんだ」
 テーブルの上のランプの灯が静かに揺れている。
 真っ直ぐなユリウスの瞳を見て、青珠は眉をひそめて腰を下ろした。
「知らないわ。噂ならいくつか。──でも、朱夏に会ったことのある人間がいるなんて……あなたの言葉でなければ信じないと思うわ」
「僕だって信じられないよ。あの人は本物の朱夏の魔女なんだろうか。この恐怖の正体が何なのか、思い出したくもなかった」
「恐怖の対象は……朱夏を名乗った女性?」
 ユリウスは小さくうなずいた。
「七歳か八歳のあなたは、朱夏から逃げて、そして、その記憶を封印したのね。朱夏の魔女への恐ろしさゆえに」
「だが、朱夏は彩羽を迎えによこした。朱夏はまだ、僕に会いたいらしい」
「……あなたは、会いたくないのね?」
 暖炉の火に視線を移し、ユリウスは記憶の糸を辿った。
「会ってどうなるのか、全く予測がつかない」
「ひとつだけ、予測できることがあるわ」
 凛然とした青珠の声に、ユリウスはわずかに眼を見開いた。
 暖炉に火が燃える室内は暖かだ。
 そして、平和に見えた。

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2018.11.2.

キュビット(cubit)=約43cm〜53cm